(九)碧眼




広間で、周瑜は言い放った。
「私に三万の兵をお与え下さい。必ずや曹軍を打ち破ってご覧にいれましょう」
これに同調するように周りの武将たちからも激の声があがった。
「勝算があるというのか」
冷静な声が周瑜の上から掛けられる。
「負けるとわかっていて戦を仕掛けるようなことは致しません。勝てると思うからそう申し上げております」
美しい顔に似合わず、はっきりとした勝ち気な言動は、否が応でもその場にいた武闘派の諸侯の興奮を促した。
張昭はじめとする穏健派は、こうなれば仕方がない、とでもいうかのように一様に諦め顔となった。

上座に座する男は広間の中央に立つ周瑜をじっと見つめていた。
孫権、字を仲謀という。今東呉はまだ若いこの青年の元にある。

「よし、わかった」
孫権は案の脇に置いてあった剣を掴んで立ち上がった。
「開戦だ」
「殿!」張昭は慌てて孫権をなだめようとして腰を上げかけた。
そのとき、孫権は持っていた剣を抜いて、一閃させた。
孫権の前にあった小机が真っ二つに斬れて割れた。
「!」
これをみて張昭は開きかけた口をそのままこわばらせた。
「俺が決めた事に口出しするな」
凛とした口調だった。
「我が東呉は曹軍を迎え撃つ。異論があるものは前へ出ろ。この俺がじきじきに叩き斬ってくれる!」

この様子を見て、諸葛亮は内心驚いていた。
このまえ会った時とは別人のようではないか。
これより数日前、周瑜不在の軍議が行われていた時は孔明がいくら煽っても、のらり、くらりと自分の意見をはっきりといわなかった。
それが今日の苛烈さはどうだ。
周瑜がいるのといないのとで、これだけ変わるものなのか。
孔明は改めて東呉における周瑜の存在の大きさを認識したのであった。
「周瑜」
「は」
孫権に呼ばれて周瑜は御前に歩み出た。
「これよりそなたを大都督に任ずる。全軍の指揮を統括せよ」
「は、全力を尽くし、必ずや殿のご期待にお答えいたす所存でございます」
孫権は収めた剣をずい、と差し出した。
周瑜はそれを前にでて両手で拝領した。
「頼んだぞ」青い目でじっと見つめた。
孫権はまだなにか言いたそうであったが、それ以上は何も言わず、その場は解散となった。


軍議が終り、それぞれが退室していく。
その中で諸葛亮は一人その場に座ったまま、周瑜を目で追っていた。
周瑜のまわりには孫軍の中心となる武将たちが次々と集まってきて、声をかけていた。
「孔明殿、いかがなされた?」
ふいに声を掛けられて、そちらを見ると魯粛が立っていた。
「魯子敬殿。いえ、なんでもありません。そろそろ私も立とうと思っていたところです」
「そうですな、正式に同盟を結ぶ事になったご報告を、劉豫州殿に報告しなければならないのでしょう?」
「ええ。…しかしこういってはなんですが、さすがに中護軍殿は影響力のあるお方ですね」
「それはそうです。先代とは義兄弟であられたし、殿の信頼も厚い」
「…なのに、なぜ先日の軍議の時はご不在だったのでしょうか」
「殿のご命令です。彼は軍の統率者ですからね、水軍の訓練を行っていただけですよ」
「……軍の統率者なのであればこそ、ではありませんか」
「孔明殿、東呉には東呉のやり方というものがあります。すべてがあなたと同じ考え方ではありませんよ」
「……そういうものなのでしょうか」
しかし、東呉の重大な局面なのだ。
その決定を下す軍議に東呉の重鎮である周瑜がいないとは考えられないことではないか。
それならばなぜ今日は呼び寄せたのだ。
いくら考えても答えは出せなかった。

「亮よ」
ふいに、名を呼ばれて振り向く。
こんなところで自分の名を呼ぶのは一人しかいない。
「…兄上」
孔明の前に立っていたのは彼の腹違いの兄、諸葛瑾であった。字を子瑜という。
彼は文官として孫権に仕えている。その容貌は諸葛亮とはあまりに似ていない。
彼がやってきた事で魯粛は拝礼し、気を利かせてその場を去った。

「そなたの思惑どおりになったな。満足か」
いささかむっとした面持ちで孔明は言った。
「私はお互いのためを思ってここへ来たのです。そのような言われようは心外ですね」
孔明にとって、幼い時に別れたきりのこの兄とは縁が薄い。
何度か手紙をもらう程度で、数年ぶりに顔を見たのはこの東呉に来てからだった。
「兄上は降伏派でいらっしゃいましたか?」
「私は常に殿のお心と同じ道を歩もうとしている。愚問だ」
諸葛瑾は兄らしく、威厳のある態度で弟に接した。

「……そなたはこの兄を恨みに思うておるのか」
「そのようなことはありません。私と兄上は今や別々のご主君を仰ぐ身であれば意見が違うのも仕方がないことでしょう」
だが、兄がここにいなければ、いくら魯粛を説得したとしても孫権に目通りすることは難しかったかも知れない。密かに兄に書簡を送ったのは兄が自分に対して負い目を感じているかも知れず、孫権への橋渡しをしてくれるという読みもあった。そういう意味では兄には感謝こそすれ、恨むような道理はない。
「こたびのこと、兄上の計らいによって為しえたこと、感謝にたえません」
「私もなるべくなら弟と争うことなど避けたい。本来ならばおまえを推挙して東呉に留まらせたいのだが」
「兄上。もう私は使えるべき御主君に巡り会ってしまったのです」
「……そうか」諸葛瑾はかすかに首を振った。
「それに」
諸葛亮はくすり、と笑った。
「私はもう兄上の同僚にいたく嫌われてしまったようですから」
先日来、諸葛亮は東呉に留まり、文官たちと舌戦を繰り広げていた。
それを知っているから、兄である諸葛瑾はなんとも複雑な心境なのであった。

「私とて、兄上と争うことなど望んではおりません。ですからこうして同盟の使者として参ったのです」
笑うでもなく、少しもその表情を壊さない弟を見て、諸葛瑾は呟くように言った。
「おまえは昔から感情を表に出さない子であったな」
諸葛亮はそれには答えず、うそぶくように言った。
「兄上はこの国で、よくされていらっしゃるようですね」
「この国は案外のんびりとしているように見えて、実は結構大変なことも多いのだよ」
諸葛亮を牽制するかのように、兄は言った。
「どこも外からではわかならいことが多いということですね」



ふと、諸葛亮が周瑜の方を見ると既に退室しようとしているところだった。
目が合った。
涼しげな目元がふっ、と笑う。
「兄上、ちょっと失礼します。お話しはまた後ほどにでも」
兄の方を振り向きもせず、まるで惹きつけられるように周瑜の傍へ歩み寄る。
「周都督殿」
声をかけられて周瑜はわずかに目を細めて立ち止まる。
「兄君とはもうお話はよろしいのですか?」
「どうせたいした話があるわけではありませんよ。それよりあなたのおかげです。感謝します」
周瑜を見下ろすように傍に立って話しかけた。
「私は私の意見を述べたまでです。なにもあなたの片を持ったわけではありませんよ」
涼やかにそう言いきる。
諸葛亮はその周瑜の顔をしばらくじっと見ていた。
ずっと、見ていたいと思わせるような美貌だった。
そういえば兄からの書簡にはいつも周瑜のことが書かれていた。兄もまた随分と周瑜に入れ込んでいたようだった。
それを見る度どのような人物かと想像していた。それがまさか、こんなに自分を虜にしようとは。
口を開かずじっと見つめている男をせせら笑うかのように周瑜は言った。
「そんなふうにしていると、今度こそ呂子明に斬られますよ」
「あなたとこうして話していられる貴重な時間です。そのためならば斬られてもいい、とさえ思ってしまいますよ」
「ほう。開き直られましたか」
くす、と周瑜は笑った。
その様子は艶やかとしか言いようがない。
諸葛亮は自分がもう完全に惚れてしまったのだな、と改めて自覚した。
「…先ほどの、疫病の話ですが、どこからあのような情報を?」
「江陵に知った人物がおりましてね。ああ、あなたもご存知の方です。ホウ士元という」
「………!」
そういえば風の噂で聞いた事が有る。鳳雛と言われるホウ統が荊州に行ったと。
しかし、なぜこの周瑜と知己なのであろうか。
諸葛亮は周瑜に底知れぬものを感じつつあった。
「……あなたとは、またじっくり話し合いたいものです」
「呂子明に言われているんですよ。あなたともう二人きりで会うな、と」
「あれはあなたの策略でしょう?私はあなたの色香に酔ってしまったのです」
諸葛亮の頬に一瞬朱が走った。からかわれているのだ。
何か言い返そうとしていると周瑜はさっさと話題を変えてしまった。
「劉豫州殿はどこまで来ておられるのですか?」
「……夏口を出て、樊口まで来ているようです」
「では、我が軍の船に同乗していかれるが良いでしょう。樊口に寄りますから」
「あなたの船に乗せていただけるのですか?」
「私は先行しますから魯子敬か、どなたかの後続の船で行かれるが良いでしょう」
「そうですか、それは残念ですね」
「では。またお目にかかりましょう」
周瑜は目の前をするり、と抜けていった。
残り香がして、諸葛亮は軽い眩暈を覚えた。


その夜、孫権は周瑜を自室へ呼び出した。
「周瑜、参りました」
「うむ。楽にしてくれ。人払いもしてある」
「は…」
頭をあげると、孫権はゆったりと座椅子にもたれていた。
19で兄の跡を継いだときから、彼は髭をたくわえるようになった。
幼い自分を嫌っていたようにもみえる。
紫がかった赤黒い髪、光が反射すると蒼く光る瞳。それだけで異相、といえた。父とも兄とも似ていない。
先祖返り、と言う者もいる。孫家の遠い祖先は西から来たのだという者もいる。
江東の碧眼児、といわれた所以であった。
その言われようも、孫権は好きではなかった。

酒が出されていた。

しかし孫権はそれにはまったく手をつけてはいなかった。
兄の死後当極する事になって以来、それまで殆ど飲まなかった酒を毎晩呑むようになっていた。
酔って絡んで部下を傷つけたこともあると、周瑜は聞いていた。
孫権と一緒に酒を飲むこともよくあったが、不思議と周瑜の前でそのように酔ったことは殆どといっていいほどなかった。
「公瑾」
「はい」
「おまえ、俺に何か言いたいことがあるだろう?」
「……いいえ。何もございませんが」
「俺がどうしてこの一大事の時に真っ先におまえを呼び戻さなかったか、不信に思っているはずだ」
「……殿が決めた事であれば私はそれに従うのみです。私は武官ですから」
「…相変わらず冷めた言い方をするな。おまえと俺が不仲ではないのかとか、二張に入れ知恵されたとかいろいろと陰口を叩かれているようだ」
周瑜は微笑した。
「常に真実は間近で、しかも目の届きにくいところにあるものですよ」
「おまえらしい発言だ。だがな……」
「殿がわかってらっしゃればよろしいことです」
「ふん……わかっていないのはおまえの方だ」
孫権の突き放したような言い方に、周瑜は少しだけ眉をひそめた。

「俺は…本当はおまえに戦をやめてもらいたかったんだ」
「殿…?」
「魯粛では、張公たちを納得させることはできん。ましてや劉備の使者なんぞの口車に誰が乗るものか。おまえがいなければ、このまま降伏することになっていただろう。そうすれば、おまえは俺の元を離れることができる…」
「何をおっしゃいます」
「俺だけが恥をかくのであればそれでも良かった。だが、部下や子のことを考えると、どうしても決断できなかった」
孫権は周瑜をじっと見つめた。
「おまえが戦を選んだのは兄のためであろう?」
周瑜はそれを見つめ返した。
「兄の残したこの江東を守るためであろう?」
「いいえ。殿のため、孫家のため、ひいてはこの国のためです」
周瑜の美貌は少しも揺らぐことはなかった。
孫権は溜息をひとつついた。
「…まあそういうことにしておいてやろう」
「私ではこの戦に勝てないと、お思いですか?」
「ちがう。そうではない。おまえは軍略の天才だ。おまえが勝つというからには勝つのだろう」
「ならば心配は無用です。万一勝機を逸したとしてもその時は私をお捨て置きくださればよい」
「よせ。そんな風に言うのはやめろ、公瑾。俺は…俺は知っているんだ」
周瑜はぎくり、とした。
孫権は、何を言おうとしているのか。
決意を口にするときのように息を大きく吸って、孫権は口を開いた。

「俺は」

碧眼が細められ、周瑜の白い貌を射抜くように見つめる。

「俺は、おまえが女だということを知っているんだ。もうずっと前から」



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