(3)孫瑜




「周将軍。少しよろしいでしょうか」
「文嚮か。入りなさい」
周瑜は薄暗くなりつつある部屋の灯籠に灯りをいれ、机にむかって仕事を片づけていたようだ。

「今朝はすまなかったね。手間をかけさせたようで」
「いえ」
「今度からは寝所の前の部屋に従者を待たせるようにするよ」

徐盛から、今朝の孫瑜の一件を聞いていたのである。

「・・・某が、お守り致します」
「おまえに従者の真似事はさせられない」
「将軍」
「ん?」
「討逆将軍がご生前の時は、あなたの周りに男を近づけるな、と言われておりました」
周瑜は驚いたように徐盛を見つめた。
「なんだ、急に・・・」
「あなたが望まぬとあらばあの涼州の武者であろうと斬り捨てるつもりでおりました」
「・・・文嚮・・」
「今朝のことは、まだ運がようございました。孫奮威殿は誠実なお方です。みられたのがあの方で幸いでした」
「そうだね」
「近頃少し、身辺に不注意がすぎるのではございませんか」
「・・・反省はしているよ」
周瑜は手を動かしながらそう言った。

「将軍。ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」
「うん?何だ」
「たしか、主公は、将軍の身の上をご存知なのでしたね」
「ああ」
「殿のお心の内は某ごときには計り知れないものですが・・・戦を止めて戻ってこいとはおっしゃられなかったのでしょうか」
周瑜はピクリ、と手を止めた。
「・・・・なぜそのようなことを訊く?」
「某が殿の立場であったなら、そうすると思うからです」
「・・・そうか」
「あのような傷を負われ、薬病を得てなお、戦場にいさせることなど、某にはできかねます」
「・・・おまえは、殿を非難するつもりか」
「いえ。某がその立場であったなら、という仮定の話でございます」
「ふん。仮定の話であったか。ならば言うがこの私を後宮に入れようなどとは考えぬことだ。私は周家の跡取りで先代とは義兄弟の仲であった。私の功績を考慮するならば、私の立場を考えた命令を授けるのが当然というものだろう?」
「・・・・」
「どうも最近のおまえは私を女扱いする傾向があるようだな」
「そのようなことは決して」
「・・そして私は、おまえに守られている、という安心感から身辺不注意になっているのかもしれない」
徐盛は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。某の不徳の致すところです」
周瑜はその徐盛をしばらく見ていたが、視線をはずし、机の上に戻した。
「・・・私と殿の間には、おまえが心配するようなことは何一つないのだよ」
頭を下げながら、徐盛は己の心の内を見抜かれた恥ずかしさでいっぱいになった。

そんなことはまるで気にしない周瑜は、机の上の書簡に目を通しながら言った。
「嵐が収まるまで出航はしない。荷運びは明日の午後までかかるのだったね。明日も雨ならば無理をしないように皆に言っておくように」
「はい」
「もうじき夕餉だな。おまえの分もここへ運ばせて、もう少し話しをしようではないか」
「はい。ではそのように手配して参ります」
「ああ頼む」
徐盛が部屋を出ていく。
それを振り向かず背中で見送り、周瑜は灯の明かりをぼんやりと見つめた。




「はぁ・・・・」
盛大なため息が聞こえる。
その方向を見やれば、馬上の人の姿があった。
「奮威将軍?どうかなさいましたか?」兵が声をかける。
「ああ・・・いや、何でもない」
そういいながらもまた、孫瑜は大きなため息をつく。
馬や荷物を船に乗せているのだが、孫瑜は馬上でその監督を務めていた。

それは今朝の朝議でのことであった。
孫瑜は昨日のこともあり、まともに周瑜の顔が見れなかった。
議題が荷渡しのことになり、孫瑜がその監督を引き受けた。
「奮威殿、頼みましたぞ」
そう言ってその涼しい笑みを孫瑜に向ける。
(ああ・・・だめだ、とても眩しくて目を会わすことができない)
孫瑜の様子の異変に気づいた呂蒙は、心配そうに声をかけた。
「奮威将軍、どうかなされましたか?どこかお加減でも?」
「あ・・、いや・・なんでもない、大丈夫だ」
周瑜の後ろで控えていた徐盛は、孫瑜を無言で見つめていた。
ちょうどその徐盛の視線とぶつかって、あわてて目を伏せる。

「しかし、やはり少し具合が悪そうにお見受けいたします。少し別室で休まれては?」
呂蒙の勧めもあって、孫瑜はその場から席を移した。
それを見送って、周瑜は徐盛に目配せする。
「・・・文嚮」
「は」
それだけの返事で、徐盛は広間から出ていく。

「奮威将軍、おられますか」
「ああ、徐文嚮か」
別室で孫瑜は椅子に腰掛けていた。
「左将軍よりご様子を伺ってくるように仰せつかりました」
「そうか・・・」
孫瑜は大きくため息を付く。
「どうかなさいましたか」
「昨日のことを私は引きずってしまっているようだ」
「昨日、と申しますと・・・。しかしあれは将軍の見間違いでしょう」
「うん、そうなんだがね。だが、あの光景が目に焼き付いてしまっていてね・・・どうにもこうにも公瑾殿のお顔をまともに見れなくて、ね」
「・・・・」
「仕事が手につかないというか、集中できないというか」
「・・・まるで叶わぬ恋をなされておられるようですな」徐盛は意味深にいった。
「あ・・・・」
孫瑜は徐盛を見つめて手を打った。
「そうだ、まさにその心持ちだよ。君はうまいことを言う」
徐盛は少々呆れ顔になった。
ぶつぶつ、と呟く孫瑜はすっかり自分の考えに取りこまれてしまっていた。
「だめだ・・・考えが纏まらなくなってきた。なあ、徐文嚮、君はあの方の傍にいてこのような気持ちになったことはないのか?」
「ありません」
徐盛はきっぱりと言った。
「ほう・・・君は、やっぱりすごいな・・」
「某はあの方の部下です。そのような感情は持ったことはございません」
それは己に言い聞かせた言葉であったかも知れなかった。
「私はダメだな・・・なにか雑念・邪念ばかりに囚われている。はぁ・・・・」
「奮威将軍、とにかくご病気でないことだけはお伝えしておきます」
「え、ええっ?周将軍にお伝えするのか?この私の様子を?・・いや、もしや昨日のことをもお伝えしているのかね?」
「無論です」
「なんと・・・」
孫瑜は実にきまりの悪い顔をした。
「君は・・・なんというかその・・・実に忠実な部下だね、は、は・・・」
ひきつった笑いのあと、がっくりと項垂れる。
「周将軍はさぞやこのような私を見てお怒りでしょうな・・・。ああ・・・もう、会わせる顔がない」
端で見ていると孫瑜の百面相にみえるのだが、徐盛は沈黙を守った。
「はぁ・・・・、一体どうしたら良いのだろうか」
「左将軍はお怒りになったりはしておりません。むしろどこかお悪いのかとご心配なされております」
「そ、そうか・・・」
「どうか、奮威将軍のお役目を果たされますように」
「あ、ああ・・・」

徐盛の激励もあり、こうして監督の役目についてはいるものの、どこか上の空である。
「先日聞かされたあの広大な作戦に是非にとお声を掛けてくだされたというのに、この私のていたらくは・・・はぁ・・・」
その様子を見ていた兵たちも少し心配そうであった。
そこへ、馬を寄せてやってきたのは陸遜であった。
「奮威将軍、左将軍がお呼びです」
「あ、ああ。わかったすぐにいく」

南郡城の周瑜の部屋に呼ばれて、孫瑜はそわそわしながら向かった。
(叶わぬ恋でもなされておられるようですな)
徐盛の言葉が蘇る。
実際、孫瑜はそのような経験はもちろんないので、本当のところどうなのかはわからないのであったが。
(しかし、これが恋すると言う感情であるというのならば・・・)

部屋に入ると、周瑜は鎧姿でそこにいた。

「お呼びだてしてすみません仲異殿」
「い、いえ」
「仲異殿のご様子が少し変だと伺いました。なにかございましたか?」
(・・・そうだ、知っているのだった、この方は)
「あの・・・昨日の件、もう徐文嚮から話されておられるのでしょう?」
「・・・ああ、私が眠っているときあなたが私の寝室に入られたという話しですか」
「ええ」
「別に気にしておりませんが」
「・・・あの」
(それだけなのだろうか)
「寝相の悪いところを見られてしまったようで、お恥ずかしい限りです」
そう言って周瑜は笑う。
「あなたがそれを気にされておいでなのかと。それが原因で仲異殿を悩ませているのならばその誤解を解こうと思いまして」
「・・・そのように私のことをお気にかけてくださっておいででしたか・・いや、かたじけない」
孫瑜は頭を下げた。
「そうまで私を気遣ってくださるのに、この私は・・・」
なんと男らしくないのだろう。
美しい顔をこちらへ向けて心配気にみている周瑜を見て、孫瑜は覚悟を決めた。
こうしてグダグダ悩んでいても、何一つ解決しないのだということに気が付いたのだ。

孫瑜はあたりを見回した。
それを見て、周瑜が言った。
「ああ、個人的なことをお話しするかと思いましたので人払いをさせてあります。ご安心を」
孫瑜はそれを聞いてホッとした。
「あの、周将軍。実は聞いて欲しいことがあります。こんな話をきいて私のことを嫌いになるやもしれませんが」
「ほう。何ごとでしょう?」
「・・・先日あなたの寝室に行った時のことです」
「ですからそれは・・・・」
「聞いてください、公瑾殿」
孫瑜は周瑜の言葉を遮り、毅然と言った。

「私はもう、自分の気持ちに嘘をつくことをやめます」
「仲異殿・・?」
「本当はもう何年も前から気づいていたのです、私は」
「・・・・何、を・・・」
「寝室で・・・失礼ながらあなたの体を見てしまい、確信に変わったこの事実に、私の心は揺れました。それであなたの腹心の部下である徐文嚮に問いただしてみました」
周瑜は驚きを隠せなかった。
周瑜が思っていた以上に、孫瑜という人は思慮深く頭のいい男であったのだ。
言葉が継げず、ただ孫瑜を見つめていた。
「あなたは良い部下をお持ちだ。事実を知りながら、それを守ろうとする。それで私も気づいたのです。あなたがこれまでどれだけの犠牲を払って今まで生きてこられたのかを」
黙って見つめる周瑜の両の肩に手を置いて、その双眸を正面からしっかりと見据える。
「だから私もそれを守りたいと思いました。あなたの成すべきことのために」

(これが恋という感情であるというならば・・・悪くはない)
言葉に出してしまうと、もはや彼に迷いはなかった。

「あなたが好きです、公瑾殿」



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