(2)徐盛




周瑜に休むようにと命じられた徐盛であったが、回廊をなにやら朦朧として歩いていた。
徐盛には不安があった。
この先も彼はずっと周瑜を守り続けるつもりであった。
しかし、あの一件以来、周瑜を女として見ている自分がいた。
馬超孟起、あの男が来てからその想いは一層強くなった。
あの方は、馬超に体をゆだね、何を想うのか、と。

(・・・嫉妬か、これは。俺は、妬いているのか・・・。)

周瑜は自分が、命をかけて護ってきた宝玉だ。
それをどこの馬の骨ともわからぬ男に持って行かれて、徐盛は確かに面白くなかった。
徐盛にとって周瑜という人物は常に光り輝いており、自分はその影を踏まぬよう、気を付けながら跪いてついてゆかねばならない偶像なのであった。
その崇拝する人物に俗な感情を持とうとしている己に嫌気が差すのである。

(あの方が、苦難を超えて国の為に働こうとしておられるのに、この俺はなんだ。このような感情に流されている場合ではないはずなのに)

徐盛は己の感情を押し殺そうと努めた。
しかしその一方で募る想いをどこに吐き出したらよいのか、途方にくれるのであった。

「おい文嚮」
背後から話しかけられて、振り向く。
呂蒙であった。
「どうした?うわの空だな」
「申し訳ありません」
「何かあったのか?」
「いえ」
「ならばいいが。そんな顔で周将軍の前に出るなよ。心配されるぞ」
「・・・」
もうとっくに心配されて下がらされたのであったが。
「もうあの男もいないんだし、安心して休め」
「はい」
自分の顔はそんなに心配されるほど憔悴しているのだろうか。
庭に出たとき、手洗いの瓶に溜まった水面に自身の顔を映してみた。
そこには目の下が落ちくぼんだいくぶんやつれた自分の顔が映っていた。
まるで幽鬼でも見たかのような憔悴ぶりであった。

(・・・これでは無理もない。
今日は早めに休むとしよう。)

徐盛は自分にあてがわれた部屋へと足を向けた。


喉の乾きを覚えて、目を醒ますと、夜であった。
徐盛は部屋にもどり、うつらうつらとしていたのだが、いつのまにか眠ってしまったようだ。
夕餉も摂らずに眠っていたもので、少々腹も減っていた。
厨房におりてなにかもらおうと、廊下を歩いていると、四角くくりぬかれた窓から外を眺める周瑜の姿を見止めた。

何を見ているのだろう。
声を掛けそびれてその場にしばらく立ちつくす。
周瑜の方が先に声を掛けた。
「なんだ、文嚮。こんな時間に・・・まだおきていたのか」
「・・・夕餉をとらず眠っておりました故、食べ物を貰いに行こうと思っておりました。何をご覧になっておられたのですか?」
「風をみていた」
「・・・風を・・・ですか」
「うん。風が少し湿気をはらんでくる。雨がくるやもしれぬ。出立を明後日にして良かったかもしれんな」
「船をしっかり繋ぐよう言っておきます」
「そうしてくれ」
「は」
徐盛は頭を垂れ、その場を辞そうとした。

「文嚮」
呼び止められて振り返る。

「おまえの思っていることをきれいさっぱり言ってごらん。すっきりする」
「・・・・某のことなど、お気にかける価値もございません」
周瑜は口の端を緩めた。

「・・・・ただ」
「ん」
「もう少し、ご自分のお体を大事になさっていただきたい、それだけです」
徐盛は目を伏せながらそう言った。
「ああ・・・そうだね。私ももう若くはない。あまり無理をしないよう気をつけるよ」
「あ、いえ・・・決してそのような意味ではございません」
「ふふ。わかっているよ」
周瑜は少し悪戯っぽく笑った。

「風が冷たくなって参りました。お部屋に戻られた方がよろしいのでは」
「私はまだいい。おまえこそ食事を貰って早く休みなさい」
そう言われては返す言葉もなかった。
再び礼をし、その場を去った。


そうだ、あの方は意味のないことなど決してしない。
そしてその結果を知りたい。
そのためにははやく呉都へ戻らねばならない。

(・・・明日は一番に津へいって、荷運びを手伝おう)
徐盛は、船をしっかり固定するよう部下に伝令をし、自室へと戻った。


翌朝は、周瑜の言ったとおり、雨が降った。
作業を終えて城塞に戻った頃には雷雨になっていた。
「ひどい嵐になりそうだな」
ずぶぬれで戻ってきた徐盛に手巾を渡しながら、呂蒙は言った。

「・・・ん?」
従者が盆に薬湯らしきものを載せて回廊を歩いていくのを、呂蒙は呼び止めた。
「どこへいく?」
「・・・あ、呂子明様。これは周将軍のところへ持っていくお薬湯でございます」
「なに・・・?どこかお悪いのか?」
「今朝お起こしに参りましたところ、体がだるいと申されまして、医師を呼びましたところ、お熱があるようでしたので熱冷ましを持ってくるようにと仰せつかりました」
「そうか・・・呼び止めて悪かった。はやく行け」
「はい。では失礼致します」
従者が去ったあと、徐盛と呂蒙は顔を見合わせた。
「・・・大丈夫だろうか・・」
「後ほどお見舞いに参られますか」徐盛が呂蒙に言う。
「ああ・・・そうだな。大事なければいいのだが」
「・・・・本当は、きちんと休養を取って頂いた方がよいのでしょう」
「俺もそう思うが・・・。俺達がしっかりせねばいかんのだがな」
「子明殿は充分お役目を果たされていると思いますが」
「・・・そうか?」
「ここのところ、夜書物を読まれておられるとか」
徐盛が言うと、呂蒙は頬を赤らめた。
「そっ・・・!それは・・・だ、誰から聞いた?」
「陸伯言殿ですが」
「あいつめ・・・」
呂蒙の取り乱しように、徐盛はフッ、と笑った。
「隠すことはないと思いますが」
「いや、その・・・なんだ、照れくさいじゃないか」
呂蒙の照れる様子がなんとも微笑ましい。

「まあどっちにしろこの嵐では調練もできんしな。将軍のところへ行こう」
呂蒙と徐盛は周瑜の部屋へと向かった。
「・・・あれは」

部屋の前に人影があった。
「奮威将軍。いかがなされました?」
呂蒙が孫瑜をみとめて声を掛けた。
「ああ・・・君たちか」
「?周将軍はご不在なのですか?」
「い、いや・・・」
孫瑜の態度が妙だ。
呂蒙は孫瑜の前を通り過ぎ、周瑜の部屋の前で声をかけた。
「呂蒙です。周将軍、入ってもよろしいでしょうか」
「・・・ああ」
徐盛は呂蒙には続かず、その場に立っている孫瑜の隣で立ち止まった。
「・・・?孫奮威将軍・・・どうかなされましたか」
徐盛は低い声で囁くように言った。
すると、朦朧としているようにみえた孫瑜が、突然徐盛の腕を掴んだ。
「・・・・徐文嚮。ちょっと、いいか・・・?」

孫瑜に連れられ、徐盛は孫瑜の室へと導かれた。
従者も下がらせ、人払いさせる。
「・・・・」
徐盛は不穏な空気を感じ取っていた。
「・・・徐文嚮。君は周公瑾殿とは長いつきあいだな」
「はい」
「・・・教えてくれ。あの方は・・・本当は・・・」
思い詰めたような孫瑜の、だがなかなかに言葉を継げず、もごもごと話している様はいつものこの人らしくない、と徐盛は思った。
「その・・・だ・・・。なんだ・・・」
「将軍?」
「ああ・・・」
孫瑜は頭を抱えた。
尋常ではない、この様子に徐盛は予感を感じていた。
「あの方は・・・本当は・・・女性なのではないか?」
徐盛の嫌な予感が当たった。
「・・・何故、そのようなことを」
「部下の君にいうと叱られそうだが・・・今し方まで、私は・・・あの方の横であの美しい寝顔をみていた」
「・・・・何を・・・なさっておいででいらっしゃった?」
徐盛は己の中で何か黒いものが頭をもたげるのを感じた。
「先ほど部屋にきたのだが、声をかけても返事がないので、心配して中に入ったのだよ。そうしたらあの方は奥の寝所で眠っておられた」
「・・・・・」
「身じろぎをしたとき、ふと胸元がはだけたように・・・みえた」
孫瑜はショックをうけたように遠慮がちに言った。
「あれは確かに・・・女性の・・・」
「見間違いでしょう」
孫瑜の声を遮るように徐盛はきっぱりと言った。
「徐文嚮・・・いや、しかし・・」
「万が一にもそのようなことがあるはずがありません」
孫瑜は徐盛の毅然とした態度に、急に自分が恥ずかしくなった。
「そ、そうだろうか・・・」
「確かに、あの方は女性とみまごう美しい容貌をお持ちです。奮威将軍は・・・失礼ながらご自分のいいように解釈なさり、そのような幻を見られたのではないかと存じます」
孫瑜は真っ赤になった。
自覚があったからであった。
確かに、周瑜の美しさに、これが女性であったなら、と思うことは幾度もあった。
「よくお考えください、将軍。万一女性だったとして、その身の上で我々孫呉の大軍を指揮するようなマネができるとお思いでしょうか」
「そ、そうだね・・・確かに、その通りだ」
孫瑜はヘタヘタとその場に座り込んでしまった。
「わ、私は・・・とんでもないものを見てしまったと思いこんで、どうしたものかとあの場で途方にくれていたのだよ」
ふぅ、とため息をつく。
徐盛は少しも笑わず、孫瑜を見ていた。
「はは・・・は・・・笑ってくれてもいいよ」
「いえ。そのお気持ちはわからぬでもございません」
「そ、そうか・・?」
「はい。女性であってもあれほどの美貌を某は知りません」
孫瑜はフッ、と笑う。
「君も大変だね・・いや、君と話せて良かった」
「奮威将軍。では、もし・・・あの方が本物の女性であったなら、どうなされておいででしたか」
「うーん・・・そうだね。もし周公瑾殿が女性であったなら・・・。放って置けないね。いや、まず殿が放っておかないのではないか?」
「・・・・・」
徐盛はその瞬間、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。

なぜ、気づかなかったのだろう。
孫権は、周瑜が女であることを知っている。
兄の親友とはいえ、あれほどの美女に手を出さないものだろうか?
・・あるいは出せなかったのか?
あの涼州の武者ですら、あれほどに夢中になったというのに。

「そうだ、やっぱりそんな筈、ないな。どう転んでも」
徐盛の心配をよそに、孫瑜はぼそぼそと独り言を呟いていた。



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