(11)抱擁



 

「呉郡より孫懐義校尉がおいでになっておりますが、いかが致しましょうか?」
「孫校尉?」
主簿の報告に思わず眉をひそめる陸儁であった。
「孫伯符懐義校尉殿でございます。陸太守にお会いしたいとおっしゃって、お待ちです」

「孫・・・孫堅の息子か。儂に何の用事があって来たのであろうか?」
主座にいる陸康は首をかしげた。
廬江城の太守の間である。

孫伯符、と聞いて陸儁は不快な顔で思い出した。
「ああ、成り上がりの孫家の・・・孫文台の息子か」
袁術の城で彼の婚約者に手を出そうとしていた若い男の顔が脳裏に浮かぶ。
おそらくあの広間で邑を見初めて手を出そうとしたのだろう。
陸儁は舌打ちした。
「父上がお会いになるようなものではありますまい。おまえが応対しておけ」
陸儁は報告にきた主簿にそう命じた。
「は」
主簿はそう言って頭を垂れた。

「しかし・・・孫伯符といえば袁術の武将であろう?無下に追い返してしまって後になって恨みを買わぬか?」
陸康は陸儁の顔を見ながら、心細そうに言った。
「父上は帝から任命されたれっきとした太守です。袁術のごとき小者に何をおそれることがございましょう」
陸儁はきっぱり言い切った。
「・・・そうか、そうだな」
「徐州へ使いを出しましょう。いざとなれば兵を借りることも出来ましょう」
「おお、それは良い!まったくおまえは頼りになるな」
「恐れ入ります」
 
 

廬江を出たとき、孫策は不機嫌の塊であった。
太守を訪ねたというのに、その補佐である主簿に対応させるとは。
主簿、というのは地方官吏の下につく役職のことで、普段は文書の管理などをしている文官である。
太守を訪ねてわざわざ出向いたというのに、下っ端の文官などに応対させるとは、失礼この上ない話である。
孫策は帝より除されたれっきとした武官なのである。
その尊大な態度に腹が立った。

「俺を舐めやがって!くそ、・・・今にみてろ!」
孫策の中で、陸康への恨みがむくむくと起きあがってきた。
そしてますますそんな一族の元へ周瑜はやれない、と思うのだった。
 
 
 
 

舒の実家に戻っていた周瑜はいつもの男の服装に戻って母の墓前に線香を焚いていた。

「ここを出たらもう帰ることはないかもしれないな・・」
周瑜はそう独り言を呟いた。
輿入れが決まって、準備をこれから整えようという矢先であった。

表門のところで、声がする。

誰か、来たのか?

そう思って、表門の方に足を向けた。

門の所で門番が誰かと話をしている。
近づいていって、それが誰か、確かめようと思った。

そこに立っていた人物を見たとき、周瑜は幻覚かと思った。
居るはずがない、そう思ったからだ。

「公瑾!」

青鹿毛の馬を引き、門の前に立っていたその人は、まぎれもなく孫策その人であった。

周瑜はその場で立ちつくしてしまった。
孫策は門番に馬の手綱を渡し、大股で周瑜の傍に歩み寄った。

「・・・どうした?驚いたのか?」
顔を覗き込むようにして訊く。
周瑜は自分の目を覗き込む孫策の瞳を見つめながら
「・・・・そりゃ、驚きますよ・・!」
と、自分の胸を押さえながら言った。

それから、門番の引いている馬に目をやりながら、屋敷のなかに孫策を案内して入った。
「・・・まさかお一人でいらっしゃったのではないでしょうね?」
と静かに言った。
「うん、俺一人で来た。一刻も早くここへ着きたかったしな」
周瑜は自分の部屋の前で立ち止まり、孫策を睨み付けた。
「・・・!また、なんだってそんな馬鹿なことを!一人で、刺客に襲われでもしたら、どうなさるおつもりなのです!」
周瑜は顔色を変えて叫んだ。
「刺客にやられるような俺じゃない」
孫策は平然と言う。
「・・・あなたは自覚が足りない!どうしてお一人でこんな無謀をなさるのですか!伯海殿はご存じなのですか?」
「・・・・まあ、報せは残して置いたから、知っているとは思うけどな」
周瑜は首を横に振った。
「あなたはちっとも変わっていない!孫家の頭領はあなたなのですよ・・・!」
孫策は自分を非難する周瑜に対して、謝るより先にこのとき少しだけ「懐かしい」と思っていた。
(こんなふうに昔はよく俺を叱っていたっけ・・)
孫策はまだ小言をいっている周瑜を懐かしそうに目を細めて見つめた。
「伯符さま、聞いてるんですか!?」
(また、一段と綺麗になった・・・)
孫策は手を伸ばし、周瑜を自分の懐に寄せて両手で深く抱きしめた。
いきなり抱きしめられて何か言いかけていた周瑜だったが、そのまま黙って孫策の胸に頬を寄せた。

抱きしめたまま、孫策は周瑜の髪に顔を寄せて呟いた。
 

「俺は、おまえを貰い受けに来たんだ」
「…伯符さま…?それは一体…?」
「俺の妻に、おまえを迎える」
「……」
「他の男になんか、絶対やらない・・・だれにも、おまえを渡さない」
孫策は周瑜の細い体を抱きしめながら言った。 
 
孫策は歴楊から舒へ来るまでずっと、何といおうか考えてきた。 
たくさんいいたい事はあったが、周瑜の顔をみてすべてが吹っ飛んでしまった。 
 
周瑜は孫策の腕の中で身じろぎもせず、その言葉を聞いていた。
(伯符・・・・)
心の中でずっと呼んでいた名前。
その相手が今自分を抱きしめている。
 
そっと背中に腕を廻した。
孫策が自分をこの監獄から救い出しに来てくれたのだと思うと嬉しかった。
この数年、周瑜は女として過ごしてきたが、それまで男として生きてきた周瑜にとって、それはこの上なく不自由なものであった。

そしてそれは相手が孫策であっても変わることはないと思っていた。
ただひとつ、ちがうとすれば-
それは周瑜が孫策を好きだということだ。
だが相手がどうあれ、周瑜はもう女として生きる事に対して辟易していた。
そしてその思いはこの言葉で紡がれた。 
 

「伯符さま。どうかそれだけはご勘弁を」
 

孫策は驚いて腕の中の周瑜を見た。
好かれている、という自信はあったが周瑜の一族のことを考えると拒まれる事も有るかもしれないと思ってはいた。
だが、その理由が別の理由だったら?
孫策はそれを確認しなければならなかった。

「・・・だれか他に、思う男でもいるのか・・・・?」
おそるおそる、そう訊いた。

「いいえ、そうではありません。私は、伯符さまのお役に立ちたいのです。それには妻という立場は相応しくありませんから」
「はあ?」

何を言っているんだ、とでも言うようなあきれた声を出した。
孫策は周瑜を抱きしめていた手を緩めた。
周瑜は孫策から体を離し、正面から彼の目を見つめた。
「どういうことだ?」
「私はこれまでどおり、親友の周瑜として伯符様にお仕えしとうございます。ですから男として扱っていただきたいのです」
「だって・・・おまえ」
「ありがたい仰せだとは思いますが、こればっかりは私の好きにさせていただきたいのです」
「そんなことが、出きると思うか?俺は、おまえを妻にしたいと言ってるんだぞ」
 
孫策は、ここへ来るまでの道中、まだ未熟な自分、妻をもてるような身分ではない自分の元へどうしたら妻として来てくれるのか、そればかり考えていた。

「おれが・・・・どれだけ考えてここへ来たと思ってるんだ。なのにおまえは!」
「すみません。伯符さまのお申し出はとても嬉しいのです。・・・夢のようなことだと。ですが私は伯符さまの妻より参軍として迎えられたいのです」
孫策はあっけに取られて、しばらく口が聞けなかった。

「ほんとに・・・おまえはそれでいいのか」
 周瑜の首がこくん、とうなづく。
「なぜ、女として生きない?」
周瑜は目を伏せた。
「・・・・私の望みは・・・いつかも申しあげましたとおり伯符様が覇王となられること。妻となって家庭を守ることではありません」
そうきっぱりと言う。
孫策は周瑜の堅く結んだ唇を見た。
「・・・何か、あったのか。俺の知らない間に」
口をついて出た周瑜への疑問。
周瑜はそれへ、口を歪めて笑って言った。
「・・・・女は不自由だということを知っただけですよ」
孫策はため息をひとつついた。
「おまえの望みはわかった。だがおまえを妻にしたいという俺の望みはどうしてくれる?」
「伯符さまの望みは江東の、中原の覇権を取る事でしょう?私を妻にすることなど取るに足らぬことです」
「おまえ、本気で言ってるのか」
「もちろん」
孫策は漆黒の双眸を見つめ、その奥にある意思を読み取ろうとした。
だがそれは闇になって孫策を余計に惑わせるだけであった。
「俺にはおまえが何を考えているのかさっぱりわからん」
周瑜は少しだけ寂しそうな表情を見せた。
「だが・・・おまえが傍にいてくれるのなら、それでもいい」
周瑜は孫策を意外そうな顔で見上げた。
孫策もそれを見つめ返した。
「伯符さま・・・すみません」
「謝るな、おまえは。自分で言い出した事だろう?」
「・・・はい」 
周瑜は目をこすった。少し、潤っていたかもしれない。

「つきましては、伯符さまが兵力を回復するのに策を献じたいと思っておりますが、聞いていただけますか?」
「・・・おまえって可愛くないな。まあ、いい。聞かせろ、その策とやらを」
「はい・・・。その前に歴陽にいる呉丹陽太守殿と伯陽殿の戦況をお聞かせいただけませんか?」
「ん?」
「ここへいらっしゃる前に調査なさってきたのでしょう?」
周瑜がそう言うと孫策は呆れ顔になった。
「・・・・まったくおまえは…何もかもお見通しだな。そのとおりだ。・・・あんまり良くは無いな。もう半年以上も膠着している。兵力はあるが、決定力に欠けるようだな。1年も続くようなら景兄は丹陽太守を不在のまま追われるかもしれん」
「伯符さまが応援に行けば勝てますよね?」
「そりゃそうだ。だが今の俺の兵力じゃどうかな・・・」
孫策は顎に手をあてて考え込んだ。
「伯符さまは袁術が泣いて喜ぶ秘宝をお持ちでは有りませんか」
「ああん?」
「あれ、ですよ。今もお持ちでしょう?」
周瑜のいうものが何かをすぐに察した。
「しかし、あれは父上が帝にお返しすると・・・・」
「伯符さま、ああいった類のものは誰の手に寄らずともおのずと本来の持つべきものの手に帰するものです。伯符さまが袁術にあれを渡したとして何の不都合がありましょう。袁術がそれをどうするのかはだいたい想像がつきますが、ね」
「おまえは時々恐いことを平気で言うな」
「今は非常時ですよ、それにご自分のお力で道を切り開いていかれる伯符さまには必要の無いものだと思います。あれをカタにお父上の部曲の残りをすべて返してもらいましょう。それを機に独立してしまえばよろしいのです」
周瑜のいうことは孫策にとってまさに今望むべきことであった。
不思議とこの形の良い口から発せられると、すべてうまくいくような気がするのだ。

「わかった。おまえのいうことはいちいちもっともだ。・・・で、おまえは俺と一緒に来てくれるのか?」
孫策は自分を見上げる揺れる瞳を見つめた。
「いえ・・・今はまだいけません。いろいろと、かたづけなければならないことがあって」
「なんだ・・・そうなのか」
孫策は失望の色を隠せなかった。
「すみません・・・でも必ず、お傍に駆けつけますから」
その言葉に、孫策は頷いた。
「あの婚約者ってのはどうするんだ?」
「・・・婚約する相手が消えてしまっては破談になるしかないでしょう?」
周瑜は笑って言った。
「・・・ひどいやつだ」
「私もそう思います」
「その相手ってのは例の陸家の息子だったな。・・・おまえ、そいつに少しでも借りがあるのならどこかに引き止めておけ」
「・・・?どういうことです?」
「近いうちに廬江を攻めることになるだろう」
孫策の冷たい笑みが周瑜の心に不吉な影を落とした。




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