徐盛は徐州、琅邪国の漁村に生まれた。
黄河湾に面したこの村では漁業が盛んである。
家はそれなりに裕福ではあったが、この地域一帯に飢饉が起こったのがきっかけで太平道の教えが広まり、やがて黄巾の乱に巻き込まれていった。
徐州・豫州一帯の黄巾党の決起により、田畑は言うまでもなく、漁場は荒らされ、水揚げしたものはすべて奪い取られてしまった。
徐一家は故郷を捨てて南に逃れた。
その途中、母親が病死し、喪に服すことになる。
その後、12才になるまで家族と共に江南の親戚に身を寄せていた。
そんな時、黄巾党討伐に名乗りをあげた江東の虎と評される孫子の末裔のことを耳にした。
呉都へ行こう、と心に決めた。
そこで徐盛は剣の師匠につき、武道を志した。
徐盛はここで腕を磨き、豪の者として知られるようになった。
何か揉め事があると、彼を頼って様々な人が訪れるようになっていった。
彼は面倒見も良かったし、特に年少の者達に好かれていたのである。
やがて孫堅が戦死し、その息子が後を継いだことを聞き、力になってやりたいと思うようになったが、 呉ではまだ野盗の類が多く、徐盛もその討伐隊に参加したりしていてその機会をなかなか得られなかった。
ある日、呉の孫軍の陣営近くを徐盛が歩いていると、背後から声を掛けられた。
「殿、ここにおいででしたか!お探しいたしましたぞ」
なんだ?というふうに振り返ると、声を掛けた者は「あっ」と声をあげ、失礼した、といって去っていった。
そんなことが数度あって徐盛は不信に思った。
「一体誰とまちがっているのだろう?」
その謎は、徐盛が孫策に仕官したときにやっと解けた。
江南への遠征に参加したとき、一兵卒から部隊長へと昇進しており、その際に初めて建威中郎将の位にあった周瑜と討逆将軍・孫策に直接会う機会に恵まれたのである。
「おぬしは将軍に背格好がよく似ているな」
と周りにいる者に言われた。
自分ではよくわからなかったが、将軍の傍にいつもいる美丈夫・周瑜までが口をほころばせてそういうものだから、きっとそうなのだろうと思った。
それにしても、なんと典雅に笑う人なのか。
徐盛たち卒伯の間でも、周瑜は主君の孫策に劣らず人気があった。
頭が切れることはもちろん、見た目もあのとおり麗しい。
それだけで、憧れている兵は多いが、徐盛が一番尊敬していたのは、なにより遠征の時の気配りに長けていたことだった。
無理な行軍はせず、こまめに小休止を取り、食糧を与える。
そのくせ、ここぞと言うときには鬼神の勢いでもって好戦する。
戦の機を見ることは将軍孫策の右に出る者はいないが、周瑜はそれとは別の意味で戦上手だった。
武勇こそないが、兵の志気を鼓舞する術を身につけていた。
周瑜の戦は、戦う前にもう勝っている事が多い、と徐盛は思う。用意周到なことはそうだが相手の情報を良く用いるのだ。
偽の情報を流して城を放棄させたこともある。敵味方とも無血で城を手に入れた。
徐盛は目から鱗が落ちる思いだった。こんな戦の仕方があるものなのか、と。
あの容貌からは想像もできないような中身が詰まっているのだ。
そんな周瑜を徐盛は密かに憧憬の目で見つめていた。
江夏でのあの闘いの時に知った秘密。
呂蒙が落馬した周瑜の傷を改めようとして鎧を脱がせた姿を見たときのことだった。
女の肌を直接見るのはもちろん初めてではない。しかしあれはちがう。
震えがくるような白さだった。
正直にいうと、意外でもなかった。
徐盛にとって、驚いたことは確かだったが周瑜が女であってもなんら問題はなかった。
ただ、以前と変わったのはより周瑜の傍にいられるようになったことだ。
そして、周瑜が孫策の子を身篭もっていることを知って多少なりとも衝撃を覚えた。
周瑜が女であり、いつも将軍の傍にいたことを考えれば当たり前なのだが、その事実は痛みとして徐盛の胸に残った。
それがなぜなのか、その痛みの感情が何なのかはわからないままだった。
−内密に、産ませよ。そして子ともども周瑜を護れ−
孫策から、じきじきに命ぜられたことを、徐盛は心に刻みつけた。
司馬に任じられ、巴丘に駐屯していたとき、けたたましい声と共にやってきた女がいた。
表向きは周瑜の妻ということになっている女であった。
侍女を何人も引き連れてやってきたのは周瑜におとらぬ美女ではあったが、なんとも騒々しい。
だがなんとはなく沈みがちだった周瑜の表情が明るくなったのは事実だった。
しかし徐盛は苦手だった。
周瑜の傍近く控える徐盛に小喬はなにかとくってかかるのだった。
「徐文嚮さま、私がついておりますゆえ、お下がりくださって結構ですわ」
徐盛は何か言い返そうとも思ったが女を相手にすることもない、と黙っていた。しかし、
「いえ、太守どののお傍にお仕えするのが某のお役目でござる」といって、言うことはきかなかった。
そういうと、決まって小喬はふくれっつらになる。
慣れてくるとそれも可愛い、と思うようになったが、何かあるごとにまるで自分を恋敵か何かのように周瑜から遠ざけようとするのだ。
徐盛は辟易としたが、まさかそんなことで周瑜を悩ませるわけにもいかず、どうしたものかと苦笑するのみであった。
そうして月が満ちてゆく。
紅梅が咲く頃、周瑜は男児を産んだ。
名を循、とし表向きは小喬が産んだ子、と言う形になった。
もしかしたら小喬は周瑜以上に喜んでいたのかもしれない。
女の気持ちはわからないが、彼女にとっては周瑜は自分の夫なのだろう、と徐盛は勝手に思っていた。
産後の体調が思わしくなく、子に乳をあげる以外はほとんど寝たきりであった周瑜の世話をしながらも子の世話をかいがいしくする。
この時周瑜に付き添っていた医者は張仲景といって華佗と肩を並べるほどの名医であった。
そうしてしばらくたったある日、周瑜をさらに追いつめる報せが呉都から届いた。
孫策の死−
徐盛自身、信じられなかった。
あの勇猛な孫策が暗殺されたとは。
周瑜はその報せを受けてから何日も眠らなかった。
徐盛の案を受け入れて、一軍を率いて呉へ戻ることになってからもずっとそうだった。
だが、泣くような様子は見えなかった。
おそらくまだ、この事実を信じていないのであろう。
張医師の薬がなければとっくに倒れていたかもしれない。
そんな様子だった周瑜は乳が出なくなり、小喬は村の同じ乳飲み子の母親を屋敷に招き、循に乳を飲ませた。
そのことも、周瑜の負担になっていたのだろう。
小喬はそれをわかって、赤子をわざと周瑜の目に触れないようにした。
周瑜が心配して循の様子を聞くと、決まって明るく
「旦那様に似て、とっても元気ですよ」と言う。
小喬に対する思いを改める必要がありそうだ。
彼女は周瑜にとって、必要な人だ、と徐盛は思ったのだ。
呉へ戻った周瑜を待っていたのは、冷たい躯となった孫策の姿だった。
徐盛は孫策の棺が安置されている堂の外に控えていた。
弟の孫権を始め、並み居る武将たちがそこにいた。
徐盛は気がかりだった。
あれだけ体力を消耗している周瑜がこの衝撃に耐えられるだろうか。
「公瑾!」
孫権の声がした。
徐盛は急いで堂の中に走っていった。
周瑜は孫権に抱かれるようにして倒れかかっていた。
「失礼いたします」
そう言って徐盛は気を失った周瑜を抱きかかえると、堂の外に連れ出した。
「・・・・・・」
驚くほど軽い。
徐盛は周瑜を抱きかかえながら動揺した。
堂の表には兵士たちが立ちつくして喪に服していた。
その間をぬって徐盛は周瑜を馬で呉都の屋敷に連れ帰った。
屋敷には先に小喬たちがもどっているはずである。
とにかく、ゆっくり休ませたい。
哀しむのはそれからでも遅くはない、と思うのだ。