徐盛の控える部屋に呂蒙がやって来た。
なんだか難しい顔をしているように見えた。
「どうか・・・なさいましたか?」
「うん・・・・あの、諸葛亮という使者のことだ」
徐盛は、その名前にぴく、と反応した。
諸葛亮が先日周瑜の部屋に忍び込んで狼藉をはたらいたという話しを聞いたからだった。
その場にもし自分がいたら、呂蒙でなくても剣を抜いていただろう。
あの男は危険だ。
徐盛は柴桑にいる間、あいかわらず多忙であった。
だから周瑜の身の回りに何か有っても急に駆けつけられない。
ここ当分は呂蒙がその自分の代わりをしてくれていた。
「公瑾殿がおっしゃるには・・・あの男、公瑾殿の正体に気づいているらしい」
「・・・!」
「おまえも心配だろうが。それとなく、あの男を見張って欲しいんだ」
「承知しました」
徐盛の思ったとおり、あの男は油断がならない、ということであった。
あの方を女と知って、何かを強要するであろうか。徐盛が恐れているのはまさにそのことであった。
「文嚮…」
周瑜の呼ぶ声がする。
「文嚮、私を・・・・・抱いておくれ」
「公瑾…どの…何を…」
周瑜は女の衣装を纏い、悩ましく徐盛を誘う。
周瑜はその紅い唇を寄せてきた。
「私が嫌いか・…?」
その妖艶さに徐盛は眩暈を覚えた。
「なにを申されます、公瑾どの…某は…ずっとあなたが…」
徐盛は周瑜の体を絡めとり、抱き寄せた。
すると周瑜の口からけたたましい笑い声が起こった。
「そうだ徐文嚮!いつもおぬしは私を抱きたいと思っていたはず。なぜそれを押し殺す?」
「……」
周瑜の腕が徐盛の首に絡みつく。
「こ…公瑾どの…」
「…文嚮…」
徐盛は周瑜をゆっくりと押し倒して行った。
目が醒めて、徐盛は愕然とした。
「……なんという夢を…」
徐盛は目頭を押さえた。
「…俺は…」
己の邪まな想いが夢となって具現したのだ、と思った。
「抗えぬのか、己の執着には」
その日、徐盛は周瑜のところへは行かず、昨夜呂蒙がいったとおり、回廊の奥の部屋に軟禁されている劉豫州の使者を見張っていた。
部屋の前には中庭があり、その隅の一角から徐盛は部屋の窓からのぞく使者の横顔を見ていた。
しばらく見ていたが、特に動きはないようだった。
そこへ、周瑜が呂蒙を連れてやってきた。
徐盛は今朝に見た夢の事があって、周瑜の顔をまともに見られなかった。
「こんな俺に、あの方を護る資格があるのだろうか・・・」
自問する。
少し、離れた方がいいのかもしれない。
だが、周瑜が呉都に戻っていたあの間ですらあんなに恋しかったというのに、自分から離れることなどできるのであろうか。
思い悩んでいると、徐盛のうしろから、丁奉が声をかけてきた。
「よっ!文嚮どの。こんなとこで何をやってるんです?」
ここ数年で丁奉は体も大きくなり、まだ十代の少年とは思えない使い手となっていた。
「承淵か・・・おどかすな。おまえこそ何をやっている?」
「むこうの広場で槍の稽古をしていたんですが、ちょっと一休みってとこで」
「そうか」
「あ、もしかしてあそこですか?劉豫州の使者が収監されてる部屋は」
丁奉は徐盛の視線の先にある部屋を見た。
「・・・・ああ」
「なんでも周中護軍どのにちょっかい出したんですって?
「・・・よく知っているな」
「そりゃもう。劉豫州の使者は男好きだって言ってみんな笑ってますよ」
丁奉はそういって笑った。
「まあ、気持ちはわからんでもないが、っていうのがみんなの正直な意見ですがね」
「承淵、そのようなこと、まちがっても中護軍どののお耳に入れてはならんぞ」
徐盛は真顔で言った。
「わかってますよ」
丁奉は徐盛に向き直って頷いた。
「・・・あ、誰か出てきましたよ。・・周中護軍どのだ」
「・・・・・・」
「あの人、なんであんなに綺麗なんでしょうねえ?あんまり近くでお会いすることもできないけど、遠目に見てもこれだけ綺麗なんだから近くによったらもっと綺麗なんでしょうね」
「綺麗、というのは男への誉め言葉としてどうなのかな?」
「だって他に言いようがないですよ。かっこいいとか男らしいとか、そういうのじゃないし・・・わかります?」
「・・・・・」
丁奉はそう言って屈託無く笑う。
知らなければ、良かった。
知らなければ、丁奉のようにただ憧れていられたのだろう。
こんな思いをするくらいならば。
徐盛はその後、周瑜の部屋を訪れた。
そして自分の意思を伝えた。
「・・・そうか。それは別に構わないよ。おまえはもともと柴桑の太守を任されていた身だし。だけど、急に城下警備に廻して欲しいだなんて言い出した理由を教えてくれないか」
「・・それは・・・・ただ、太守として残っておりました任務に集中したいと思っただけでございます」
「ふうん・・・」
柴桑に孫権が移ってきた時点で、徐盛の太守の任務は終わり、都を警護する虎賁校尉と都護という称号をもらっていた。
だから今更こんなことを言い出す理由がないのであった。
周瑜が不信に思わないわけはない。
「要するに、おまえは私から離れたいのだね。そうでしょう?」
「・・・・・・いえ、そのようなことは」
「正直に言いなさい。何か、あったのか?」
「・・・・・」
まさか、言えるはずがない。
徐盛は唇を結んだまま目を伏せた。
「徐盛!」
周瑜はきつい口調で徐盛を呼んだ。
「・・・・・・申し訳在りません」
徐盛は顔を上げずにそう言った。
周瑜はふう、と溜息をついた。
「私はそんなに嫌われているのか」
「いいえ!そのようなことは決して!」
徐盛は咄嗟に顔を上げ、それを否定した。
「では、なぜだ?」
「・・・・自分が、貴方のおそばにいるのにふさわしくない男と考えたからです」
「・・・・・・・・」
周瑜は徐盛をじっと見た。
その視線に耐えられず、思わずうつむいてしまった。
「文嚮・・・・」
夢で見たのと、同じ声。
徐盛は、あの夢を彷彿とさせるこの状況を振り払おうと、ぎゅっと、堅く目を閉じた。
頬に何かが触れた。
それを確かめようと目をそっと開けると、目の前に周瑜の双眸があった。
「公・・・・!」
徐盛は驚いた。
こんなに間近で周瑜を見たのは初めてだった。・・・あの夢を除いては。
周瑜の両腕が自分の首に廻されていた。
「・・・・おまえは私が何者か知っている。それがおまえには苦しいのだろうか。・・・私はそんなにおまえに負担をかけていたのだろうか・・?」
そういうと、周瑜は徐盛の頭を抱きしめた。
「・・・・・・!」
徐盛は固まったまま、周瑜の抱擁に身をゆだねていた。
(これも、夢か・・・?己の執着が未だ俺を夢にとどめているのか・・・?)
自分の両手で、周瑜の体を抱き返したかった。
だが、その手は堅く膝に握ったままであった。
「・・・困るのだ。おまえに傍にいてもらわないと。・・・おまえが私をどう思っていようと、私にはおまえが必要なのだ」
徐盛は周瑜に抱かれたまま、再び目を閉じた。
(公瑾どのは、俺の気持ちに気づいておられるのだ・・・)
そう思うとなぜか緊張していたものがほぐれるような想いだった。
それにしても柔らかい感触だ、と思った。
自分の頬が周瑜の胸に当たっているのを感じた。
しかし、なぜか夢の中のような激情は起こらなかった。
この、慈愛に満ちた抱擁のせいかもしれない。
「文嚮、私を抱きたいか?」
急な言葉に、徐盛は息が止まるかと思った。
「・・・・・」
言葉にならなかった。
「おまえが望むのなら・・・・私は」
徐盛は目を開けて、周瑜の背中を軽く叩いた。
「文嚮・・・?」
これ以上、この方に言葉を紡がせてはいけない。
そんなことを、男として許してはいけない。
「公瑾どの・・・この愚か者の前でそのようなことを申されてはいけません。」
徐盛がそう言うと周瑜は抱擁を解いた。
「申し訳在りません。あなたのことを考えもせず、己の保身ばかりを考えておりました。・…お許しください」
「文嚮・・。では」
徐盛は周瑜の前に深く礼をした。
「不用だ、とおっしゃられるまで、お傍にいさせていただきとうございます」
周瑜の表情がぱっ、と晴れた。
「そう・・・か、良かった」
そうだ。この顔を見るためなら、自分の想いを殺すくらいなんでもない、そう思った。
「愚かな事を申し上げた事をお許しください」
もう、充分だった。
これ以上何も望まない。
この気持ちを捨てる事もしないかわりに遂げる事もしない。
徐盛はこの日から再び周瑜のために尽くすことを心に誓った。