(八)書簡



魯粛、字を子敬という、今年三十六になるこの男は、中肉中背で、この時の位は校尉であった。
周瑜とは十年来のつきあいになる。
歯に衣を着せぬ物言いをするため、孫権の幕僚達の中には彼を良く思っていない者もいるが、そういう裏表のない性格が周瑜には気に入られていた。
彼は先だって、夏口に入ったとき劉備率いる一軍と出会い、諸葛亮の説得を受け現在にいたる。
その彼が周瑜に狼藉をはたらいた、というかどで軟禁されていると聞いたとき、信じられない、といった心持ちであった。
魯粛から見た諸葛亮というのは、穏やかで知的、何事も力より論破することで問題を片づけるタイプで、相手が誰であろうと決して手を出したりはしないはずであった。

「どうしたというのです、あなたともあろう方が」

迎えに来て、第一声がそれだった。
諸葛亮は座ったまま、おもしろくなさそうに魯粛を見た。
「……なんとでもおっしゃっていただいて結構ですよ。言い訳はしません」
「なんとまあ、あきれた方だ。よりによって公瑾に手を出されたとは」
「……」
なんといわれようと事実なのだから仕方がない、と諸葛亮は諦めていた。
「このようなことが殿の耳にでも入ったら、只では済みませんぞ」
「別に言っても構いませんよ。私は孫軍の者ではないし」
諸葛亮の悪びれない態度に魯粛は苛立った。
「あなたは殿がどれだけ公瑾を大事に扱っているかご存知ない」
「それはそうでしょう。私はつい先日ここへ来たばかりなんですよ」
その開き直った態度が魯粛の疳にさわった。
「だいたいあなたは殿を説得するためにここへ参ったはずでしょう?いらぬ色気を出している場合ですか」
「ああ、それなら心配はしていません。おそらく周中護軍殿がうまくやってくれるはずですから」
「……公瑾とはそういう話をされとったのですか」
「もちろんですよ。他に何があるっていうんです?」
「いや、私はてっきり……」魯粛は頬を赤らめた。らしくないこの男の様子から、何が言いたいのかは容易に推測できた。
「そういう趣味はありませんよ。私には」
諸葛亮は仏頂面で答えた。
なんでこんなところで自分は言い訳をしなければならないのだ、と辟易したが、本当のことを言うわけにもいかない。

諸葛亮は魯粛に連れられて、孫権の居城に案内された。
他の武将たちも到着し、それぞれに大広間に入ってゆく。
彼はそこで再び周瑜に遭った。
周瑜は紫色の袍を纏っていた。
並み居る武将たちの中でも一段と輝いているように見えるのは自分の贔屓目のせいだろうか、と思う。

孫権が上座にやってきて、そろそろ始まるようであった。

諸葛亮には疑問があった。
なぜ、このような大切な軍議の時に中護軍たる周瑜が席を離れたままであったのか。
水軍の訓練をしていたのはわかる。
しかし、周瑜は軍事面のナンバーワンといっても過言ではない地位にいる将である。
魯粛の進言でハ陽湖にいた周瑜を呼び戻すことになったが、なぜはじめから呼んでおかなかったのか。どう考えてもおかしい。
孫権は、そして周瑜はこのことをどう思っているのだろうか。
おもてだって聞いたことはないが孫権と周瑜は不仲なのだろうか?
あるいはその逆か。
ありうる話かもしれぬ。
諸葛亮の見たところ、(女かどうかは別として)周瑜という人物はこれまで自分が会った中でもかなり傑出した人物のように思える。
今、この人物がこの場にいなければどうなったであろう。
曹操とは戦わず降伏し、孫権は雇われ領主となり、そして劉軍はさらに西へ敗走するしかない。
そうなったらもう、曹操を止められる者はいなくなるであろう。
そうなることくらいわかっていそうなものなのに、なぜ?

考えをめぐらせているうちに、周瑜がいつのまにか席の中央に出て話を始めていた。
諸葛亮はその姿をじっと見つめた。
諸葛亮の予想通り、周瑜は主戦論をうち立てている。
「必ず、勝ってごらんにいれます」
周瑜の言う勝機とは孔明も主張した水戦ゆえの優位と、現在曹軍内で蔓延している疫病のことだった。
「疫病?」
初耳だった。
周瑜は一体どこでそんな情報を得たのだろう。


その前日。
周瑜の元に一通の書簡が届けられた。
「ほう。士元殿からの書簡か」
ホウ統、字を士元といい、諸葛亮と並べて臥龍と鳳雛、と謳われた識者だという。
そのホウ統が、なぜ周瑜に書簡を送ってきたのか?
現在、江陵にいるホウ統は劉表に仕官していた。その劉表が死に、後を継いだ者達がことごとく曹操に降ったため、心ならずも曹軍に身を置いているはずであった。


そもそもの出会いは、周瑜が江夏太守として任地に赴いた際、お忍びで視察を兼ね、洞庭湖まで足をのばしたことがきっかけだった。
まだ、病床にはあったが荊州に劉表が生きていた頃のことであった。
周瑜は荊州の名だたる水軍を見たい、と思っていた。
そのため、周瑜は徐盛だけを連れて女装し、こっそり荊州に入ったのだった。
途中、荊州の守備兵に見つかり、怪しまれて連行されそうになった。
そこを通りかかったのがホウ統であった。
ホウ統は背の低い、容貌は「がまがえる」のような、要するに醜男であった。
彼は美貌の周瑜を一目見て気に入ってしまい、自分の屋敷に招き入れた。
周瑜は自分が孫軍の間者であることを気取られぬよう、慎重に対応した。
だが、そもそも女がひとりで城下をうろついている事自体がおかしいと疑われても仕方がない。

「ところであなたは何の用で江陵に参られたのですかな?」
「湖を見に来たのです。このところ気の病から伏せがちだったものですから気晴らしをしようと思いまして」
「…気晴らし、ですか。あなたのようなご婦人が。ろくな共もつけずに?」
「はい。岳陽の嫁ぎ先と縁が切れましたもので、今後の身の振り方を考えておりました」
「…そうですか」
ホウ統はじっと周瑜を見つめた。
その視線をさえぎるかのように、徐盛は周瑜の前に歩み出て声をかけた。
「そろそろ参りませんと」
二人が館を辞去しようとする仕種を見せたとき、ホウ統はふいに声をかけた。
「さすがに隙がありませんな。周公瑾殿」
周瑜は、はっと振り向いて、構えた。
徐盛も脇差に手をかける。
「おおっと、物騒な真似はしないでください。私は最初からあなた方をどうこうしようというつもりなどありませんから」
「……なぜ、その名をご存知か?」
「あなたは覚えておられないでしょうが、江陵に仕官する前、一度孫軍を訪れた事があるのですよ」
「………」
「遠くからですが、あなたのお姿を拝見しました」
「はじめから知っていて、私をたばかった、と申されるか」
「いえいえ、はじめはわかりませんでしたよ。ただ美しいご婦人だと感嘆致しておっただけですが、話してるうちにわかりました」
「………で、どうされるおつもりか」
「ひとつ伺いたいが、そのお姿があなたの本当のお姿なのですかな?」
周瑜は女ものの衣を纏っており、ご丁寧に化粧までしていたのに、なぜばれたのか、不思議であった。
「いいえ。これは仮の姿ですよ、もちろん」
「ほう、そうでしたか。それはなんとももったいない」
意味ありげな言葉と視線を一身に受け、周瑜は立ちあがりかけた体を再びホウ統の前に置いた。
「どうするつもりか」
「どうもしませんよ。あなた次第では、孫軍に協力してもよい」
「……どういう意味です?」
「おほん、ここでは大変言い難い」
ホウ統は徐盛を横目でちら、と見た。
周瑜はホウ統が何を言いたいのかを瞬時に察して強烈な不快感を覚えた。
「ここで私に斬られる覚悟がおありならお伺いしましょう」
「…これはまた苛烈な。女子の言葉とも思えませんな」
「女ではない、と言っている」
「ふふふ、まあ、そういうことにしておきましょう」

周瑜はきっとなって、徐盛を振りかえり、声高に命じた。
「文嚮、この男を斬れ」
「承知!」
徐盛は脇差をすらり、と抜き放ち、ホウ統の前に進み出た。
「この私が目当てとは曹操にも劣らぬ淫蕩な男よ。ここであったが運の尽き、潔くその刃にかかるがよい」
徐盛の後ろに立って、周瑜は言い放った。
ホウ統はその剣を前にして、少しも動じなかった。
「待たれよ」
「この後に及んで命乞いをなさるか」
「いや、すまぬことをした。あなたの真実が知りたくて、つい試すようなことを言った」
「試す…?」
周瑜は徐盛に剣を引かせた。
「やはり、あなたは女子であられた。いかに変装とはいえ、そこまで美しくあられれば疑いたくもなるというもの」
周瑜はしまった、と唇を噛んだ。
女とカマをかけてその体をよこせ、というようなことを言い、その誘いに乗って自分を殺すようなことがあればそれは当たりである。
ましてそれは周瑜の性格からして、必ず刀を抜くだろう、というホウ統の読みも当たっていた。
自分で正体をばらしてしまったようなものだ。
先ほどからの話しのなかでそれらをすべて見抜いていたのだ。
この男の方が一枚上手だった。

「……で、どうするつもりなんです」
周瑜はあきらめたような口調になった。
「だから先ほども言いましたがどうもしませんよ。老い先短い劉表に今更尽くしても良い事は有りませんしね」
「………」
しかし周瑜はまだ疑っていた。
この男はたしかに切れる。だが自分の正体を知られたままにしてよいものかどうか。

「あなたのことは言いませんよ。だれにも。だいたいこうして本人を前にしなければ私だってそうは思いませんでしたからね。いったところで夢でも見ているのか、と馬鹿にされるのがオチですから」
自分の心の内を見透かされたようで、周瑜は少し動揺した。
「……不本意ですが、あなたのいうことを信じたいとは思います。ですがあなたは劉表の部下でしょう」
「劉表の二人の息子は充てになりません。いまさら忠義ぶってみても何の意味もありませんよ。それにこのままだと荊州は曹操の手に落ちるでしょう」
「そこまでわかっているのなら、話がはやい。荊州は水軍を持っている。それをむざむざ曹操に献じるのを黙って見ておられるのか」
「そのときこそ私の智謀がお役にたつというものです」
「士元殿、私と共に東呉に参られませんか。あなたなら私が推挙できます」
「ありがたい申し出ですが、今はダメです。後継者争いが起こりそうなのですよ。荊州はこれからが大変なのです」
「そうですか。それは残念」
「ですが、そういってくださったあなたに協力はします。なにかあれば必ずご連絡しますよ」
ホウ統は周瑜に拱手した。
「約束します。必ずあなたのお役にたつことを。おそらくそう遠くないうちに」
周瑜は礼を持ってそれに応えた。
「どうしてそのように言ってくださる気になったのです?士元殿」
「さて。あなたに一目惚れしたから、でしょうか」
「ご冗談を」
周瑜は苦笑する。
どこまでこの男が本気なのかは計れなかった。
「私を女と知っても、そのようにおっしゃってくださるあなたの大器に感謝致します」
「なに、あなたよりもっと男らしくない男なんぞそれこそ星の数ほどもおりますよ」
ふっふっふ、と口元だけで笑い、
「覚えておいていただきたいのは、私が協力するのはあなただからです。孫軍にはなんの義理もありませんからね」
ホウ統はうそぶくようにそう言った。
「がまがえる」の容貌は不敵に笑った。


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