(七)小喬



巴丘というところは一言でいうと田舎であった。
道路の整備もろくにされておらず、山道は険しく、灌漑の井戸も戦のあとでふみにじられ、役所もその機能を果たしてはいなかった。
町を取り囲む城壁は朽ちており、まずはその修復にあたった。
周瑜はここら一帯の豪族であった商から豪奢な屋敷を借り受け、そこに居を構えることになった。
周瑜の守役である徐盛もこの屋敷の一室に住まう事になった。
口の硬い女を数名選び、周瑜の身の回りの世話をさせた。
体調に不安を覚えながらも、周瑜は颯爽と仕事をこなしていた。
まず役所の再興のために地元の有力者や官吏に会い、人事面でその才能を活かした。
その側らには必ず徐盛が控えていた。



そうして一月がたったころー


「旦那様ー!」
明るい、甲高い声が屋敷に響く。
部屋にいた周瑜が、小姓から小喬の到着の知らせを聞くのと同時にその声を聞いたのだった。
「やれやれ、相変わらずのようだね」
周瑜は苦笑する。

ばたばたと小走りにやってきて、周瑜の室の扉を開ける。桃色の衣裳がまず目に飛び込んできた。
「やあ、珠。元気そうだね」
周瑜のその微笑に小喬は頬をうっすらと染めた。
「旦那様・・・お会いしとうございました」
小喬は周瑜のそばまでくると、楚々と座り、深深と礼をした。
「孫将軍様からお話は伺っております。大変でございましたわね。でももう大丈夫ですわ。この私が参りましたからには何もご心配なさらないでくださいまし」
「ああ、助かるよ。今日は疲れただろう?ゆっくりお休み」
「いいえ。こうして旦那様にお会いできたのですもの。ゆっくりなどとおっしゃらないでくださいな」
そう言って、小喬は下女にてきぱきと指示を出す。
その様子を見て、周瑜は苦笑せずにはいられない。
あの小喬がよくもこうも変わったものだ、と。


小喬は名を珠、と言った。
姉が孫策の嫁になると決まったとき、周瑜は行き場のない小喬を引き取ると申し出た。
「あなたは、なぜそんなに私のことを気にかけてくださるの?」
「・・・どうしてでしょうね?同じ女としてあなたを放って置けないのでしょう、きっと」
「どうして、殿方のふりをなさっているのですか?」
「・・・私にもいろいろと事情があるのですよ」
枯れた涙の跡を指でこすりながら小喬は周瑜を見た。
綺麗な人だ、と思う。
こんなに綺麗なのに、なぜ女として生きられないのだろう?
だが、自分は人も羨む美貌といわれて育ったが、結局今はこうして捕らわれここにいる。
女として戦争の道具になるより男として戦場を駆けるほうがいいのかもしれない。
「私はあなたが羨ましいと思いますわ。同じ女でもこうも違うものなのですね」
羨ましい、と言われたことが周瑜には意外だった。
そしてそんな彼女をいじらしい、と思った。
周瑜はさっと手を差し出した。
「さあ、立って。私の屋敷にお連れしよう。あなたのために部屋を用意させる」
目の前に差し出された手を小喬はすぐに取る事ができなかった。
「本当に、私はどこぞの殿方の所に行かされる事はないのでしょうね?」
小喬はまだ怯えていた。
「約束しますよ。私のところへは一時的に来ると言うことにしておいて、すぐに喬公のところへお帰りくださってもいい」
少しためらってからおずおずとその手を握った。
「冷たい手だ。身体が冷えているのではないか?」
小喬の手を握って周瑜はそう言った。
首を左右に振る小喬の顔がほんのり赤いことに周瑜は気づかなかった。


周瑜が小喬を自宅に連れ帰ったことはすぐに他の武将の知るところとなった。
女ッ気がない、と孫策ともども陰口を叩かれていたが、ここへきて二人ともにそれも姉妹を嫁にするのではないかと呉都城内では騒然となっていた。
孫策はそんな自分達への噂に辟易としていた。
「俺はともかく、おまえは困るだろう。どうするつもりなんだ」
「さて、どうしたものでしょうか。いっそのこと私も伯符様のところと一緒に祝言をあげてしまいましょうか」
「そんなことができるものか。第一小喬になんというつもりだ」
孫策としては面白くない。
周瑜が女であることは大喬にも言っていない。小喬に周瑜自らが話したことを知ると意外な面持ちで言った。
「おまえがどういうつもりでいるのか知らんが、そうあっさりと秘密をしゃべると皆にばれるのも時間の問題だぞ」
自分は本当は嫁を取る気などなかった。今目の前にいる美貌を手に入れたかっただけなのだ。
周瑜が男として生きたいというからあきらめたのに、自分が我慢しているのが馬鹿のようではないか。
「大丈夫です。あの娘はなかなかに芯の強い娘です。伯符様がご心配なさることはありませんよ」
「・・・とにかくこのままだとまずいぞ。おまえも小喬も嫁の貰い手がなくなる」
孫策の言葉は真実を語っていたが、それへ、周瑜は苦笑するだけだった。


屋敷の中で庭が見渡せる部屋に小喬はいた。
周瑜が戻ると、いそいそと出迎えた。
「おかえりなさいませ」
周瑜は微笑んで小喬を見た。
「ただいま。元気にしていたかい?」
小喬は赤くなって頷いた。
「あ、あの・・・」
彼女は何か言いたそうにもじもじしている。
「何?遠慮せずに言ってごらん?」
「琴を・・・教えてくださいませんか?」
「琴を?いいとも。こちらへおいで」
周瑜が快く承諾してくれたことに、小喬は感激した。
実は小喬はこの屋敷に来てから、下女や周瑜の世話係の娘たちから嫌がらせを受けていたのである。
周瑜は家でも自分が女であることはごく少数の側近と世話係にしか知らせていない。
その世話係たちは周瑜の実家から一緒に付いて来た者ばかりであり、周瑜の秘密を漏らすようなことはまずなかった。
呉の屋敷で奉公にあがった何も知らぬ下女たちにとって周瑜はやはり憧れの的なのであった。
独り身の貴公子然とした若者にいつ見初められるか、という淡い期待もあったのだろう。
彼女らは実にてきぱきと屋敷の手入れをし、食事の支度をした。
周瑜が彼女らの一人に声を掛けようものなら、その者は一晩眠れなくなってしまったり他の者からのやっかみを受けたりもした。
そんな状況下で、周瑜が屋敷に見知らぬ女を連れてきて世話をしろ、などというものだから下女たちは面白くない。
小喬が来てからひっきりなしに彼女の噂話をしていた。
「あの娘はいったいどこのご令嬢なの?」
「令嬢だなんてとんでもない。捕虜だという話だよ」
「捕虜ですって?ご主人ったらどこまで人がいいんだろう」
「捕虜なら捕虜らしく、下働きにでもすればいいもんさ」
「でもご主人はそうは言ってなかったよ」
「大丈夫、うまくやっていびり出そうじゃないか」
そう言って下女たちはからからと笑った。
そうやって世話係であるはずの彼女達は、小喬が呼んでも「聞こえませんでした」と言っては来なかったり、衣裳の一部を隠してしまったり、髪飾りを落として踏んでしまったりと意地悪をするのだ。

世話係の一人がその様子を見ていて気の毒になり、ご主人に言ったらどうか、と進言した。
「いいえ。これは私の問題ですわ。これからここにお世話になるのに下女たちを扱えないでなんとしましょうか」
と言って小喬はへこたれなかった。
しかし内心は心細かった。
頼りの周瑜は戦ばかりで家に帰ってくることが少ない。
だがさすがに周瑜のいるときには下女たちはちゃんと小喬の世話をする。
この家の主人は使用人に好かれているのだ。
だからたまに周瑜が帰ってくると皆嬉しくて仕方がなかったのだ。
そしてはそれは小喬も同じであった。



周瑜の部屋には立派な琴が置いてあった。
周瑜はその前に座し、爪弾き出した。
端正な音色が響く。
その姿と音色に小喬はすっかり魅了されてしまった。
弾き終わった後、小喬はしばらくぼーっとしていた。
「珠?どうかしたのか?」
小喬は急にぼろぼろ涙を流し始めた。
周瑜はあわてた。
「どこか怪我でもしているのか?」
「いいえ・・・違います。周郎さま、私をできましたらずっとここに置いていただけませんか」
「それは・・・だがあなたは」
「こんなことを申してはなんですが、あなた様の後でどんな殿方を見ても魅力を感じないのです」
「私は女だよ」
「わかっております。充分に。それでも私は・・・あなた様のおそばにいたいのです。あなた様のためになにかして差し上げたいのです」
「私はあなたに何もしてあげられない。それでもいいというのか?」
「何も、求めてはおりません。私のしたいようにさせてくださいませんか」
小喬は相変わらず自分の意見をまっすぐに言う娘だった。
周瑜はそれを自分に対して小喬が、少女にありがちな、恋と憧れをすりかえてしまう一時的な感情を持ったのだと思った。
「いけない。あなたはまだ充分に若く美しい。私の傍にいてはそれも宝の持ち腐れになってしまうよ」
「それでも良いのです。孫軍に捕らわれたときも、姉と離れて隠遁しようと思っておりましたもの。意に添わぬ見知らぬ男との婚儀よりは…あなた様のお世話をして一生暮らしとうございます」
小喬の真剣な眼差しに周瑜は片手を顎にあててため息をついた。
「困ったお嬢さんだ」
そんな仕草のひとつすらも一幅の絵になる、と小喬は思った。
「・・・ここを追い出されたら私は行くところを失ってしまいます」
小喬は大きな目を潤ませていた。
「お父上の元へ戻られてはいかがか?」
「・・・そんなことをしたら叱られてしまいます。どうしてきちんとお仕えしなかったのか、と」
周瑜はふう、とまた息を漏らした。
「それではひとつ提案がある。だがこれをすると人を欺く事になるが、それでもいいだろうか?」
小喬は周瑜が何のことを言っているのかわからなかった。
「あなたがなんの気兼ねも無く私の元にいられるとすれば、この方法しかないのだよ」
周瑜はふと、脳裏に孫策が怒るのを思い浮かべた。あの方はきっとまた自分を馬鹿だというであろう、と思うと苦笑せざるをえない。
まったく、自分はなんと不完全な生き物なのであろうか。
「なんですの?そんな方法があるのなら、私なんでもいたしますわ!」
「私とあなたが祝言を挙げるのだ」
周瑜の言葉に、小喬は驚いていたが、すぐにうなずいた。
「それが偽りの婚儀であっても、・・・私、嬉しゅうございます」
「すまないね。そういってくれると私も助かる」
「いいえ!私こそ・・・」
小喬の瞳はもう周瑜しか見ていなかった。

周瑜は苦笑する。
「どこまで私は天を裏切り続けるのであろうな。いつか・・・この報いを受ける時がくるやもしれぬ」
「そのようなことはございませんわ」
冗談半分で言った言葉に、小喬は言葉を繋ぐ。
「珠・・・」
小喬は周瑜を見上げて笑顔を作った。
「旦那様は天に背いているのではなく天を睨んで歩いていらっしゃるのです。何一つ間違ったことはされておりませんわ。罰を受けるのは誰かを哀しませたりする人だけです」
周瑜も笑顔を返した。
「私は人を哀しませたりしていないか?」
「少なくとも私を幸せにしてくださっておりますわ」


そうして小喬は周瑜の表向きの妻となった。
それ以来、小喬の明るさに何度となく助けられてきたような気がする。
助けたつもりがいつの間にか助けられている、そう思うのだった。



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