(1)序

時は209年、建安14年。
周瑜は左将軍を拝命し南郡太守となり、彼らと共に南郡城に駐屯していた。


「で、あの派手な野郎は帰ったのか」
「派手な野郎ってどなたのことですか?」
「・・・本気でわからないのか」
なかば呂蒙は呆れて言った。
「そう言われましても・・・」
賢そうな顔を歪ませて陸遜は困った表情になった。

「西涼の馬孟起殿、だよ」
「ああ」
陸遜はやっと合点がいった、といわんばかりに手を打った。
「今朝早く発ちましたよ」
「周将軍はどうされている?」
「朝議の後に出発準備があるとかで兵舎へ行かれましたが、今はどこにいらっしゃるのかわかりません」
「そうか」
「なにかありましたか?」
「うむ。いや、なんでもない」
「・・・?」
呂蒙は内心イライラしていた。

馬超孟起という男のことは聞き及んでいる。
涼州では勇猛な男で有名であった。
だが、あのなれなれしさはどうだ。
まるで周瑜のことを自分のもののように扱っているではないか。
それが呂蒙には気に入らなかった。
陸遜はそれをやんわりと見抜き、クス、と笑った。
「やきもちを妬いておられるのですね、子明殿」
「なに、俺が?やきもちだと?」
呂蒙は図星を指されて慌てた。
「・・・い、いい加減なことを言うな!」
真っ赤になる呂蒙を見て、陸遜は更に笑った。
「別に、おかしくないですよ。確かに、私だってあの馬孟起殿の横柄な態度には少々思うところもありましたし」
「ほう。温厚なおまえでもか」
「・・私はそれほど温厚な性格でもありませんよ。周将軍は我が軍の大切なお方です。それをあのような態度で応じる馬孟起殿に不信感を持つのは当然のことです。まったく周将軍はお心の広いお方としか思えませんよ」
「ふむ、たしかになあ」
陸遜はさらに呂蒙に小声で付け加えた。
「・・・あの徐文嚮がいつ剣を抜くかと内心ひやひやしていましたよ」
呂蒙はぷっ、と吹き出した。
「俺もだ」
そういって二人は笑い合った。

「やあ、楽しそうだね」

その二人に回廊の向かい側から声をかけるのは孫瑜であった。
「・・あ、これは孫奮威将軍」
呂蒙と陸遜は一礼した。
「もう都に戻る準備はできたのかね?」
「ええ。奮威殿こそもうお済みですか?」
「うん。これから周将軍のところへ行って報告するところだよ」
「それはご苦労様です」
「周将軍なら先程兵舎の方へ歩いて行かれるのをお見かけ致しましたが」
「おお、そうか。では今しばらくお戻りを待とう。なに、いそぐことでもないのでね」
ちょうどそのとき回廊の反対側から徐盛が歩いてきた。
「おお徐文嚮、周将軍はご一緒ではないのか?」
「いえ。お伝えすることがあるので某もお探ししているところです」
呂蒙は少し意外な顔をした。
「おぬしが将軍と一緒でないなんて珍しいな」
徐盛は無言で呂蒙を見て答えた。
「・・・某にもお勤めがありますので」
陸遜が軽く微笑んだ。
「ですが周将軍のことを一番よくご存知なのはあなたです。こちらの奮威将軍が周将軍にご報告があるとかでお待ちなのですよ」
「そうでしたか。それではそのようにお伝えして参ります」
探している、といった割に、今周瑜がどこにいるのか、わかっているという答えであった。


その頃、周瑜は兵舎の広場にやってきていた。
従者が茶を運び、それをすすりながら調練する兵を見ていた。
兵達は周瑜が見ていることに浮き足だちはじめ、袖を引っ張り合いながらこそこそと何事かを言い合った。
「こらぁーー!そこ、動きが鈍いぞ!周将軍の前でみっともないマネを晒すな!!」
什長が大声で彼らを叱りつける。
その間周瑜は表情一つ変えず微動だにしなかった。
「よく訓練されているようだな」
「まだまだ甘い連中が多いようです」
「甲冑をつけたまま泳げるほどの者はいるか?」
「おりますが・・・そういった策に登用するので?」
「この先、長江を挟んでの対峙が多くなろう。少しでも有利に戦況を進めるためにはそういった工作員が必要になってくる」
「は」
「死なない兵を作ることも重要だ」
「はい」
「我らの敵は長江の北にいる。だが真の敵は慢心する己の中にいるのだ。努々忘れるな」
「ははっ!」
凛とした声で周瑜が一喝する。
兵達はその瞬間面を引き締めるのであった。

「周将軍」
「ん?」
周瑜は斜め後ろから声をかける徐盛を振り向いた。
「おまえか。よくここがわかったね」
「は」
徐盛は周瑜に一礼した。
「なんだね?」
「都へお戻りになる船のしつらえが明後日の午後までかかるようです」
「明後日か・・・遅いな。もうすこし前にはならぬか」
「どうも、何隻かの甲板後部の板が腐っている部分があったようで、放っておくとそこから浸水してしまう恐れがあるそうです」
「・・なるほど。それで先ほどから朝だというのに船に出入りする者が多いのか」
「突貫で作業をさせておりますので」
「ふむ。仕方がない、早馬を出してその旨殿に遅れることを報せよ」
「は」
周瑜は徐盛から顔を逸らして伝令にそう告げる。
徐盛はそれにはかまわず報告を続ける。
「それから孫奮威殿が将軍を部屋でお待ちだそうです」
「そうか。わかった」
伝え終わると徐盛はすぐさま周瑜の傍を離れ、兵を呼んで伝令を申しつけた。
周瑜は什長に耳打ちしてからその場を離れた。
その後をすぐさま徐盛が追う。


しばらく歩いて周瑜がふと、振り返る。
「荊州にはもう少し兵を置かねばならんな。呂蒙と・・・やはり甘寧あたりを呼び戻すか」
「荊州で兵を募らねばなりませんね」
「うむ。先の大戦で生き残った捕虜共をうまく使うことだ。彼らにも家族があろう。食わせてやれば兵として蘇らせることができよう」
「仰せの通りです」
「南郡が抜かれれば武陵以南への侵攻を許すことになってしまう。それだけはなんとしても避けたい」
「は。劉玄徳がこのまま荊州で勢力を広げるようなことになれば、先の烏林での大勝の意味がありません」
周瑜は徐盛をちら、と見た。
「・・・ひとつは私の失策のせいでもある・・・あの諸葛亮の所行を見抜けなかったことだ」
「周将軍・・・。それは違います。将軍がいなければ戦をする以前に負けておりました」
「いいのだよ。それはまぎれもない事実なのだから。少しばかり私は図に乗っていたようだ」
「そのようなことはありません。あのようなお体でよくお耐えになられました」
「この先もうあのようなことにはならぬ」
「・・・・」
「・・・それを道具に使うようなことも」
そのとき徐盛は周瑜の顔を見ながらふと何かを思いだしたようであった。
それは錦馬超と呼ばれる男の顔であったかもしれぬ。

この人は、自戒の念に苦しめられているのだろうか-

徐盛はそう思った。

「荊州は通過点にすぎぬ」
徐盛ははっ、とした。
その凛とした声に。
「荊州を取って北へ侵攻する。そのための策を練った」
徐盛はその美しい唇に似つかわしくない戦略を聞いた。
「我らの敵は劉玄徳にあらず。目指すは北だ。そのためにこの命、惜しむらくもない」
「周将軍、どうか・・・そのようなことは」
周瑜はふふ、と笑った。
「そのくらいの覚悟がある、ということだよ」
「は・・」
徐盛はそれでも少しも笑わずまっすぐに周瑜を見つめていた。

周瑜はしばらく徐盛を見ていたがふい、と目を逸らし虚空を見つめた。

「ふふ、私らしくもない、か。病を経て脆弱になったかな」

見上げる先にいる佳人は前よりもいくぶんか痩せて壮絶なまでに美しい。
透けるような白い肌と紅い唇。
これだけ一緒にいてもなお見とれる程の美。
その美は一刻一刻表情を変えていく。
それを一時でも見逃してはいけないような気がする。
周瑜の心を知らず、徐盛はそんなことを考えていた。



「孫奮威殿、お待たせ致しました」
「ああ、周将軍。いや、ご足労いただきかたじけない」
「そちらの準備はもうお済みだと伺いましたが」
「はい」
「それは重上。ですが困ったことに船の方に少し問題が発生しましてね。出立は明後日になりそうです」
「明日中には荷を詰め込めそうですか?」
「船によっては明後日の朝になるやもしれません」
「そうですか。わかりました」
「それまではゆっくりなされますよう」
「ありがとうございます」
孫瑜は顔をあげると、周瑜の白い貌を見て言った。
「時に、あの涼州の武者はもう出立なされたとか・・。一体何用にてこのようなところまで」
「ふふ。それは都に戻ってから殿にご報告の後、お話し致しますよ」
「ほう!なにか策があるのですね」
周瑜はただ、不敵に頷くのみだった。
孫瑜は畏敬の念を込めて周瑜を見た。
そしてその後ろに控える徐盛の無表情な顔に目をやった。

「どうかしたのか」
周瑜の肩越しに、孫瑜が徐盛に声を掛けた。
「は」
「なにやら顔色が冴えぬし虚ろなように見えるが」
「そのようなことはございません。もとより愛想というものから遠ざかっております故」
「ふむ。そうか、ならばよいが」
周瑜は徐盛をチラリと見て、少しキツイ口調で言った。
「徐文嚮、おまえはもう下がっていなさい。船のことで昨夜から休んでいないのだろう」
「いえ、大丈夫です」
「いいから、これは命令だ。部屋へ戻って休みなさい」
徐盛は仕方なく、頭を下げた。
「・・・お心遣い、いたみいります。失礼つかまつります」


周瑜と二人きりになって、孫瑜はじっと、周瑜の顔を見つめた。
「・・・なにか?」
「・・・あ、いえ。前もこうして二人でよく語り合たものだと思いまして、つい懐かしく・・・」
(あの頃とかわりなく、あなたは美しい)
孫瑜は密かにそう思った。
「ああ・・そうでしたね。あれは・・孫国儀殿の一件のときでしたでしょうか」
「国儀殿といえば、先年、お亡くなりになりました。ご存知でしたか?」
孫瑜の言葉に、周瑜は驚いた。
「・・・・いえ。それは知りませんでした。私はもうずっと戦場におりましたので」
「そうでしょうね。国儀殿はご自分の邸であれ以来軟禁状態でしたから」
「・・・病ですか?」
「・・・表向きはそうなっておりますが・・・本当のところはわかりません」
「そうですか・・・」
「あの開戦の折り、国儀殿が曹操に内応される恐れがあったのではと、殿は思っていらしたようです」
孫瑜は暗に孫輔は暗殺されたのではないか、という疑惑を投げかけているのであった。

孫輔、字を国儀という、孫権の従兄弟は、数年前、曹操への挨拶の密書を送ろうとしたことがバレて、軟禁されていたのである。
その所業を暴いたのは何を隠そうここにいる二人なのであったが。


「このような結果になって真に残念です。あなたのお気持ちを汲み取れず、お力になれなくて申し訳なく思っております」
孫瑜は頭を下げた。
「仲異殿、もう良いのです。我々がどうあがいたところで、国儀殿の気持ちはお変わりにならなかったのですから」
「・・・・」
孫瑜は周瑜という人物の心根の優しさと厳しさを同時にかいま見た気がした。

「それより、仲異殿。丹陽太守としてのあなたの評判はよく伺っておりますよ」

更迭された孫輔のあとをうけて丹陽太守には、この件で功のあった孫瑜が任命された。
「誠に、お恥ずかしい限りです。本来なら功はあなたにこそあるべきですのに。・・・まあ、しかしあんなことがあって、太守が交代したもので、せめて人心に不安を与えないようにと務めて参りましただけです」
「そのようにご謙遜なさらなくてもよいのですよ」
周瑜はにこやかに微笑んだ。

「仲異殿。実はお願いがあるのですが」
孫瑜は驚いた。
「あなたが私に頼み事とはまた・・・なんでしょうか?」
「私と共に殿の元へ出向き、私が提示する作戦に、是非お力を貸していただきたい」
「・・・おお!そのような、願ってもない頼まれ事であれば、どうして私が尽力を惜しむことがあるでしょう」
「そういってくださるとはありがたい」
「して、どのような作戦です?」
「これからそれをご説明致します」
孫瑜はわくわくしてそれを聞いた。




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