孫策は袁術から折衝校尉に任じられ、部曲約二千を返して貰って、呉景たちのいる歴陽に進軍した。
この報せを受け取って、周瑜は喜んだ。
丹揚太守の叔父、周尚は周瑜に言った。
「おまえが私のために気を遣うことはない。私は私でなんとかするから、おまえは自分の信じた道を行きなさい」
周瑜は叔父の手を握り、礼を言った。
周尚は周瑜の実父の兄である。
父を早くに亡くした周瑜たち家族をここまで護ってくれたのはこの叔父であった。
本家筋にあたる叔父の周忠はあくまでも周家をとりまとめる者であり、世話を焼いてくれはしたが、実際は周尚が面倒を見てくれたようなものだ。
その恩人である叔父を残して行くことは周瑜にとってつらい選択でもあった。
このまえ孫策と別れてからもう何年もたったような気がする。
今度会ったら、もう絶対傍を離れない。
そう決めていた。
孫策に書簡を書き、出発の準備をしながらもはやる心を抑えられなかった。
孫策の元にはすでに主な武将がそろい、駐屯地での評判も良いと聞く。
さもあろう、あの孫策であれば当然だ、と思う。
「この分なら歴陽につく頃には兵力は二倍になっているだろうな。そうなると手持ちの食糧だけでは間に合わなくなるか」
周瑜は地図を開き、それを見てある一点を指さしてこつこつと指先で叩いた。
「ふうん・・・。なるほど、実に簡単にいきそうだ。問題は曲阿の方だな。どうするか・・・」
そのころ孫策は歴陽付近まで軍を進めていた。
途中、小休止をし野営の準備を決め込んだところで、早馬が到着したと報せがあった。
「公瑾からか!」
孫策は書簡を使者から奪うようにして取り上げ、読み始めた。
その途端、顔の表情が緩み、笑みがこぼれた。
今度は一体何だろう?と呂範は内心思っていた。
今回従軍してきた若い呂蒙らもそれは同様の気持ちであった。
それくらい、孫策は上機嫌だった。
周瑜公瑾の名は聞いて知っている。
だがいつも書簡を送ってくるだけでどんな人物なのか、皆は知らなかった。
突然、孫策が長江沿いの秣陵の対岸の津に向かう、と言いだした。
孫河が理由を問いただすと、
「公瑾を迎えに行くんだ!」と笑って言った。
「公瑾が?来るんですか?」
「ああ、長江を下って歴陽に来ると書いてきた。歴陽に一番近い津はあそこしかない。迎えに行って、驚かせてやる」
孫河は頭を抱えた。
「本気ですか!」
「本気だとも!何か不都合があるか?」
「もう敵の陣地に近いところまで来ているんですよ!?危険じゃありませんか!たかが一介の臣下を迎えるのに、頭領であるあなた自身が行かれる必要などあるんですか!?」
そう言ったのは呂範だった。
孫策は呂範をじろ、と睨んだ。
一介の臣下、というところがどうやらひっかかったらしい。
「公瑾と俺は断金の誓いを交わした義兄弟だ。ただの臣下ではない、俺の身内も同然だ。それ相応の態度でもって接するのは当然だ」
少々きつい口調でそう言った。
傍にいた朱治はそれを黙って聞いていた。
が、やがて重々しく口を開いた。
「そうまでおっしゃるならもう止めはしますまい。精鋭ばかり10騎ほど引き連れておいで下さい。逆にあまり大人数だと怪しまれますぞ」
「朱君理、おぬしは物わかりが良いな!」
「なるべく早くに合流なさることです。あの公瑾殿が手ぶらで殿のもとへ参じるとは思えませんから、その護衛という名目でも構いませんな。船で来るなら歴陽城の水門を開けるように取りはからいましょう」
「おお!」
朱治の言葉は説得力があった。
「ならば私もお連れ下さい」
呂範がそう名乗り出ると、呂蒙、陳武もそれにならった。
孫策は合流地点を決めて、翌朝さっそく出発する事にした。
付き従う者は、孫河、呂範、呂蒙、陳武ら腕に覚えのある者ばかりであった。
呂範は正直言って、周瑜という人物が気になって仕方がなかった。
一体どのような男なのか、こうまで孫策が入れ込むほどの傑物を早く見てみたかった。
それは呂蒙や陳武にしても同じ思いであった。
「遅れる者はおいていくぞ!」
孫策の乗馬の腕は達者で、それに追いつくだけで皆精一杯であった。
その甲斐あってその日の夕方になる前に目的地に着こうとしていた。
「むっ」
最初に気がついたのは孫策だった。
前方の津に騎影がいくつか見える。
「殿、あれは公瑾殿の一団でしょうか!?」
やっと追いついてきた孫河が大声で叫ぶ。
「ああ!どうやら戦闘しているようだ。行くぞ!」
孫策は更に馬の横っ腹に蹴りを入れ、スピードを上げた。
周瑜の率いてきた一団は船を津につけた途端、野党の襲撃を受けていた。
野党は船の積み荷を狙っているのだった。
周瑜も先頭に立って、野党と戦っていた。
その最中、その声は周瑜の耳にふと飛び込んできた。
「殄冦将軍、孫伯符が参ったぞ!味方はどこだ!?」
「えっ!?」
周瑜は咄嗟に耳を疑った。
そんな馬鹿な!
だが、野党と斬り結んでいる周瑜の目の前を横切ったのはまぎれもなく孫策その人であった。
「伯符さまっ!?」
孫策は周瑜を見つけると、その戦っていた相手をなんなく一太刀で斬り捨てた。
「おう!公瑾!無事か!?こいつらは何だ?!」
「野党です」
「そうか!では遠慮はいらんな!」
孫策は騎乗したまま、野党の群に斬り込んだ。
野党たちは援軍が来たことを知り、そのうちの一人が撤退の笛を吹いた。
だがすでにそのとき、野党の半数以上は孫策たちによって斬られていた。
血にまみれた刀を振り払い、鞘に収めると孫策は改めて周瑜の傍に馬を寄せた。
「公瑾!久しぶりだ!」
周瑜はそれには答えず、拝礼した。
孫策は馬を降りるとすぐさま周瑜の傍に駆け寄った。
「伯符さま、どうしてここに・・・!合流場所は歴陽だと言った筈ですが」
周瑜は攻めるような口調で言った。
「おまえを迎えに来たんだ」
「・・・またそんな無茶を・・・」
「そう言うだろうと思った。だが今度は一人ではないぞ。見ろ」
孫策は周瑜の肩を抱いて、丁度孫河たちが駆けて来る方向を指さした。
「もっとよく顔を見せろ・・・また、一段と美しくなったな・・・」
孫策はそっと耳元で囁いた。
「伯符さま・・」
誰にも聞こえないような小さなささやき声で、孫策は周瑜に語りかけた。
「あのときと、心は変わらんか?これほどの美形を俺は妻にしそこねたというわけか」
そう言ってかすかに笑う。
周瑜はそっと頬を染めながらも首を横に振った。
「・・・・お会いしとうございました」
「俺もだ」
息がかかるほど傍に立つと、この数年ですっかり逞しくなった孫策に対し不思議な胸騒ぎを覚えた。
頭一つ分、背が高い。
昔は背も体格も同じくらいだったのに。
そう思うと、なんと自分たちはあのころから遠いところへ来てしまったのだろう、と思う。
孫河たちが馬を降り、孫策の前にやって来たのを見計らって、そこにいる者たちに周瑜を紹介した。
「周公瑾です。よろしく」
涼やかな声で挨拶をする。
呂範は目を剥いていた。
呂蒙は呆然としており、陳武に到っては脱いだ兜を足元に取り落としたまま拾いもせずじいっと周瑜に見とれていた。
「おい、子明、子烈。いくら公瑾が綺麗だからってそんなに見とれるなよ」
孫策がからかうように言うと、呂蒙は我に返り、すみません、と謝った。
「はっはっは!正直な奴だな」
孫策はそう言うが、実際これほど美しい人間を見た事がこれまでなかったのだから、仕方が無い。
孫河はニヤニヤしながらその三人の様子を見ていた。
孫策は周瑜に呂範、呂蒙、陳武の順番で紹介しはじめると、周瑜は呂範がなにか言いたそうにしているのに先んじて口を開いた。
「呂子衡殿、私を覚えておいでですか」
「ええ・・・!もちろん」
呂範の中でやっと一本の線が繋がった。
陶謙に捕らえられ、処刑されるところを救ってくれた美丈夫。
まさかあれが当の周瑜だったとは、思いも寄らなかった。
「なんだ、子衡。おまえは公瑾と面識があったか?」
そう問われて、呂範が答えようとすると周瑜はその細く長い人差し指を伸ばしてそっと唇にあてた。
「あ・・・・」
言うな、ということだろうか。
しかし、自分は周瑜に助けられて今ここにいるというのに。
すると周瑜は孫策に向かって言った。
「伯符さま。呂子衡殿とは江都で会ったのです。丁度その頃私は実家に戻る途中でしたので伯符さまのご家族にご挨拶に寄ろうかと思いまして」
「そうだったのか」
そのやりとりを孫河は黙って見ていた。
後で、呂範が孫河に聞いた話では、周瑜が言うには、孫策の家族と張昭を救い出したのはあくまでも呂範と韓当であり、自分は何もしていないのだから、あえていう必要はない、ということだったそうだ。
呂範は何を水くさいことを、と思う。それを孫河に伝えると、孫河は周瑜についてこう言った。
「あいつは手柄を自慢するようなヤツではないからな。それに殿に心配させたくないんだろう」
「心配、ですか」
「ああ。公瑾は小さいときから身体があまり丈夫ではないらしいんだな。そのせいか、殿は公瑾のことをすごく心配する癖がある」
「・・・・・」
「それにあいつ、ああみえて結構無茶なことをするんだ。殿のことはいつも叱っているくせにな」
孫河は、くすりと笑った。
なんとなく、納得できる話であった。
あまりにも綺麗で、線が細すぎる。
そのたおやかな姿は呂範が頭の中で描いていた周瑜という男の姿を大きく裏切るものであった。
「それにしても、ヘタをすればうちの奥さんより美人だ」
呂範がそういうと孫河は声を立てて笑ったのだった。
「君理の言ったとおりだな。おまえは一体なにを持ってきたんだ?」
孫策は周瑜の肩を抱いたまま、津に停泊している船を見た。
「はい。ご覧の通り、兵300人と船ニ十艘、それに食糧を持って参りました。武器も少し。船でここまで下って参りましたのでその間に兵たちに作らせました」
「大きな船もあるな。馬も乗り込めるのか?」
「ええ、蒙衝ではありませんが。一艘で一度に馬百は無理ですが、数十頭ずつならなんとか渡せます。伯符さまは江を東に渡ろうとお考えなのですか?」
「無論だ」
「ならば、その前に横江津、当利口の樊能らを叩きましょう。背後の憂いを取ってから長江をゆっくり渡り、そののちに牛渚の邸閣を攻めとりましょう。味方は志気が上がるし逆に食糧を奪われて敵はやる気を無くすでしょう」
「俺も同じことを考えていた。歴陽に向かっている我が軍はいまや6000名を超す。戦に勝てばその数も増えよう。食い物はあればあっただけ良いというものだ」
孫策は満足そうに頷いた。
「そのまま曲阿に攻めこむにしても補給は必要だからな」
「そのまえに秣陵城を落とさねばなりませんがね」
「おお、おまえが来てくれたからには、歴史に残る素早さで平定してみせるぞ!」
そう言い合ってお互いに笑いあった。
孫策とこのような会話ができるものはそうはいない。
「俺とここで合流したからにはこのまま船で歴陽まで行こう。水門を開けさせる。先に君理たちが行っているはずだ」
「はい」
呂範も呂蒙もそれを呆然と見ていた。
孫河だけがくすくすと笑っていた。
「どうだ?周公瑾という男をなぜ殿がわざわざ出迎えにきたのか、理解できたか?」
孫河の問いに二人は大きく頷いた。
そして陳武はその二人の後ろにあって、さらに高い位置からまだ孫策と周瑜をぼーっと見ていた。
その視線に気付き、周瑜は陳武を正面から見る。
陳武は慌てて俯いたが、耳まで真っ赤になっていた。
でかいナリをして、と孫河たちは一同に笑う。
しかし、周瑜だけは笑わず陳武をじっと見つめていた。
「伯符さま、あの者・・・」
「ああ、無礼を許してやれ。あいつは口べたでな、おまえにああして見とれているだけだ」と孫策は笑って言う。
「・・・・陳子烈殿でしたか、彼の出身は?」
「・・たしか廬江の出身だ。松磁、だったかな」
答えたのは孫河だった。
「・・・・」
周瑜はしかし、先ほどの戦いぶりを見ていた。
まごうことなき猛将である。
「あの者と、少し話をしてもよいでしょうか」
「ん?何かあるのか」
「伯符さまにひとつ、献策したく存じます。それにあの者を使いたいのです」
「陳子烈を?」
「ええ」
「どんな策か知らんが、あいつは腕は立つが弁は立たんぞ」
「だからこそ適役なんです」
そう言って周瑜はにっこり笑った。
その笑顔を底知れない、と思うのは呂範ばかりではなかった。