徐盛の活躍を聞いて、周瑜はもちろん孫権はいたく喜んだ。
そしてそのまま柴桑の守りを任せることにした。
徐盛としては、周瑜の元に行きたかったのだが、命令とあれば仕方がない。
黄射の再びの進攻に備えるためにも、兵の増員と訓練が必要だったし、やらねばならないことは山積みだった。
「なあ、徐文嚮どの。あんたなかなかやるな。あんたの部下になら、なってもいいぜ」
年齢に似合わない口調の丁奉は、徐盛のもとへやってきてそう言った。
何を生意気な、と思わないでもなかったが、徐盛はこの少年の武将としての将来を頼もしく思ってもいた。
年齢よりも身体も大きく、年上に見えた丁奉は、もはや他の兵たちに打ち解けている。
その分、構ってやる必要がないので仕事に専念できた。
徐盛は兵糧の調達や訓練の内容まで殆ど一人でやっていたのだった。
その柴桑へ増援部隊として送り込まれた一隊を率いるのが、凌統、字を公績という若者であった。
このときまだ15才になるかならずであった。
この若さで部隊を率いていること自体異例なのだが、先日亡くなった父・凌操の部曲を引き継いだものなので、誰が文句をつける筋合いのものでもなかった。
凌統は父の仇を討つため、黄祖討伐への先鋒をすでに孫権に願い出ていた。
出迎えた徐盛は凌統を歓待した。
そして今後のことを話し合った時に、凌統は強い口調で言ったのだ。
「父を射殺したのは、甘寧という江賊あがりのならずものだと聞きました。必ずこの男を討って父の仇を取りたいのです」
徐盛は驚いた。
甘寧、という名に覚えがあったからだ。
荊州の劉表に仕えていると言っていたが、まさか黄祖の配下になっていたとは。
(あの男と、戦わねばならんのか・・)
先だって荊州へ行ったときに遭ったあの男。
(江夏への進攻は水軍の仕事になる・・・侮ってはいかんということか)
「ああ、そういえば巴丘をお留守にされているとのことで、呂子明どのがそちらへ向かわれたそうですね」
「・・・水軍を率いて、か」
「お察しの通りです」
「周公瑾どのはいかがなされておられる?」
「公瑾どのはこのたび黄祖討伐隊が組織され、その水陸両都督に任命されました」
「そうか、あの方が都督に・・」
「ええ。皆喜んでおります。自分は周都督とはご一緒したことがあまりないのですがどのような采配をなさる方なのか、ずっと一緒だった文嚮どのにお話を伺おうと思っておりました」
凌統は姿勢を正して椅子に腰掛けている。
「・・某があの方のことを話すと長くなるのでやめておこう」
徐盛は少し笑ってそう言った。
「ずいぶん慕われておられますね、周都督は。そういえば先日もこんなことがありました」
凌統が言うには、呉都に帰還した周瑜を孫権はねぎらい、宴を催したという。
朱然、字を義封という男がいる。
孫権とは机をならべて一緒に学問に励んだ、いわば幼なじみのような関係であった。
彼はその宴の席で、自分と孫権の間柄について自分に照らしてみてどうか、と周瑜に問うたのだ。
周瑜の幼なじみといえば今は亡き孫権の兄・孫策のことである。
孫策が亡くなって3年、その傷跡が癒えたのかどうなのかはその場にいる者達の知るところではなかった。
だがそれを聞いて、その場にいた呂蒙や魯粛などはいい顔をしなかった。
諸葛瑾に至っては、朱然に「人の気持ちをもう少し考えなさい」と説教じみたことまで言っていた。。
朱然は顔を真っ赤にしてうつむいてしまったが、孫権はそれを見るに見かねてこう言った。
「まあ、良いではないか。私と義封、亡き兄と公瑾とを比べる方がおかしいのであって、人にはそれぞれにつきあい方が違うというものだ。義封は私のためにその方策を公瑾に尋ねようとしてくれただけであろう」
それを聞いた朱然はもちろん、他の臣たちも叩頭した。
その間、周瑜は一言も発せずにいたが、酒の器を持って一気にそれを呷り、空になった器を朱然に差し出し、
「私と亡き討逆将軍とは義兄弟であったことは知っているだろう?だから殿の言うとおりそなたと殿との関係とも、また違うのだよ。そういうことは自分で考えなさい」と言った。
朱然は差し出された器に酒を注ぎながら「申し訳ありません」と謝っていた。
「なにも謝ることではない。私も皆に気を遣わせていたのだということを知って自分の至らなさに呆れているところだ」
「公瑾どの・・・」
口を開いたのは諸葛瑾だった。
諸葛瑾と周瑜は初めて会ったときにお互いの中原に対する構想や考え方を交えて交流を深めた。
諸葛瑾は周瑜の人柄と深慮遠謀に心酔し、周瑜は諸葛瑾の切れ味のよい政治倫理観とそれとは対照的な穏やかさに好感を持った。
その諸葛瑾が心配そうに周瑜を見つめていた。
「公瑾、まあ、酒の席のことだ。つまらないことはいいっこなしにしようではないか」
孫権が取りなしたので、この話はここで終わった。
そのあと、周瑜のまわりに皆集まってきては代わる代わるに酒を酌み交わし、談笑していった。
皆がだんだんと夜が深まるにつれ酔っていくのに対し、周瑜だけは変わらぬように見えた。
心なしかほんのりと頬に薄い紅をひいたような赤みが差して、艶っぽさを醸し出していた。
宴に際し、呼ばれていた楽団の連中もしたたかに酔っているようで音がはずれだした。
周瑜は切れ長の目をそちらへ向ける。
酔っていても楽師の間違いを許さない厳しさでもって振り向く、とは孫軍ではもはや有名な話であった。
つとに立ち上がった周瑜は酔いつぶれて座り込んでいる楽団の一人の手から横笛を取りあげ、その笛を見つめていた。
「お、公瑾どのが笛を・・・・」
誰かが言った。
酔っている者もそうでない者も、一斉に周瑜を振り返った。
周瑜が静かに笛を奏で始めた。
楽隊は演奏を止め、周瑜の笛の音だけが響いた。
もの悲しい、音色だった。
酔っていたこともあってか、泣き出す者もいた。
殆どの者が聞き惚れていた。
そうして吹き終えると
「お粗末」と言い、笛を楽団の者に返した。
「いや、まことすばらしい」
いつもは宴席の楽団の音色など聞こえていないような武官たちからも絶賛を浴びた。
「噂には聞いておりましたがいや、これほどとは」
口々に褒める。
「いえ、楽団の笛を借りてしまうなど、今宵の私は酔うておるようです」
周瑜はそういって、立ったまま孫権に礼をした。
そしてそのまま、「酔いを醒まして参ります」といって宴席をはずしてしまった。
「私もその席にいて公瑾どのの笛の音を聞きましたがまこと、すばらしいものでした」
凌統が少し興奮したようにひとしきり話し終える。
あの方が笛を・・・・。
徐盛はこの数年一緒にいるときも周瑜は琴は弾いていたが笛など一度も吹いたところを見たことはなかった。
その場にいたかった、と思った。
あの方の奏でる音色を聴いてみたかった。
「文嚮どの?」
「あ、いや、すまぬ。少し考え事をしておった」
「すみません、お忙しいのでしょう?これにて退散致します」
徐盛は凌統と別れて再び一人になった。
会えないとなると寂しい。
いつの間にか、自分がこんなに周瑜を恋い慕っていることに自分自身驚いていた。
そして苦笑する。
(こんなことでどうする?徐盛よ・・・。己の使命も果たさずあの方にはお会いできぬ)
徐盛はそう自分に言い聞かせた。
水陸両都督である周瑜が水軍を率いて江夏へ昇ってきたのは、それから間もなくだった。
凌統、徐盛両名は江口まで出迎えた。潘璋、董襲といった副将も連れてきていた。
「周都督、お久しぶりです」
凌統がまず前にでて少し緊張しているのか、うわずった声で挨拶をした。
「公績、おまえも元気そうだね」
その目はなつかしいものを見るように笑っていた。
「文嚮も・・・おまえはよくやってくれているようで嬉しいよ」
「は・・ありがたきお言葉でございます」
徐盛は内心嬉しくて仕方がなかった。
会えない間、徐盛が心に描いていた周瑜よりも本物は更に美しかった。
時を同じくして、柴桑へ呂蒙がやってきた。
「おお、久しぶりだな文嚮」
「呂子明どのもお変わり無く」
一旦柴桑の城に駐屯することになった周瑜たちはそこで意外な客に会うことになった。
「甘寧、興覇と申す」
呂蒙が連れてきたのは、周瑜と徐盛がいつか襄陽で出会ったあの男であった。
「甘寧・・・・私をおぼえておるか?」
広間の上座にいる周瑜の前に座す甘寧はその精悍な顔をあげた。
「おお、あなたは・・・・。もちろん、憶えております」
甘寧は不敵な笑みをたたえた。
「なんと、お知り合いでしたか」呂蒙が驚いたような表情で言った。
甘寧は先年の戦いにおいて凌統の父で、そのとき孫軍の先鋒を務めていた凌操を黄祖を逃す際に射殺していた。
その手柄にも関わらず、論功行賞の際に全く無視された形になり、江賊以来の部下800人を持つ彼としては文句のひとつもあって当然であった。
「結局、黄祖ってヤツは身分とかにこだわって部下の手柄を全部てめえのものにしちまうってえ癖があるんです」
そのぞんざいなものの言いように呂蒙はたしなめるように甘寧に言った。
周瑜は笑って「ああ、気にしなくても良い。だが主公の前ではもう少し殊勝な態度をとってくれるよう頼む」と言って気にしなかった。
「俺にこっちにつくようにって進言してくれた蘇飛ってヤツがいるんですが・・・」
「蘇飛、か。名前は聞いている。黄祖の参軍らしいね。なかなかの切れ者だとか。先年の戦で黄祖を捉えられなかったのもその蘇飛のせいだ」
「・・・こんなことを言えた義理ではないんですが、こいつはなんとか生け捕りにしてもらえんでしょうか」
「・・・殺すな、ということか?」
「・・・・もっともそれを判断するのは俺じゃないってのはわかってるんですが」
甘寧はそっと目を伏せた。
「・・・・私にはなにも約束はできぬ。捕らえたければ、甘寧、それはおぬしに任せる。捕らえた者の命をどうするのかは主公の判断にお任せすることになるが、それでも構わないか」
「はい」
「もうじき、ここへ主公がおいでになる。そのときに改めておぬしを紹介しよう」
広間をでて、回廊を歩いている呂蒙、甘寧、徐盛の三名がいた。
「なあ、興覇、おぬしは一体どこで周都督とお会いになったんだ?」
「気になるか?」
甘寧は意味深な笑みを浮かべて得意そうに呂蒙を見た。
徐盛は甘寧に密かに目配せした。
甘寧はそれに気づき、
「ふ〜ん」と言ってうなづいた。
甘寧は蘇飛の進言により、江夏に赴任していた呂蒙のもとへ、配下をつれてやってきた。
そのときの一言がこれである。
「あんた、人がよさそうな顔してるな」
最初こそ甘寧という型破りな男に翻弄されていた呂蒙だったがその人柄を知るうちに打ち解けていったのだった。
「・・な、なんだよその笑いは」
「やっぱ、やめだ。勿体なくて教えらんねえ」
甘寧はそう言って、かかか、と笑った。
「甘興覇どの」
甘寧に声をかけるものがいた。
「潘文珪どの」呂蒙はその男の名を呼んだ。
「失礼、某は潘璋、文珪と申す。こたびの江夏進軍で前鋒の副将を任されておる者」
甘寧はこの潘璋という男をじっと見た。
「先ほどの甘興覇どののお話を聞いており、某がお役に立てれば、と思い参った」
「・・・・蘇飛のこと、か?」
それまで笑っていた甘寧の顔が引きしまったのを、呂蒙は見ていた。
「できうるかぎり、その蘇飛とやらを生け捕りにするよう配下のものにも言っておく」
「・・・・すまねえな、潘さんとやら」
「おぬしの恩人に対する考え方に同調しただけだ。おぬしは江賊出だと聞いたが義侠の心はあるのだな、と感心しておった」
「・・そりゃ嫌みか」
「おい、興覇!失礼だぞ」呂蒙が甘寧の失言をとりなそうとする。
潘璋はふっ、と笑って
「いや、そうではない。某はおぬしのような輩には好感を持っている。だがそうでないものもいる。気をつけることだ」
それだけいうと去っていった。
「余計な世話だってんだ」
甘寧は潘璋を見送って毒づいた。
しかし、隣で呂蒙が神妙な顔をしていることに気づいた。
「なんだ、どうした?」
「・・・おまえさっき周都督になんであのことを言わなかったんだ」
「・・・・」
「潘文珪殿の言っているのは、凌操の息子のことだ」
「ああ、さっき広間で俺のことを殺しそうな目で睨んでた、あの坊やか」
「わかっているのか?おまえは公績の仇なんだぞ」
「公績、てのか・・・ま、いろいろあるわな」
やっぱり飄々としたところは変わらない、と徐盛は思った。
しかし、凌統は言った。
必ず、父の仇を取る、と。