(12)二張



袁術から廬江太守討伐の命令が孫策に下ったのはそれからまもなくだった。


陸儁はそのころ、周瑜に呼ばれて舒に来ていた。
周瑜は孫策から連絡を受けていたが陸儁にはそのことを悟られないように気を遣っていた。
陸儁は上機嫌だった。
ここに呼ばれたのは正式に輿入れする日どりを陸儁に報告するためだと、周瑜の叔父から聞いていたからだ。

この数日滞在しているうちに、時々周瑜が浮かない顔をしていることに気がついた。
それを不信に思っていると、突然、早馬が知らせを持ってきた。

「・・・なんだと!廬江が・・・・?」
陸儁の顔色が一転する。
そしてすぐにも立ち上がり、出て行こうとする。
「お待ちください!」
その声に陸儁は振り向く。
「邑殿・・・あなたはまさかこのことを知って・・・?」
「・・・・廬江を攻めているのは袁将軍から派遣された孫軍です。行けばあなたも殺されます」
「・・そんな。急いで戻らねば・・・!」
陸儁は周瑜に背中を向けた。
「陸儁殿!」
周瑜の声に陸儁は背中を向けたまま動きを止めた。
「私のことを思うのであれば、どうか行かないでください」
陸儁は振り向かなかった。
「・・・もしどうしても行くというのならば・・・私とのことはお忘れください」
一瞬、空を仰いで、
「・・・・申し訳ありません。邑殿・・それでも私は行かなければならないのです」
そう、力強く言った。
「お許しください」
そのまま走り去って行ってしまった。
「・・・・・」
周瑜は黙ってその背を見送った。
従者が数人後を追っていき、馬の嘶きとともに足音が遠ざかっていくのが聞えた。
周瑜はため息をひとつついた。

「・・・・どうするつもりだ?」
背後から声をかけたのは周忠であった。
周瑜はそれには応えず、踵を返して部屋の中に入っていった。

しばらくたって、周瑜が部屋から出てきた。
「・・・その出で立ちはどういう意味だ?」
周忠は周瑜が男装で出てきたのを見咎めて言った。
「叔父上。もう良いでしょう・・・私は充分務めを果たしたと思いますが」
「何を言う。陸家とは縁が無かっただけのことだ。おまえなら他にいくらでも・・・」
「そうすると困るのは叔父上ではありませんか?袁術からの誘い、いかが致すおつもりです」
「・・・・知っておったのか」
「尚叔父から伺いました。今の丹陽太守を更迭してその後釜に据えるとか」
「そうだ。お前をその補佐として連れてこいということが条件だ・・がおまえはどう思う?」
「行きますよ、もちろん」
周瑜は端正な顎を少し上にあげて言った。
「叔父を餌に私を支配下におけるものかどうか、袁術を試してみるのも悪くは無い・・・」

そして庭の方へ目をやり、呟いた。
「・・・さようなら、陸儁殿。たぶん、間に合わないでしょうねえ・・今から行っても・・・」









疾風怒濤、という言葉でこれほどに的確にあらわせる戦も珍しい。

孫策の軍は強行軍で廬江へ到達すると、休むまもなく廬江城を攻めた。
虚をつかれた、というだけではなく、明らかに戦力に差があった。
太守、という職にはもともと軍権はない。
あるのはあくまでも私兵、部曲くらいなものである。
数の上でこそ拮抗していたがなにより孫策の軍には若さと勢いがあった。

「俺を軽んじたことを、死んでから悔やむがいい!」
孫策は手にした片刃槍で廬江太守・陸康の首級をあげた。
斬られる前、陸康が何かを言っていたようだったが、孫策には聞えていなかった。
「ふん、やっぱりあいつはいないか」
孫策は城の中、周瑜の婚約者と名乗った男を捜した。
もしいれば、周瑜にあとで何と言われようと有無をいわせず斬り捨てていたであろう。

城を落とし、城下に兵をやり、略奪の類をいっさい禁じた。

斬った太守の首を箱に入れ、それを持って袁術の元へ報告に向かう。
袁術は今度廬江を落とせば太守に任ずる、と約束した。
いくらなんでもこれで俺を無視することはできまい、と孫策は寿春へ向かう時もそう思っていた。

ところが、首を献上し、廬江を短期間で落としたにも関わらず、孫策に論功行賞の恩恵は無かった。
廬江太守には袁術子飼いの劉勲が任じられた。
またしても孫策は荒れた。
いや、荒れたと言うより失望していた。
その気持ちが痛いほどわかるだけに、孫河も呂範も何も言わなかった。

そんなある日のこと。
「公瑾からの書簡か。実に良い時によこすものだ。まったくあいつらしい」
荒れる孫策の元へ早馬が届けた書簡を孫河が持っていこうとしていた。
「・・・また周公瑾殿ですか」
呂範は孫河の持つ書簡に目をやりながらぼそり、と呟いた。
「ああ、そうだったな。おまえはまだ面識がなかったか・・・もうじき逢えるんじゃないか?」
「周公瑾殿はなぜ殿の元へ来られないのでしょう・・このように書簡ばかりよこして」
「さあな。いろいろ事情があるんだろ。あいつの家は名門だからな。なんだ、子衡、なにか不服か」
「家がどうとか・・・私ならそんなものをなげうってでも自分の仕えるべき主君のもとへ駆けつけますよ」
呂範は不信げな口調で言った。
「私に言わせれば、信用ならない人物、としか言いようがありません」
「はっはあ・・・そりゃ公瑾を知らないからだ」
孫河はそう言ってくすくす笑った。
「おまえもあいつに会ったらきっと驚くぞ」

孫策は周瑜からの書簡を見るとすぐに出かける、と言い出した。
孫河がどこへ、と訊くと、
「江東の二張、というのを知っているか」
と返してきた。
孫河もその名を聞いたことはあった。
「何をどうしてそうなったかまでは知らんが、公瑾のヤツ、話をつけてあるから俺に直接二張を訪ねて幕下に加えるように、と言ってきた」
「張紘、張昭の二張といえば清流派の重鎮です。どちらも三公の役所からの招きにも応じなかった堅物だと聞いていますが」
「・・・・確かに俺の元には文官が足りない。挙兵して独立するにもそういった人材が必要になる。二張が俺の元に来てくれるならこれ以上のことは無い」
そこへ、呂範が声をかけてやってきた。
「殿、お出かけになるのなら某もお連れ下さい。ちょうど、朱君理殿が許貢を退けて戻られましたゆえ、留守を預けられるかと」
「そうか。ならばすぐにでも発つぞ」
先ほどまでの機嫌の悪さがいづこかへと消えていた。
孫河は、そういう気持ちの切り替えの速さにおいても自分の主君を評価していた。



周瑜からの情報によると張昭は戦乱を避け、呉郡の婁という地に屋敷を借りていた。
孫策がその屋敷を訪れた時、運のいいことに張紘もそこにいた。

「おや、おぬしはたしか、いつぞやの・・・」
張昭は呂範の顔を見て懐かしそうに言った。
孫策は呂範を振り向いて「知り合いか」と訊いた。
当然だが、呂範には記憶はない。
それをそのまま口にすると、張昭は笑って言った。
「そうか、それもそうだ。おぬしはなにしろあのときひどく傷ついておったし、気を失っていたのだった。それにしてもあれだけの拷問を受けながらも主を語ったおぬしなかなかに見所のある武人だと感心しておったよ」
呂範はその張昭の言葉に思い当たる節があった。
陶謙に捕らえられたときの・・・あのとき隣の牢にいた男か。
そう思ってやっとうなづいた。
呂範があのときの謝辞を述べると、張昭も張紘もそれにうなづき、改めて孫策の方を向き直った。
「そうか、おぬしの主君とは孫伯符殿のことでありましたな。いや、あのときは韓義公殿に助けていただいて感謝の言葉もありません」
孫策は宿将である韓当が呂範を助けたことは聞いていた。そのとき一緒に張昭をも助けたとは初耳であった。
「・・・時に周公瑾殿はあなたの幕僚においでなのでしょうか?」
周瑜の名前が出て、呂範は意外な顔をした。
しかし孫策は違った。
「いえ、彼はいまだご母堂の喪があけぬため出仕してきてはおりませぬ。実は私が今日ここにこうして伺ったのも公瑾の勧めであるのです」
「そうですか。それはまったくもって残念」
「・・・ですが此処へきてお二方にお会いしは私の意思によるものです。ご存知のとおり私は父を無くし、その遺志をついで兵をまとめ、東呉に拠をおき、ひいては朝廷をお守りする覚悟です。しかしまだ私はこのような青二才であり物事を見る目を養いつつ精進せねばならぬ身ゆえに私にはその道を示してくださる方が必要なのです」
張紘は孫策のひきまった面を目を細めて見た。

孫策に返答したのは張昭の方だった。
「今、世は乱れに乱れております。これを治むるは並大抵のものではかないますまい。あの董卓は相国を僭称し勝手気ままに天下を揺るがせその討伐軍が起こったものの、彼らですら覇権を争い朝廷をないがしろにする始末です。あなたはこれをどう思われますか」
孫策は膝に手をおいたまままっすぐに張昭の目を見つめ、
「天下が乱れるのは漢室に力がなくなったからです。民は強い指導者を求めている。一豪族のなかにはそういったものもおりますが、彼らは自分たちの領域さえよければよいと思っている。私利私欲のために戦を仕掛けているのです。これでは世は治まらぬのも道理です。私はそういった穢れた者たちを一掃し、天下に秩序と安定を取り戻したいのです」
そう歯切れよく言った。
「その心意気、しかと受け取りました。あなたが挙兵した暁には何よりも先にあなたの元へはせ参じましょう。どうか、一日もはやく長江を渡って江南をお治めくださいますよう」
張紘がそう言った。
張昭もそれにうなづき、膝をひとつ叩いた。
「試すような事ばかり申し上げてすみませんでした。では最後にもうひとつ。孫伯符殿。そのためのあなたの最大の武器とはなんですかな?」
張昭は挑むような口調で孫策に問うた。
孫策はにやっ、と笑って言った。
「若さ、です」





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