(六)別離




軍医はしばらく安静にするように、と言い渡して部屋を辞去した。
周瑜はゆっくり体を起こそうとしたが、孫策に止められた。
「……てっきり石女(うまづめ)だと思っておりましたのに」
孫策はみじろぎもせず、じっと周瑜を見つめていた。
孫策は座った膝についた両拳に力を込めて、何かを我慢しているように見えた。

「……俺は、馬鹿だ」

孫策は押し殺したような呟きを口にした。
「おまえを抱いたあの時から、こうなることくらいわかっていたはずなのに……」
「伯符様のせいではありません。それに行軍に参加することは私が自分で決めたことですから」
「おまえに行軍を許したのは俺だ」
「少し休めば大丈夫ですから」
「だめだ。これ以上はおまえを同行させられない。俺の子を流すつもりか」
「……」
周瑜は孫策に向けていた視線を天井に向けた。
「どうして……私は女などに生まれたのでしょう。男でさえあれば、もっと伯符様のお役にたてるのに」
「おまえは充分役に立っている。今は余計なことを考えず安静にしていろ」
「ですが……」
「いいから」
孫策は周瑜の枕元に手をついて顔を覗き込んだ。
いつになく、優しい顔であった。
それが逆に周瑜を不安にさせた。
「伯符様……。私が女であることを、皆に話してしまわれるのでしょうか」
「ああ……そうなるだろうな。今まではごまかせても子が生まれるとなると、そうはいかんだろう」
「……」
周瑜は目を瞑った。何か考えているようだった。
「……何を考えている?」
その双眸をふたたび開いて孫策を見つめる。
「伯符様。……私はここでお暇をいただきとうございます」
「何?」
「目的を果たせぬままで残念ですが……これ以上私が一緒にいては伯符様のお邪魔にしかなりません」
「……何を言っている……そんなことは許さんぞ!」
「私に生き恥をさらせとおっしゃるのですか」
「……なんでおまえがそんなことを言うんだ。別に女だとわかったからどうだと……」
そこまで言って孫策は、はっと気づいた。

孫策には大喬という正夫人に定めた女がいて、男子も生まれたばかりであった。
周瑜が自分の子を産むとなると、その立場は側室か愛妾ということになる。
周瑜にとっても大喬にとってもそれは微妙な問題になるであろう。
それに第一、周瑜が側室になって喜ぶとは思えなかった。
孫策としては周瑜を傍に置きたい。
だが今となっては妻に対してそれなりの愛情もある。

「私が女だというだけで、いろんなところで迷惑がかかります。それならばいっそ、誰にも何も知らせずこのまま去りたいのです」
「…俺の元を、去ると言うのか」
孫策の声は低く、少し震えているように聞こえた。
周瑜は目を伏せて応えなかった。
「……去って、どうする?」
「どこか、戦乱の及ばない静かな田舎でひっそりと暮らそうと思います」
「子は、どうする」
「……」
また、周瑜は目を閉じた。
孫策は悟って、かっとなった。
「産まぬつもりか!」
「覇王の血は多すぎると争いの種にしかなりませぬゆえ」
「ならん!それは許さん!」
孫策の口調がいつになくきつくなった。
周瑜は名門の周家の娘である。家柄から言っても周瑜との子の立場は大喬との子よりも強い者になろう。周家が後ろ盾につくとなれば跡目争いに発展するやもしれぬ。
周瑜の言っていることは正しいのかもしれなかった。
だが、孫策は愛する女に自分の子を産ませたいと願う気持ちが強かった。
「俺は、おまえも、おまえの子もこの手に抱きたい」
「……。お許しください。なにとぞ……」
周瑜は力なく起き上がって、哀願した。
孫策はその周瑜の肩を抱きとめるように支えた。
「一緒に呉都へ帰ろう。後のことはゆっくり考えれば良いではないか」
孫策はできるだけ優しく言ったつもりだった。
「……お許しください。呉都へ参るならば、子は産めませぬ」
孫策はあくまでかたくなな周瑜に苛立って声を荒げる。
「では、おまえは一体、どうしたいのだ!どうすれば、おまえも、子も、俺の元にいてくれる?」
「……これまでどおり、私を男として扱ってください。そして私をこの地に駐屯させてくださいませ」
「この地におまえを置いて行くだと?身重のおまえを、か?馬鹿なことを言うな!」
孫策は勢いづいて周瑜の肩を強く掴んだ。
周瑜は少しうめき声をあげた。
孫策はすぐに手を緩めたが、目は動揺を隠せなかった。

「一体、おまえは何を考えているのだ!」
周瑜は一瞬、唇を結んだ。それから口を開いた。
「伯符様は主だった武将をすべて率いて呉都へお戻り下さい……ここには一万の兵だけで充分です。私の周りには側近しか置きません」
「この地で、子を産むつもりなのか」
「……なにとぞ、子は周家の子として育てる事をお許しください」
「なんだと」
「お許しくださらねば産むことはできません」
一度言い出したらきかない性格を、孫策は嫌と言うほどわかっていた。
無理矢理呉へ連れて帰ろうとするなら、この周瑜のことだ、行く先も言わず行方をくらましてしまうかもしれない。
孫策は大きな溜息をひとつついた。
戦より難しい問題であった。
「周家の子として、か。あくまでもおまえは男として有りたいのだな。不思議なものだ。……それは許そう。だがそれは俺の子だ。忘れるなよ」
「はい……ありがとうございます」
顔を伏せて礼を言う周瑜を、孫策は複雑な思いで見ていた。

「なあ、公瑾。…ひとつ聞いておきたいんだが…おまえが普通の女であったならば俺の妻になっていただろうか」
神妙な顔で尋ねる様が少し可笑しくて、周瑜は微笑んだ。
「私が普通の女であったならばこうして伯符様のお傍にいることはなかったかもしれません」
「…どうしてそう思う?」
「だって…私達はお互いに少年同士として知り合って親交を深めたのですよ。私が女だと知っていたら伯符様は相手にしてくださったりはしなかったでしょう」
「そんなことはないぞ。おまえのような美女がいると知っていれば父上のようにきっとおまえを攫いに行ったはずだ」
周瑜はくす、と笑った。
「いっそ、そのような出会いであったなら良かったのかも知れませんね」
「だがそうなると俺は優秀な参謀を得られないことになるな」
「伯符様にとってはどちらが良かったのでしょうか?」
周瑜が少しからかうように言った。
「俺はどちらも手に入れた。だから今こうしている。未来のない過去になど、用はない」
孫策はきっぱりと言い放った。
薄く、目だけで笑いながら周瑜は孫策を眩しい思いで見た。
この男には小手先の問答など通用しないのだ。
そこにあるのは確かな存在感と自信、それがこの男の言葉に絶対的な信頼感を与えていた。

「伯符様…周瑜はこれ以上ない程感謝しております」
うっすらと潤む瞳を見て、孫策の表情は再び緩んだ。
「あとは……なにかないのか。俺にできることは」
「小喬を呼び寄せることをお許しください」
「なんだ、そんなことくらいいつでも許す」
「ありがとうございます」
「……そんなんじゃなく、だな……」
孫策は子供のように唇を尖らせた。
周瑜に女としてもっと自分を頼って欲しい、と思うのは自惚れだろうか、と思う。
「もう充分です。これ以上望んでは天罰が下ります…私の我儘なのですから」
周瑜の言葉に、孫策は笑った。
「おまえは昔っから頑固だからな。言い出したらきかないのはこの俺が一番良く知っている」
と、言いながらもうまくのせられた気がする。孫策は苦笑した。
「おまえ、よくも子をたてに俺を脅したな。このツケは高くつくぞ」
そう言って孫策は周瑜の唇を唇で塞いだ。



孫策は周瑜を江夏太守として、駐屯させることにした。
巴丘というところに居を構え、東と南に睨みをきかす、というのが表向きの理由であった。
実際のところ、今の周瑜に呉都への長旅はどだい無理であった。
まだ、都として充分治まっていない呉都では野党・盗賊の類が跋扈し、住民たちを悩ませていた。
そのため、孫策をはじめ、主だった武将たちは呉へと引き返していくことになったのだ。

巴丘に周瑜を送り出す前日、孫策は本当に心配そうだった。
「こんなことならさっさとおまえを正室にして都に置いてくるんだった」としきりに後悔していた。
しかし、話が子のことに及ぶと孫策は機嫌が良くなり饒舌になった。
「おまえと俺の子だ。さぞ賢くて強い子になろう。女であればさぞや美女になるだろうな」
孫策は嬉しそうに言った。この時既に孫策には子供が一人いたが、そのとき以上にはしゃいでいた。
「伯符様、まだ生まれてもおらぬ子にあまり過分なお言葉を申されますな。期待が多すぎると臍を曲げて生まれて来ないかもしれませぬ」
「それは困る。では自重するとしよう。無事生まれたならば即知らせろよ。人を迎えにやる故、都に戻って親子共々顔をみせるがよい」


孫策は、周瑜の秘密を知る一人たる徐盛を一緒に行かせることにした。
孫策は徐盛を呼び、事情を説明し、堅く命じた。
「公瑾のこと、頼んだぞ」
「は。某が命に代えましてもお守り致します故、ご安心ください」
徐盛、字を文嚮というこの男はこれまで特に目立つ功績こそないものの実直で命令を確実にこなし、冷静な判断で戦況を渡り歩くことのできる有能な武将の一人であった。
最初こそ周瑜も嫌がっていたが、その実直な人となりを知るうちに彼を信頼するようになっていった。


出立のとき、孫策は門まで見送りにきた。

「まったく、あの方は。部下の見送りに門の外まで来られるなんて君主としての自覚がない」
そうは言ったものの、横に馬を並べていた徐盛には、周瑜が嬉しそうに見えた。
自分の背に孫策の視線が突き刺さるのを痛いほど感じていた。
一度、振り向いた。
お互いの視線が絡み付く。そのまま見詰め合っていれば孫策はもしかしたら気が変わって周瑜を引き止めてしまったかもしれない。
しかし、周瑜はその執着を振りきるように視線を前に戻した。
そして苦笑しながら馬上で言った。
「今生の別れと言うわけでもあるまいし、伯符様は大仰だ」


しかし、まさかその呟きが現実になろうとはこの時の周瑜にわかろうはずもなかった。



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