「とにかく、今は都督にお体を休めていただかねばならん」
呂蒙は目の前に座っていた陸遜に強い口調で言った。
「劉軍の密偵に一服盛られたというのは本当なのですか」
呂蒙の部屋で、陸遜は表情を引き締めていた。
「・・・本当だ。おまえ、都督の手首を見たことがあるか?」
「いえ・・・」
「傷がまだ残っているはずだ。文嚮の話では、自らを呪縛せねばならぬ程相当苦しんだそうだ」
「・・・・!」
「あのときのお姿を俺は・・・・一生忘れられない」
呂蒙はそう言って唇を噛みしめた。
陸遜はその呂蒙の伏せた目をじっと見つめてから、ふいに目を格子窓の方へ転ずる。
その脳裏に周瑜の白い貌が浮かんだ。
・・・なぜ、陸儁の名を知っていたのであろう。
夕べは思いがけなく養父の名前を周瑜の口から聞いて動揺してしまった陸遜である。
あのときの言葉に嘘はない。
孫策、という男に会ったことはない。
勇猛果敢で部下に分け隔てなく、性格は清廉潔白で傲るところがなかったという。
呂蒙からもよく聞いているが、ではそのような立派な人物がなぜ自分の父を殺したのだろう。
答えは決まっている。袁術の命令だったからだ。
もうずっと、長いこと自問自答してきたことだ。
彼はそうやって自分を納得させてきたのである。
呂蒙の部屋を辞して、陸遜は回廊の外に目をやった。
雨がきそうだ。
そのとき、ふと昔のことを思い出した。
「・・・そういえば、周家の女性との縁談話があったとか聞いたような気がするな・・・もしかするとその縁かな」
年長の従兄弟、陸儁のことである。
面倒見の良い立派な男で、陸康の跡継ぎと目されていた。
父を早くに亡くし、養父に引き取られて何不自由なく暮らしていたあの頃。
あれは自分がまだ、陸議と名乗っていた少年の頃だった。
怪我も癒え、廬江に戻ってきた陸儁は、年少の弟達にいろいろ話して聞かせた。
「議、おまえは弟たちのなかでも年長だから言っておくが、いいか、ここも安全ではない。今は戦乱の世だ。わかるな?」
「はい」
陸議はこのときまだ12才になったばかりであった。
「ここから逃げろ、と父上がおっしゃったらためらわずに言うとおりにするのだよ」
「でも、そのときは従兄上もご一緒にいらしてくださるのでしょう?」
まだ幼さの残る白い貌に、陸儁はきっぱりと言った。
「私は父上をお守りせねばならない。万一の時はおまえが陸家の長子だ。しっかり頼むぞ」
「・・・・」
不安そうな顔を見せながらも陸議はうなづいた。
「ところでな、議よ、私は近く妻を娶ることになった」
一転して表情を変え、従兄は陸議に笑顔を見せた。
「おめでとうございます、従兄上。従兄上の花嫁になるお方であれば、さぞや名のある家柄のご令嬢なのでしょうね」
「ああ、とても美しい方だよ。周家のご令嬢でね。母上の喪があけたら輿入れしてもらうことになったんだ」
「周家のお方ですか」
「おまえも一目お会いしたら驚くだろうよ。それほどに美しい方だ」
「はい、お会いするのがとても楽しみです」
陸儁はすぐさま、養父の元へと行ってしまったのでその後の話は聞けなかったのだが、どうやら今の話から察するに、
養父は寿春の袁術との仲が相当こじれてきたようである。
先日も袁術から糧食をよこせと言ってきたらしいが、養父はそれを無視したのを知っている。
「大丈夫だろうか・・・従兄上に花嫁がくるというのに。やはり従兄上も一緒に呉に戻っていただいたほうが良いのでは・・・」
陸家は揚州の土豪であり、その多くは呉に住んでいる。
「いざとなれば、私が長子・・・・しかし」
陸議はまだまだ幼い心に重圧を感じていた。
−輿入れ先が決まりました−
そういう内容の書簡が周瑜から届いたのは、もう何度目かの昇進の約束を袁術に反故にされたあげく、またしても討伐命令を出された直後であった。
くさって、孫河にあたりちらしていた孫策にこれはとどめの一撃だった。
このころ、孫策は呉景の元から呉へと移り、父の代からの主な武将たちをとりまとめ、行く先々の戦で戦果をあげていた。
これ以前に県の大師、祖郎という者が起こした一揆を沈めるために手勢の数百を率いて行ったが全滅し、改めて袁術から孫堅の部下一千を返してもらった。
あとは一揆の頭目であった祖郎を降伏させ、自軍に取りこんでいるほどの手並みであった。
いうまでもなく、兵を返してもらうために孫策はわざと負けて見せたのである。
舒からの書簡だというので喜んで自分の部屋に戻り、八つ当たりされていた孫河などはほっとしていたのだが。
「・・・なんだと・・!」
自室でこっそり目を通した孫策であったが、この内容を見て驚き、そして激怒した。
”母の喪に服しておりましたが、この程叔父の薦めもあり、陸家へ輿入れすることになりました。
あなた様の見知っている周瑜という者はこれにより消失いたしますれば、私のことはどうかお忘れくださいますよう・・・”
それは別れを告げる書簡であった。
以前会ってから更に一年が経つ。
あのときの男のもとへ嫁ぐというのか。
(あの、優男のどこがいい?)
(いや、公瑾の意志であるはずがない)
(あいつはこの俺が・・・!)
考えれば考えるほど、いらいらする。
机を蹴飛ばして、酒壷をひっくり返し、杯をいくつも割った。
どうしてこう、なにもかも思い通りにいかないのだろう。
自分でも、最近どうも怒りっぽくなった、とは思う。
それが、自分への苛立ちであることはわかっていたのだが。
孫策は周瑜からの書簡を懐に入れ、気がつくと馬を走らせていた。
丁度このころ、叔父の呉景のいる丹陽郡では、揚州刺史の任にあった劉ヨウという人物が袁術に追われ、曲阿に入り丹陽を奪おうと目論んでいた。
劉ヨウは一軍を率いて曲阿から一気に江南に攻め入ると、不意をつかれた呉景と、守備についていた孫賁は丹陽の城を追われ、歴陽まで退いていた。
その戦況も気になるところではあったのだ。
舒に行く途中に歴陽に寄るつもりであった。
それにしてもまた、戻ったら孫河に叱られるな、と思った。
馬を走らせて数日、孫策の頭の中はいろいろと考えが渦巻いていた。
自分はまだ一国も持たない身であり、人の風下にいる程度の男でしかない。
だからといってみすみす周瑜を他の男に渡してしまうつもりは毛頭ない。
どうする?
どうすればいい?
結局おなじところに考えが戻ってしまう。
輿入れ先だという陸家の男は、廬江太守の陸康の息子だという。
(輿入れさせてから攻め込んであいつごとかっさらうっていう手もあるが・・・)
(あいつは嫌がるだろうな・・・いや、ヘタをすれば陸家の嫁だからとかいって俺に刃を向けるかもしれん・・・そんなことになったら俺は一体どうすればいいんだ)
周瑜の性格は孫策自身、よく知っている。
結局、輿入れさせないことが一番なのだ。
そのためには・・・・
「よし!」
一度腹を決めると、孫策は勢いよく青鹿毛の腹を蹴った。