孫策の喪があけて次の年、周瑜は小喬と循を呉都へ残し、江夏太守として巴丘へ戻った。
小喬は一緒に行くと言ったが、孫策の死後妻の大喬のことを思い、なるべく一緒にいてやって欲しい、と伝えた。
自分も赤子と別れるのはつらいだろうに、とも思う。
何も哀しいのは自分ばかりではないのだ、と周瑜はやっと冷静になって周りを見ることができるようになったようだ。
徐盛は孫権から改めて別部司馬に任じられ、兵を500与えられて周瑜とともに巴丘へ赴くことを許された。
あれから周瑜はめざましい回復ぶりで、巴丘の開発に尽力してきた。
ここでも周瑜は「周郎」と呼ばれ、人々に愛された。
徐盛はといえば若い兵を訓練したり、盗賊討伐に出かけたりと、忙しい毎日を送っていた。
この頃、江夏の北、漢室の一族に連なる劉表の治める荊州は人口が激増していた。
戦乱の耐えない都・洛陽、長安から人がなだれ込むようにやってきていたのだ。
この荊州とは後に戦火の中心となる土地であったが、その要因は肥沃な大地からなる豊富な収穫高であった。
徐盛は周瑜がお忍びで荊州の都の襄陽を見たい、というので馬を用意させた。
周瑜がこういうわがままを言うのは珍しい。
とは言っても、孫軍と劉表とは不倶戴天の敵どうしであったから徐盛はいい顔を当然しない。
「お忍びで・・・というからにはもちろん護衛兵はお連れにならないのでしょうね」
「おまえがいるじゃないか」
周瑜はくすり、と笑った。
やれやれ、と思う。
自分はこの微笑には勝てはしないのだ。
襄陽は大きな都である。
周瑜を馬に乗せ、その手綱を引いて歩く、下男の格好をした徐盛がいた。
周瑜は女装をしていた。
(これでは逆に目立ってしまっているではないか・・)
女装をした周瑜は美しい。
さっきから道行く人が周瑜を見ては振り返る。
(一体何を考えておられるのだろうか・・・)
徐盛が馬を引きながら馬上の周瑜を見ていると、周瑜も徐盛を見下ろした。
目だけで笑った。
何か、企んでいるのだ。
妙に胸騒ぎがするのは、そのせいか。
「ちょっと待ちな、そこの女」
徐盛ははっとして、すぐさま声のした方向を見た。
見ると、見るからに逞しい、一見して軍人だとわかる出で立ちをした男が立っていた。
「何かご用でしょうか」徐盛は馬上の周瑜の前に庇うように立って応対した。
男は横柄な態度で徐盛に近づいた。
「あんた、どっから来た?このまんま先に行くと役人にとっつかまるぜ」
男は良く日に焼けた精悍な顔をしていた。無精髯の生えた顎を撫でながら、馬上の周瑜をじっと見ている。
「いい女だな・・・」
周瑜は紗で顔を半分隠していたが、それを通してみてもその美しさが計れる。
徐盛はこの無礼な男の腕を掴んで周瑜の傍に近づけないようにした。
「なんだ、おまえ。気安く俺にさわるんじゃねえ!」
男はそういって徐盛を突き飛ばした。
男の腰には段平が下がっていた。それに手をのばしかけたとき
「およしなさい。このような往来でみっともない」
馬上からピシャリ、と琴の糸のように張りつめた声が飛んだ。
男は感嘆の意を短く口笛を吹いて表すと、
「おっかねえなあ。あんた、何者だ?」と訊いた。
「そなたに名乗る名などない」
周瑜は素っ気なく言った。
「下がれ、下郎」
徐盛が男の前に再び立ちはだかり、一瞬緊張した。
「文嚮、やめよ。・・そなたの忠告は聞いておこう。なぜこの先に行くと役人に掴まるのだ?」
周瑜がそう訊くと、男は少し気を取り直したようだった。
「この先は蔡瑁の屋敷があるんだ。屋敷の前にはいつも役人がうろうろしててな。あんたみたいないい女、とっつかまって蔡瑁の夜伽の相手をさせられるのがオチだ」
そのものの言い方に、徐盛は脇差しに手をやりそうになったが周瑜の手に制された。
「ほう・・・蔡瑁とな」
「そう。ご領主さんの正室の弟君だ。ここいらじゃやりたい放題だ」
男はそういうと機嫌が悪そうにペッと唾を吐き捨てた。
「ご忠告、ありがたく承ろう。ゆくぞ」
しかし、周瑜はそのまま行こうとする。
「ちょっと待てって」
男が周瑜の馬の前に立ちはだかる。
「人の言うこときかねえ気だな。あんた、どこかのお姫さんか奥さんなんだろうがその出で立ちじゃここいらでは目立ちすぎる。せめて馬を降りて歩いていきな。襄陽は豊かで人も多いがその分いろんなとこから刺客だのなんだのも多い。それともあんた劉表のおっさんの妾かなんかなのかい?」
「・・・・・そなた、名はなんという?」
「さてな。名乗るほどのもんじゃない」
「劉表に仕えているのか?」
「ああ・・・まあ、そんなとこだ。あんまり優遇されてねえけどな」
周瑜は顔を見られぬように紗を深くし注意を払いながら男を見た。
「そなた、水軍のものか」
「・・・・・・・」
男は首を少し傾げて、徐盛に言った。
「おい、この人は一体誰なんだ?ただ者じゃないだろう?」
徐盛はその問いに黙って首を横に振った。
周瑜は男の言葉に従い馬を降りた。
その様子を見ていて、男は「あんた本当に女か?」と言った。
身のこなしが普通の女と違うのは当たり前だ。
男は徐盛を抑えて周瑜の前に立ちふさがり、頭から顔を隠している紗を奪い取った。
「何をする!?」徐盛がくってかかった。
男は周瑜の顔を見て呆然としていた。
「綺麗だ・・・」
周瑜は目を伏せて男を正面から見ないようにした。
徐盛は男の手から紗を取り返した。
「あんた、本当に誰なんだ?」
男の問いに、周瑜は答えた。
「そなたが今の主を見限るようなことがあったら教えてやってもいい」
「・・・・・!」
男はしばらく黙って周瑜が再び紗で顔を隠すのを見ていた。
「・・・・・わかったぜ、あんた孫軍の女だな。間者か。何を探ってる?」
徐盛はとたんに身構えた。
この男、切れる。
男は両手を上げて、こちらを向いた。
「・・・否定しないな。図星か?・・おおっと、なにも俺はチクるなんてセコイ真似はしないぜ」
徐盛が脇差しに手を掛けたのをみて男は不敵に笑う。
「あんた、俺の女になりな。そうしたら孫軍に行ってやってもいい」
男の不遜な言い方に徐盛はかっとなった。
「きさま、無礼な奴!許さぬ!」
ついに徐盛は刀を抜いた。
「おもしろい!この俺とやるってのか」
往来の真ん中で刀を抜いてしまった徐盛は「しまった」と思った。
周りに人が集まってきている。
ついかっとなって見境もなく抜いてしまったがこのままではまずい。
「文嚮、引け。ここではまずい」
周瑜の言に従い刀をしまった。
「こっちへ来な」と男が合図を送る。
男は周瑜の乗っていた馬の手綱を持って、別の方向に歩き出した。
「あいつ・・・馬を!」
徐盛は舌打ちした。
一体あの男は何者なのだろう?
「あの男、かなりの使い手です」
徐盛は周瑜にそう耳打ちした。
あの男とやり合って、無事に済むだろうか、と考えた。
が、腕が落ちようが脚を斬られようが、何があっても周瑜を守り抜かねばならない。
男の後について歩いてきたのは町はずれの古屋だった。
大きな木がある。
その木の幹に馬の手綱を縛り、男は振り返った。
「ここなら邪魔が入ることもない。さあ、聞かせてもらおうか、あんたの正体を」
男はその逞しい腕を胸の前で組み、周瑜を見た。
その、視線を遮るかのように徐盛が間に立つ。
「人に物を尋ねるときはまず自分から名乗るのが礼儀というものであろう」
「・・・・・ふん。悪かったな、俺には礼儀なんて言葉は通用しないんだ。なんせ江賊あがりだからな」
「このような輩にかまう必要はありません。行きましょう」
徐盛は周瑜の手を取った。
だが周瑜は動かず、
「ほう、江賊あがりか。では水戦が得意なのだな」と訊いた。
男はにやり、とした。
「俺は荊州の水軍を預かる身だ。主人とはあんまりうまく行ってないがな。今日はその文句を言いに来たんだが失敗しちまった」
悪びれずにそう言う。
「そなた、名は」
「甘寧だ。甘寧、興覇。そういうあんたは?」
徐盛は周瑜を止めようとしたがおそかった。
「私は周瑜。周公瑾と申す」
「周瑜・・・・だと?!」
徐盛はいつでも目の前の男を殺して周瑜をつれて逃げる覚悟であった。
荊州の水軍にいて周瑜の名を知らぬことはない。
周瑜は中郎将として劉表配下の黄祖とは幾度も戦っているのだ。
「まさか」
甘寧、と名乗った男は、だが徐盛の想像を超えた反応を見せた。
「女じゃないのか!?本当に?」
甘寧はそう言ってひどくがっかりした様子で周瑜に近づいた。
周瑜は唇に薄い笑みを浮かべて
「残念ながら」
と言った。
「こんなに綺麗なのに、男だって?!なんてこった・・・!」
なんなのだ、この男は。
敵どおしになるかもしれない相手に対する態度とは到底思えない。
徐盛は気を削がれた思いでいた。
「そなた、おもしろい男だな・・・」
周瑜はくすり、と笑った。
「私を今ここで捕らえれば栄達できるだろうに」
それは徐盛も同じ思いだった。
荊州の牧劉表は漢室の血族につらなる名門の出である。
自分がそうだから、なにかと家柄にこだわる男だと聞いた。
大尉、司空などを排出した名門周家の嗣子である周瑜を召し出せば、おそらく重職にはつかせるだろうことは予想がつく。
「俺は戦場で手柄を立てる主義なんだ」
甘寧はあっさりそう言った。
「だが、あんたとは戦いたくはないな」
そうはいってもこの得体の知れない男のいうことを鵜呑みにするわけにはいかない。
徐盛はまだ警戒を解いてはいなかった。そこへ
「それに、そこの男。そんな風に命がけで護る価値のある司令官ていうものにいっぺんでいいから仕えてみたいもんだ」
唐突に自分に話が振られて驚いた。
「甘寧興覇・・・。覚えておこう。何かあれば私の元へ来るが良い」
「ありがたいね。・・・そうそう、俺はこれから水軍の訓練をしに洞庭湖に戻るんだ。あんた、水軍の情報が欲しかったんだろ?」
周瑜は一瞬おどろいたような表情になった。
「・・・なぜそれがわかる」
「蔡瑁の屋敷の前を俺の忠告を無視して通ろうとした。で、俺が水軍の指揮官だとわかると俺についてきた」
「ふん・・・」
「ただひとつ解せないのは・・・・あんた本気で蔡瑁に色仕掛けで取り入ろうと思ったんじゃないだろうな?」
徐盛は、はっ、とした。
そのための女装か。
迂闊だった。もし本当にそんなことになっていたら、自分はどうすべきだったのだろう。
「・・たしかにあんたは綺麗だが、男だってわかったら斬首だぜ。よくもまあ、そんな策を思いついたもんだ」
周瑜はまた笑った。
「・・・おもしろい。そなたは本当におもしろい男だ、甘寧とやら」
「お褒めにあずかり、光栄だな」
甘寧は満足そうに言った。
徐盛はなぜかこの男とまた近いうちに会うような予感がした。