(4)男心
周瑜は孫瑜の言葉に否定も肯定もしなかった。
ただ、じっと目の前の男を見ていた。
「以前、会稽の我が父の邸においでになったとき、笛の音を聴かせてくださいましたね」
「・・・・ええ」
「あのあと、私もあなたも酔っていて妹共が敷いてくれた布団にそのまま横になったことを覚えていらっしゃいますか」
「・・・・いいえ」
「前後不覚になっておりましたからね、二人とも」
孫瑜は微笑して言った。
「先に私が目覚めてあなたが隣に眠っていることに気づいたのです」
「・・・・・」
「私はしばらく身動きもできないほどあなたの寝顔に見とれておりました。そのときからです。あなたが本当は女性なのではないかと思い始めたのは」
周瑜は徐盛の言葉を身につまされる思いで反芻していた。
たしかに不注意であった。
知った相手とはいえ、男と同じ部屋で眠ってしまっていたのだから。
「・・・何も、おっしゃらないのですね」
沈黙を守る周瑜に、孫瑜は語りかける。
「何を・・・言えばいいのかわかりません」
孫瑜はクス、と笑った。
周瑜らしい答えだ、と思った。
「お許しください。少々、自分勝手な振る舞いをしてしまいました」
そう言って周瑜の両肩に置いた手と一緒に、頭も下げる。
「あなたへの想いを自覚したのはつい先日のことです。それまではこの感情の正体がなんなのか分からず一人苦悩しておりました。それでつい、本来なら己の胸の内にしまっておくべき言葉を、口に出してしまいました」
申し訳ありません、と再び謝る。
「あなたの重荷になるつもりは毛頭ありません。これまでとなんら変わることなく接し、私を使ってくださればいいのです」
しばらくの沈黙の後、周瑜は、ふぅ、とため息をついて口を開いた。
「あなたに知られているとはさすがに知りませんでした・・・驚きましたよ」
その事実を肯定する発言を、周瑜ははじめてした。
「徐文嚮よりも、あなたの方が一枚上手だったということでしょうか。さすがです」
「とんでもない。彼は大したものです。私などよりよほど心根が強い」
(・・・時々それが、みていて痛々しい時もあるのだが・・ね)
周瑜は苦笑する。
「先日伺ったあなたの作戦、誠に壮大で見事でございました。この私に是非にとお話ししてくださったこと、必ずや後悔させないよう、尽力いたします」
孫瑜はにこやかにそう言った。
周瑜はその笑顔には応えず、聞きかえした。
「仲異殿は私の身の上を知って、思うところはございませんか?」
「なんら、ございません。あるとすれば己の気持ちの変化のみ、でしょうか」
「・・・お気持ちはありがたいのですが、私は仲異殿のお気持ちにはお応えすることはできませんよ」
少し突き放した言い方を、周瑜はした。
孫瑜は一瞬、言葉につまったが、
「・・・わかっております。私とて、妻も子もある身です。それでどうこうしようなどとは夢にも思ってはおりません。ただ、己の気持ちには嘘をつくことができないということを申し上げたかったのです」
と、苦しい胸の内を明かした。
孫瑜は結婚していたが、このような激しい恋愛感情を持つことははじめてであった。
結婚とは家同士の結びつきと跡取りを残すということに重きを置かれるため、恋愛感情が先行して結ばれるようなことは少なかったのである。
「・・・知らぬ方が良かった、とはお思いになりませんか」
「そう、考えることもあります」
「あなたも、私と関わったが為にわざわざ、厄介ごとを背負い込んでしまいましたね」
周瑜は苦笑して言った。
だが孫瑜はにこやかに応えた。
「いえ、公瑾殿。むしろあなたが女性で私は・・・良かったとさえ思っております」
「・・・これは異な事をおっしゃる」
「好きな人をお守りできるというだけで、張り合いがでるというものです。男というものは、単純なものなのですよ」
「そういうものでしょうか・・・」
「ええ。今だってこうして一緒にいるだけで気持ちが高ぶっております」
「・・・私には分かりかねます」
周瑜は複雑な気分であった。
自分の身の上を知って、これほどまでに己の気持ちをストレートにぶつけてきた者はいない。
あの方を除いては。
だが事情は異なる。
孫瑜はいたって楽観的であるが、正直なところ周瑜は戸惑っていた。
孫瑜のことは嫌いではない。むしろ好感を持っていると言って良い。
だが、それは女としての感情ではない。
孫瑜といるときは自分が女であることを忘れていられたのである。それが周瑜にとっては居心地が良かった。
「・・・仲異殿、ひとつだけ、約束してくれませんか」
「はい」
「真実を知った上でも、一切、私を女扱いしないで欲しいのです」
「承知しております」
孫瑜は真摯な眼差しを向けた。
「あなたが困るようなことは一切致しません。そしてまた」
一層その口調に力がこもる。
「あなたからの見返りを求めるようなことも致しません」
どこかで聞いたような科白だ、と周瑜は思ったが、いつ誰が言っていた言葉だったか思い出せなかった。
周瑜に呼ばれた孫瑜のかわりに荷渡しを監督していた陸遜は、戻ってきた孫瑜が先ほどとはあきらかに様子が変わっていることに気づいた。
「ご用事はお済みですか、将軍」
「ああ、すまなかったね。もう大丈夫だ」
なにかふっきれたような、それでいてなにやら上機嫌のようだ、と陸遜は思った。
「なにか周将軍とは良いお話しができたようですね」
「ん?・・・何故だね?」
「奮威将軍のお顔にそう書いてあります」
「ははは、そうか。・・・まあ、そういうことだね」
「それはようございました」
「時に、君は以前から周将軍の部下だったかね?」
「いえ。ここへ配属になりましてから初めてです。呂子明殿が推挙してくださいましたおかげをもちまして」
「そうか」
「ですが、あの烏林での戦いには私も陸軍として参加しておりました。将軍のお傍で働けるなど思いもよらぬ幸運です」
「そうだね、あれは素晴らしかった」
「自分もいつか、あのような大きな戦で勝って見たいものです」
そう言って陸遜は一礼し、持ち場にもどると言って去った。
孫瑜はあたりを注意深く観察した。
(あの方の味方は徐文嚮だけ、か・・・。はて)
周瑜にはみなまで聞かなかったが、他にこの秘密を知っている者はどのくらいいるのだろうか。
孫瑜は眉をひそめて考えた。
(討逆将軍は当然として、弟君であった殿は・・・ご存知なのだろうか)
殿がもし知っていたら、手を出さないはずはなかろう、と、昨日自分は徐盛に言ったばかりであったが。
(だが、公瑾殿は他の女とは違う)
亡き兄君の義兄弟として育ったあの方を、後宮にいれようなどとは思わぬに違いない、と孫瑜は確信する。
昼になって、従者が食事を部屋に運んでいったのだが、食べたくない、と言われ返されたというのを聞き、徐盛はすぐさま従者から食事の盆を受け取って周瑜の部屋を尋ねた。
「周将軍、どうかなされましたか」
「・・・・」
「将軍?」
徐盛は持っていた盆を部屋に入ってすぐ卓に置き、周瑜の傍に歩み寄った。
鎧を着たまま、椅子に腰掛けていた。
「・・・・どこかお悪いのですか?」
徐盛は周瑜の顔を覗き込んだ。
「食事はきちんと摂りませんと」
「食べたくないんだ」
「・・・・」徐盛は、またか、と思った。この人は、時々子供のようにダダをこねる時がある。
こういう様子の時は、なにかあったのだ、と容易に推測できる。
「午後から出立するのではなかったのですか」
「・・・準備は終わったのか?」
「はい」
「よかろう」
そう言って立ち上がろうとする。
徐盛はその周瑜を抑えようと前に立ちはだかった。
「その前に食事を。食べなければ体が持ちません」
「いらないと言っているだろう」
キッと睨んできつく言う。
普通の者ならば、縮み上がってしまいそうなこんな状況ですら彼は慣れっこであり、すかさず反論した。
「将軍がもし倒れでもしたなら全軍の志気に関わります。何があったか知りませんが一時のことで体調を崩されてはこちらも困るのです」
「・・・・・」
周瑜はふぅ、とため息を付いた。
「・・・それくらい、わかっている」
そして再び椅子に腰掛けた。
「・・・いっそこんな体、捨ててしまいたいくらいだ・・・」
周瑜は両腕で自分を抱きすくめるようにして言った。
徐盛にとってみれば、このように美しく生まれ、才知にあふれているというだけで充分だと思うのだが。
「男のおまえには、わからぬか」
徐盛は椅子に座る周瑜の前に片膝をついて、その白い貌を見上げた。
「将軍はそれほどの美貌と才能に恵まれて、なお、それ以上をお望みですか」
「・・・・」
「男に生まれたとて凡庸な一生を終える者も多いのです」
「文嚮・・・」
「あなたは、贅沢なお方です。あなたをお慕いする者は多く、あなたのために命すら投げ出す者がいるというのに一体何を嘆かれているのです」
周瑜は驚いた顔をした。
「・・・おまえに説教されるとは思わなかった」
「申し訳有りません」
謝りながらも徐盛は食事を勧めるので、周瑜は渋々うなづいて、食べる、と約束した。
「孫仲異殿のことだが・・・おまえのごまかしはきかなかったようだ」
「・・・なんと」
「前々から疑っていたそうだよ」
「・・・そのようなお話しを、されたのですか」
「つい今し方までね」
「・・・・」
周瑜の不興の原因はそれだったのか。
守るといいながらも、肝心な時に役に立たない己のふがいなさに少し腹が立った。
「それで・・・なんと・・」
「孫仲異殿に、好きだ、とはっきり言われてしまったよ」
「・・・!」
徐盛の顔色が変わった。
周瑜はそれをわかった上でなおも続ける。
「おまえとは違うね、文嚮」
そう言ってニヤリと笑う。
徐盛は片膝についた手を握りしめた。
動揺しているのが、自分でもわかる。
「そ・・・れで、どう・・・お答えになられたので・・」
振り絞るように、徐盛が言いかけた。
「お気持ちには応えられない、と申し上げた」
「・・・・」
「だが、仲異殿は自分の気持ちに嘘はつけないのだ、と申された」
「・・・・そうですか・・・」
「おまえと同様に私を守りたいのだとおっしゃっていた。口止めするまでもなかったよ」
「あの方は・・・信用に足る方だと、某も思います」
徐盛は自分の渦巻く感情を押し殺してそう言った。
周瑜はその様子を目を細めて見つめながら、
「そうそう。仲異殿がおっしゃっていた。おまえは心根が強い、とね」と言って微笑した。
「・・・そのようなことは、ございません」
孫瑜は徐盛の気持ちを見抜いていたのだろう。
それがなんとも言えず、はがゆい。
孫瑜が周瑜の味方になってくれれば、これまでよりもずっと行軍が楽になる。
それはわかっている。
だが、徐盛の男心はそれを許したくはなかった。
好きだ、などと、はっきり言えるのならば。
もし自分がそのような立場であったならば、もしかしたらー。
いくつもの『もし』を抱えた妄想を、これまで幾度も打ち破ってきてはいた。
だが、たどり着くのはいつも同じ答えであった。
周瑜を、誰にも奪われたくない。
そんな独占欲を、彼自身、強いと思える理性でもって、抑えるのが精一杯であった。
「・・・どうした?」
思いに囚われていた徐盛は声をかけられてハッと我に返った。
「いえ、なんでもありません」
周瑜小さくため息をひとつつく。
「・・・正直に言うと、煩わしい」
「は・・・?」
「私は、彼とはいい友人でありたかったのだがね」
周瑜はその秀麗な顔を曇らせた。
「それが少し、残念なだけだよ」
日が高くなってきた頃、
船の荷の積み込みが終わり、兵の点呼が始まっていた。
周瑜たち将兵も船に乗り込んだ。
「左将軍、我々と入れ替わりに甘興覇が来るようです。これで心置きなく戻れますね」
孫瑜がそう報告した。
「それは重上。では出発しましょう」
「はい」
周瑜の率いる船団が南郡を出発した。航路を柴桑へ進んでいく。
周瑜は甲板に出て、しばらく江を眺めていた。
「左将軍、何を見ておいでです?」
「風を見ておりました」
「・・風を?」
「ええ」
「天候を読んでおられたのですか?」
「いえ、この国を渡る風を、見ておりました」
視線を動かさないまま周瑜はそう言った。
その美しい横顔を、孫瑜は黙って見つめていた。
周瑜と孫瑜は上級将校の仕官室に入ると、孫瑜はサッと周瑜のために椅子を引いた。
「ああ、奮威殿、どうか気を遣わずに」
「いえ、私がしたくてやっていることですのでお気になさらず」
「・・・・」
(やれやれ・・・文嚮がもう一人増えたような気がする)
周瑜は苦笑した。
さもしい男心をわかってください、と孫瑜は笑って言う。
なぜか、その微笑に胸がつまるような気がした。
(伯符様・・・私はまだまだ、男というものがわかっていないようです)
(おまえは女だからな。だが、男を甘くみるなよ)
そう言ってどこかで孫策が笑っているような気がした。