「ハ陽湖に?」
「ああ、何でも水軍の訓練のために駐屯なさるとか」
「そんな、ではこの江夏は?」
「騎都尉の呂子明どのが任じられたらしい」
「そうなのか・・・俺も一緒に行きたいなあ」
「みんなそう思ってるさ。ここでだって水軍の訓練はできるのにさ」
下級兵たちの口に上ったこの話は、もちろん周瑜のことである。
黄祖討伐の後、孫権が呉都にもどり、父の霊前に黄祖の首を持って返った後の人事であった。
孫権は黄祖討伐の後の論功行賞で周瑜を軍の総司令官の地位である中護軍に任じ、来るべき北との戦に備えて水軍の訓練のためハ陽への駐屯を命じたのであった。
孫権宛に北の曹操から、官位と引き替えに軍門に下るよう、書簡が届いていた。
曹操は帝を手中に、孫権を呉候に封じた。
数年前にも同じように、まだ幼い孫権の子を人質として差し出せ、という内容が含まれた書簡が届き、亡き兄の跡を継いだばかりの孫権はうろたえるばかりであった。
すでにそのとき孫権のまわりには呉下や近隣郡から武官・文官など優秀な人材が集まってきていた。
文官を取り仕切るのは張昭であり、実質孫権の後見人として絶大な影響力があった。
彼らの多くは、着実に勢力を増し続ける曹操に対抗するのは困難だという意見であった。
ところが、この曹操の脅しに真っ向から反対したのは言うまでもなく周瑜であった。
張昭は、この一見物静かで優しげな美貌の持ち主がこうまで好戦的な意見を持っているとは意外だ、と思った。
だから今回も、周瑜がいれば曹操を全面戦争になるであろう、とは容易に想像できた。
周瑜は呉都でも人気と人望に恵まれていた。
彼がもし強硬な態度に出れば、孫権とて従わざるを得ないであろう。
だから、やりにくかった。
張昭としても、周瑜は呉にとってなくてばならない存在であることはわかっている。
だから、孫権に周瑜をハ陽に行かせるよう進言したのだ。
「だからといって、言いなりになるのは少し口惜しい気が致します」
周瑜についてきた徐盛はそう言った。
呉都から一旦巴丘に戻った周瑜は、手勢の水軍を率いて江水を下り、ハ陽まで船の旅をすることとなった。
徐盛はその船室で周瑜と遅い昼食を摂っていた。
「良いではないか、気にせずとも。あちらにはあちらの都合があるのであろう。所詮私は一軍人にしかすぎぬのだよ」
周瑜はそう言うが、徐盛は納得できなかった。
だいたい、中護軍に任じておきながら水軍の訓練をさせるなどとは。
曹操が迫ってきているのは知っている。
そんな時に、なぜまるでやっかい払いのような真似をされなくてはならないのだろう。
中護軍ならば今頃主公のお側にいて、軍議を行っていなければならないはずだ。
「どうした?」
「・・・・いえ。なぜあなたはいつもそう涼しい顔をしておられるのかと」
徐盛の問いに、周瑜は微笑んだ。
「悩んだってどうにもならないこともある。それならばその中で自分のやれることをして過ごすしかないだろう?」
そう言いながら周瑜は手を休めた。
「・・もう召し上がらないのですか」
「・・・・ああ、もういい」
周瑜は少食である。だが、ここのところ特に食が細いようだ。
酒をたしなむときは少しはつまむのだが、行軍中は最低限の食事しか摂らない。
ただでさえ、細い身体なのに、と徐盛は心配でたまらない。
「すまぬ。心配をかけているのはわかっているのだが、身体が受け付けないのだ」
涼しい顔とは裏腹に、実は気にかかっているのであろう、と思う。
そういう心の内を誰にも明かさないのは周瑜の悪い癖なのだ。
「密偵の報告によると、曹操は水軍の訓練をするために人工の池を造ったそうだ」
「ほう、それはそれは」
ハ陽についた周瑜たちを出迎えたのは呂範だった。
徐盛としては、周瑜の事情を知っている呂範がこの地にいてくれたことがありがたかった。
駐屯している間、官舎としてあてがわれた屋敷に落ち着くと、さっそく呂範たちを呼んで、話し合いを始めたのだった。
「それにしても、相変わらずですね、子衡どのは」
周瑜が含んだ笑いをこぼした。
「なんのことだ?」
「あの船団のことですよ」
周瑜のいわんとしていることに徐盛は同調した。
うわさには聞いていたが、呂範の船団の派手さには驚かされた。
船にはいたるところに過剰とも思われる金箔の装飾がなされており、旗艦の船首には黄金の龍の像が飾り付けてあった。
敵の度肝を抜くには丁度良いのではないかと思うが、やりすぎでは、とも思う。
呂範と言う男は少し飄々としたところがあって、時にそれが他の者たちの不信を買う事があった。
周瑜が、静かな良いところですね、というと呂範は
「しかし、ここは辺鄙なわりに山賊や夜盗の類が出るんだ。そのうちおぬしらの力も借りるからな」と言った。
相変わらずな御仁だ、と徐盛は思った。
周瑜麾下、訓練に参加していたのは程普ら都を護る武将らを除いた甘寧、黄蓋らであった。
ハ陽湖は大きな湖である。
ここで大規模な訓練を毎日行った。
そうしていくばくかの時が過ぎようとしていた。
そして在る時柴桑にいる孫権から使者がきた。
それは周瑜を召還するものであった。
劉備玄徳という、豫州の牧をしていた男が曹操に追われ、逃げてきたらしい。
それで同盟を結ぶために使者をよこしたのだ。
水軍を甘寧に任せ、徐盛は周瑜について柴桑へと戻った。
そこには呂蒙が待っていた。
「公瑾どの!ご無沙汰しております」
「ああ、子明、元気そうだね」
「文嚮、おまえも」
「はい。お元気そうでなによりです」
「使者はもうついているのか?」
「ええ、向かわれますか?」
「うむ」
周瑜はうなずきかけて、いや、と首を振った。
「先に、殿にお会いすることにするよ」
「そうですか、それではご案内します」
呂蒙はそういって周瑜の前を歩き出した。
「それでは某は兵舎に戻っております」 徐盛はそういって一礼した。
周瑜は徐盛を振り返って微笑した。
「あとで食事を一緒に摂ろう」
「は、では後ほど」
徐盛は兵舎へと向かった。
その途中だった。
「あれは・・・魯子敬どの」
魯粛が宿舎の前に立っていた。
それと、もう一人、いた。
背がスラリ、と高い。
これが劉豫州の使者か。
徐盛が何気なく見つめていると、ふいに使者は徐盛の方を振り返った。
一瞬、目が合った。
どきり、とした。
若い聡明そうな顔に、妙な威圧感があった。
白い袍を纏っており、巾を被っている。目を引いたのはその手に持っていた白い羽扇であった。
「魯子敬どの、あちらは?」
「ん?」
魯粛は振り向くと、徐盛は一礼した。
「徐盛か。公瑾と一緒に参ったのか?」
「はい、さようです」
「そうか、ではもうじき周公瑾に会えますな、孔明どの」
孔明、と呼ばれたその男は「ええ」と言って笑った。
さらに白羽扇で自分の口元を隠しながら
「早くお会いしたいですね、周公瑾どのに」と言った。
徐盛はこの男を見て少しだけ、不愉快さを覚えた。
なんとなく、周瑜とは会わせてはならない、という気がしていた。
(9)へ続く