江夏、西陵の城に黄祖はいた。
蘇飛を都督にすえ、陳就、鄧龍という武将に指揮を任せ、自分は城で待つつもりであった。
蘇飛は黄祖に進言した。
「孫軍は長江を上って参りますゆえ、武昌の最も川幅の狭いところに河城を築き、迎え撃ちます。つきましては弩隊を組織したく物資をお願いいたします」
「うむ、よし、やってみるがいい」
一旦は下がった蘇飛だったが、その表情は苦いものであった。
「・・甘興覇がいれば・・・・」
そうひとりごちてみたものの、すぐさま首を横に振った。
「ん？おまえ、何やってんだ？」
甘寧が閲兵をすませ、それぞれの兵舎を見まわっていると、一人の下級兵士が地べたに座りこんでなにやら作業をしていた。
「はあ・・・槍の先に短剣をくっつけているんです」
「なんだってそんなことをしてるんだ？」
「自分は背が低いので騎馬での戦だと、手の長さが足りなくていつも１歩踏みこめないんです」
「へえ、なかなか考えてるじゃねえか。おまえ、名前は？」
「ふ、馮則、ッて言います」
「そうか、騎馬隊にいるのか・・・・。ま、がんばれよ」
「は、はい！」
騎馬隊といえば、凌統が指揮することになっている。
蒙衝に乗せて兵を運び、途中で上陸させて西陵の城をめざす作戦であった。
董襲と甘寧が水軍の指揮を直接とり、凌統とともに潘璋が陸部隊に加わる事になった。
先鋒は水軍は甘寧・呂蒙、陸軍では凌統・潘璋であった。
孫権は今柴桑にいる。
今回は父の弔い合戦でもあるので直接出る、と言ったのだったが、一緒に柴桑にきた張昭に止められたのだった。
実はその場には甘寧や周瑜らも同席していた。
張昭は、孫権自ら江夏へ出陣していっては、後背ががらあきになると言って心配していたのである。
それへ、甘寧はこう言った。
「あんたはそうやって後ろの事ばっかり気にしてるが、こっちがダメなら後だってダメだろうぜ。戦は集中して行うもんだ」
孫権も周瑜もびっくりしていた。
いまだかつて、張昭にこんな無礼な口を叩いたものはいない。
なにしろ張昭は孫権の後見人であり、今や呉都の重鎮である。
その張昭を「あんた」呼ばわりしたのだ。
張昭はみるみる顔を真っ赤にしていった。
まずい、と思ったのか、孫権があわててとりなした。
「わ、わかった。双方の言い分はもっともだ。ではこうしよう、私は柴桑に残るが、万一に備えて10万の兵を率いよう。先鋒は甘寧、そなたに任せる。頼んだぞ！」
「承知した」
張昭は不承不承、それを聞いて、出ていった。
甘寧も一応、頭を下げて退出した。
後に残ったのは孫権と周瑜、それに徐盛、呂蒙であった。
周瑜は手を叩き、
「お見事でございました」と言った。
「ふう・・・からかうな、公瑾」
「子布どのにはあれでよろしいでしょう。それより先ほどの１０万の兵のことですが」
「うむ」
「陸軍が西陵城に攻め入るのと同時に長江を上ってきていただきたく存じます」
「何、それでは間に合わんではないか」
「はい、間に合う必要はございません。１０万の兵が発った、という事実が大事なのです」
「はったりか」
「はい。黄祖という男にはそれで充分かと」
周瑜の読みは鋭い。
いつもながら、徐盛は感心してしまう。
徐盛は今回、先鋒ではなく水軍の第2陣を率いることになっていた。
「おまえは水戦の心得があるだろうから、甘興覇の後を頼む」
そう周瑜には言いつけられた。
いうまでもなく全力を尽くすつもりである。
しかし、あの甘寧の通った戦場跡に、何が残っているであろうか、とも思う徐盛であった。
蘇飛は長江の真中に錨を下ろした蒙衝同士を太い綱で結びつけて固定し、船上の要塞を作り上げた。
一番前の蒙衝には1000余りの弩隊がおり、やってきた孫権軍の蒙衝に向けて無数の弩を発射した。
「む・・これでは迂闊に近づけぬ・・一旦、引け！弓の届かない場所まで撤退しろ！」
董襲の命により孫権軍の蒙衝は数里後退した。
「あの弩をなんとかせねば」
先鋒隊の船には周瑜は当然のことながら乗っていない。
策を伺いに、後方の船まで行こうかと思案していた董襲だった。
「・・・ここは俺に任せてほしい」
甘寧が切り出した。
「どうするつもりだ？」
訊いたのは先鋒を預かる呂蒙だった。
「俺の舎弟たちに100隻船を任せて欲しい。小型船でいい。それであの馬鹿でっかい蒙衝の城を切り崩してみせる」
甘寧は昔からの自分の手下たち500人を集めそれぞれ100隻の船に乗せ、自らはその指揮を行う。
「俺が合図したらいっせいに突っ込んでこいよ！」甘寧は呂蒙にそう言った。
甘寧の指揮する小型の衝が近づくと、弩がいっせいに発射された。
立てた板と、二重に着こんだ鎧のおかげで100隻はほとんど無傷で近づく事に成功した。
黄祖軍の大きな蒙衝の影にはいると、弩は役に立たなかった。
甘寧隊はまず、黄祖軍の各蒙衝の錨の綱を切り始めた。
錨が切り離されると、途端に黄祖軍の船の要塞は流れ出した。
こうなると、弩は江の波に揺れてしまって役に立たない。
甘寧は合図の太鼓を鳴らし、自らは敵の蒙衝に乗り込んで行った。
「甘興覇どのが敵の将・鄧龍を討ち取りました！」
隊の中程に位置する周瑜の蒙衝にはひっきりなしに伝令が飛び込んでくる。
「董襲どのの隊が黄祖軍の船のつなぎ綱を切断しました！」
「敵の司令船に乗り込んだ呂子明どのが敵の指令官陳就を斬りました！」
周瑜はそれを待っていたかのように、立ち上がって手を大きく前へと振りだした。
「今だ！全軍突撃せよ！陸部隊、上陸開始！敵の都督を捕らえよ！」
周瑜の号令のもと、孫権軍は怒濤の進撃を開始した。
一方、戦況不利とみた蘇飛は軍をまとめて、陸に上がろうとしていた。
「一旦、城へ引く！」
「都督どの！孫権軍の追っ手がきます！」
「なんと！？・・・なんとすばやい・・・！全力で逃げ切れ」
その状況は西陵の黄祖にも伝わった。
「なんだと！？孫権軍がこの城に攻め込んでくるだと！？」
「は、さらに１０万の水軍がすでに柴桑を発ったとの報せもはいってきております」
「じゅ・・・10万だと・・・？・・・そ、蘇飛はどうしたっ！？あやつめ、何をやっておるのだっ！」
黄祖は立ち上がって足を踏みならした。
「黄射さま、戦死致してございますっ！」
「な・・・・・・！！」
黄祖は息子の戦死を聞いて、青くなった。
これはまずいことになった・・・・。
黄祖は兵を残し、自分の側近たちだけを連れてこっそりと城を抜け出した。
命からがら城へ戻った蘇飛は黄祖の姿がないことに気づいた。
「・・・なんということだ・・・！大将自ら城と我々を捨てて逃げたというのか！これでは何の為に戦うのかわからんではないか！！」
城には凌統や潘璋の騎馬隊が殺到していた。
水軍の甘寧たちも蘇飛を追って上陸していた。
城に攻めにかかる凌統の部隊を見て、あまりの黄祖軍のもろさに甘寧は思いついたことがあった。
そこへ、出撃前に声を掛けた下級兵の騎馬が通りかかった。
「おい、おまえ！」
「・・はい？あっ、甘隊長どの！」
「たしか、馮則とか言ったな。おまえの馬に乗せろ」
「は、はい！」
甘寧は馮則の馬の後ろに同乗し、裏門に回らせた。
「こ、こんな方にきちゃってていいんでしょうか・・？」
「つべこべ言うな！俺の考えがただしけりゃ、こっちで間違いはない」
甘寧はそう言いながら背中にしょっていた弓を取り出し、矢をつがえようとしていた。
「いた！」
甘寧がめざとく見つけたのは、裏門から数里のところで荷馬車に乗った一団であった。
「わわわ！おぬしは甘寧！なんでここに！？」
振り返った驚愕の顔はまぎれもなく黄祖であった。
どうやら馬車には金品が積まれているらしい。
「あんたのことだから、どうせこんなことだろうと思ったんだよ！兵を見捨てて逃げるたあ、いい根性じゃねえか！」
「わ、わかった！甘寧、おまえを大将軍にしてやる！褒美も思いのままに取らす！な？だからここはおとなしく・・・」
黄祖の言葉を遮って、甘寧は怒りを帯びた声で怒鳴った。
「そういうことはもっと早くに言えば良かったな！ああ？遅すぎるってんだよ！」
そう言って、甘寧は弓をつがえ、黄祖をねらい撃ちした。
「わあっ」
甘寧の矢が黄祖の背中に突きたった。
黄祖は馬車から落ちて、それでも立ち上がって逃げようとしていた。
「馮則！とどめをさせ！」
「・・は、はいっ・・・！！」
甘寧を後ろに乗せたまま、馮則の騎馬は黄祖の背後から襲い、先ほど自分でくくりつけていた短剣付きの槍で、黄祖の身体を貫いた。
黄祖はその場にどさり、と倒れた。
「よくやった！おまえの手柄だぞ！大殊勲だ！」
甘寧は騎馬の前に座っている下級兵士の肩をがし、とつかんでばしばしと叩いた。
「そ・・そんな！甘隊長のお手柄です・・・」
馮則は小さな声でそう言った。
「馬鹿、胸をはれ！おまえが黄祖を倒したんだ！首を持ち帰るぞ！」
「・・は、はいっ・・！」
通常、下級兵士の手柄などはその上司の手柄になってしまうのが普通であった。
だが、甘寧はこの大手柄を惜しげもなくこの下級兵士のものにしてやった。
この日から馮則というこの兵士は甘寧直属の部下となって、合肥で命を落とすまで忠実に働くことになる。
西陵の城では蘇飛が降伏し、城を明け渡した。
その蘇飛を斬り殺そうとした凌統を止めたのは潘璋であった。
「周都督からは、敵の都督を捕らえよとの命を受けている。斬り殺すのは命令違反であるぞ！」といって止めたので、凌統も仕方なく従った。
蘇飛を捕らえ、黄祖の首を落とし、孫権軍は柴桑へと凱旋していった。
「そうか、黄祖を討ったか！」
孫権は手を叩いて喜んだ。
論功行賞を行い、その第1の殊勲は甘寧であった。
しかし、甘寧は蘇飛の身柄を自分に預けて欲しいと嘆願し、そのかわりに官位はいらぬ、と言った。
孫権はどういうことかという顔を、周瑜に向けた。
周瑜は孫権に耳打ちし、ようやっと事態を飲込んだ。
しかし、蘇飛という男は黄祖の元にあって、これまで孫権軍を幾度となく苦しめてきた敵であった。
「う～む・・・」
悩む孫権に周瑜は言った。
「主公、どうか過去の事より未来をお考え下さい。ここで蘇飛の命を奪ったとて、甘興覇を得られぬのであれば意味はございません」
孫権はちらり、と周瑜を見やった。
そして膝を叩き、
「よし、わかった。蘇飛はお主に任せる。だが、蘇飛が万一裏切るようなことになれば・・・そのときはおぬしどう責任を取るつもりだ？」
孫権がそういうだろうと、予測はしていたのだろう、甘寧は間髪を入れずそれに返答した。
「その時は俺が奴を斬ります。そして俺のことも処罰してくださって構いません」
「・・・・・そうか。ならばもうなにも言うまい。だがひとつだけ条件があるぞ、甘寧」
孫権の意外な言葉に、甘寧は顔を上げた。
その顔はいつになく緊張していた。
「官位は受け取れ。それが条件だ」
（8）へ続く