それは、別働隊を率いていた周瑜にとっては晴天霹靂の出来事だった。
孫策が敵の弓兵の放った流れ矢に右の大腿部を射抜かれたのだ。
秣陵城を攻めていた時のことである。
牛渚を落とし、兵糧、武器を奪った。
牛渚には横江津で捕虜にした樊能らを監禁してある。
兵糧や武器などを格納している邸閣の警護も兼ねて、ここには呉景が駐屯していた。
後の憂いがなくなったことで勢いのついた孫策軍は迎撃に出てきたサク融の部隊と戦った。
孫策は自ら陣頭にあり、緒戦に勝利した。
サク融は分が悪しと見て直ちに城へ引き上げた。
それを追う孫策であったが先行し、深追いしすぎた。
なまじ乗馬の腕が達者であるため、後続の兵がついて来れず単騎でいるところに複数の矢が飛んできたのだ。
孫策を庇って数人矢に倒れた。
後から駆けつけてきた程普らになんとか防がれ、孫策は退却していった。
サク融らは城に立てこもり、いくら誘いを掛けても出てこようとはしなかった。
「くそ、まるで亀のように意固地に出てこないな」
毒づいたのは呂範だった。
秣陵城は要塞のような強固な城で、城壁の外側には深い濠があり容易に近づくことはできなかった。
「伯符さま!!」
顔色を変えて孫策の幕に飛び込んで来た周瑜を迎えたのは他のだれでもない、孫策自身であった。
牀台に身体を横たえながら片膝を立て、軍医にその膝上に包帯を巻かせていた。
周瑜を見て、孫策は上半身を起こした。
「公瑾」
周瑜は孫策の前に立ち、軍医の手当が終わるのを待った。
幸い、傷口は貫通してはいたが矢に毒はなく、馬に乗ることを10日ほど我慢すれば良くなるであろう、との見立てであった。
孫策は舌打ちして幕を出ていく軍医の背中を見送った。
幕の中は二人だけになった。
周瑜は孫策の牀台に片膝をついて取りすがった。
「・・・良かった」
「すまんな、心配をさせた」
安堵の声を漏らす周瑜を見下ろし、その髪を撫でて言った。
「本当ですよ。まったく、生きた心地がしませんでした。また、いつもの悪い癖が出たんですね」
「・・・つい、夢中になってな。城に戻らせると厄介なことになると思って急ぎすぎた」
「・・・10日、と言っていましたね」
「そんなもの、半分の日にちで回復するさ」
周瑜はふっ、と笑って孫策を見た。
「ダメです。伯符さまにはおとなしく寝ていてもらわなければ」
「なんだと?そんな悠長なことを言ってる場合か」
「伯符さまは私との約束を二度も破りました。その罰を受けていただきます」
孫策は一旦怒鳴りそうな表情になったが、周瑜が微笑んでいるのを見て問うた。
「・・・おまえ、なにか企んでいるな?」
「わかりますか?」
孫策はそう言って笑う周瑜を自分の胸に引き寄せた。
「おまえがそうやって片方の頬だけで笑うときは何か企んでいる時だ」
「うふふ、伯符さまにはすぐばれてしまいますね・・・私も見破られぬようもっと経験をつまねば。それでは少々お耳を」
そう言って、周瑜は孫策の耳に片手を添えて口を近づけて何事かを囁いた。
周瑜の顔が耳元から遠ざかると孫策はため息を一つついた。
「・・・なんだ、俺は随分と退屈な役だな」
孫策の言葉に周瑜はくすくすと笑った。
「ついでに言うと輿に乗って後方に下がっていただきますから」
「う〜格好悪いな。どうしても、か?」
「時間稼ぎです。その間に伯符さまはゆっくりと傷を治してください」
「・・・そしてまた、しばらくおまえの顔が見れないのだな」
孫策は周瑜の小手をはめたままの手を取って呟いた。
「しかしあいつはおまえのいうことを聞くかな?」
「聞かせて見せますよ」
周瑜は美しく微笑んで見せた。
それを横目で見て、孫策は思わず唸った。
「・・・・なあ、正直に言っていいか」
「なんです?」
「部下といえどおまえに他の男を近づけたくはない」
周瑜はその切れ長の瞳をぱちくり、と二、三度瞬きさせて孫策を見た。
「・・・何をおっしゃるのかと思えば、そんなこと」
「おまえは平気かもしれんが俺は結構気にしてるんだ」
孫策はそう言ったきり横を向いてしまった。
周瑜は孫策の子供っぽいその仕草に思わず吹き出してしまう。
「私とあれの間に、何があると言うんですか」
「・・・・おまえは、男というものに恐れを抱いたことはないのか」
孫策は少し怒ったように言った。
「ないです。私は男ですから」
周瑜はきっぱりと言った。
「・・・男だと知っておまえに決して口には出来ぬ想いを抱いている者もいるだろう」
「それはかえって好都合。そういう者は私の考えに逆らうことはしないでしょうから」
周瑜は意地悪く笑った。
孫策は周瑜の黒い髪を掴んで引き寄せた。
「・・・なめていると今に痛い目をみるぞ。気をつけろよ」
「肝に銘じますよ」
その夜−
ひっそりと周瑜の天幕にやってくる男がいた。
「公瑾殿、失礼致します」
天幕の中には細い灯りが一つ。
その灯りが秀麗な美貌を映し出した。
「・・・子烈か」
美貌を目の前にして、陳武は硬直した。
おそろしく真剣で、尖った雰囲気を纏っていたからであった。
陳武はその雰囲気に呑み込まれそうになった。
「・・あ、あの・・・なにか・・・」
陳武はしどろもどろに訊いた。
「子烈、頼みがある」
「は・・・」
「伯符さまが・・・お命を落とされた」
「ええっ!?」
「しっ!静かに!」
陳武は驚きを隠せなかった。
「三日前、伯符さまが矢に当たってお怪我をなさったのは知っておろう?・・・残念なことだ。矢には毒が塗ってあったのだ」
「なんと!それはまことですかっ!?」
「・・・・」
周瑜は片手で制してつらそうに俯いた。
「・・・申し訳ありません、取り乱して・・・しまいました・・・」
陳武は周瑜を見、今聞いた事への驚きに信じられないといった表情を浮かべていた。
「いい・・私だってまだ、信じられないのだから・・・」
そう言って額の髪を掻き上げる仕草が色っぽい。
陳武はこんな時に、自分は何を思っているのだ、と恥じた。
だが、この周瑜の落ち込みようはただごとではない・・・やはり孫策は亡くなったのか。
しかし、信じられない。
あの活達とした方がこんなにもあっさりと逝ってしまうなどと。
半信半疑ながらも陳武は周瑜に向かって訊いた。
「・・・して、そ、そのような中、某に何を頼むとおっしゃられるのですか?」
「伯符さまが亡くなったとなった今敵に知られずに呉景殿にここへ来ていただきたいのだ。・・・伯符さまに変わって指揮を執っていただくために、おまえに迎えにいって貰いたいのだよ」
「・・・某が?」
「他の将が動くと敵に感づかれるだろう?私の部下を数人付けるから彼らと共に行って欲しい」
「・・・は、はい!わかりました。牛渚に行って、ご、呉中朗将殿を必ず連れて参ります」
「・・たのんだぞ」
そう言って陳武はショックを隠しきれないまま天幕を後にした。
陳武と入れ替わりに天幕に入ってきた男がいた。
「公瑾殿」
かすかな灯りのなか、振り向く周瑜の表情は先ほどとはうって変わって穏やかだった。
「弘兄殿・・・」
その顔はいつか江都で会った孫策の姐婿弘咨であった。
「・・・・本当に行くのですか」
「ええ。大丈夫です。陳武殿と共に必ず戻りますよ」
「・・・それから、もう一人お荷物を預けますが、よしなに」
「わかっております」
弘咨は口元をほんの少しほころばせた。
「孫家に借りた恩は返さねば、と思いますので」
弘咨は孫策の家族らとともに歴陽にやってきていた。そこで孫軍に仕官したのだった。
「恩などと、水くさいことを。あなたも孫家に連なる方ではございませんか」
「・・・ともかく私が力になれることなら何でもしますよ。明日、なるべく東よりの森林地帯を通って参ります。手筈はよろしくお願いします」
「・・・・わかりました。ご武運を」
時を同じくして、牛渚でも一つの異変が起こっていた。
捕らえられていた樊能・張英らが反乱を起こしたのである。
ここを治める呉景は乱を治めようと必死だった。
そして、呉景は于糜を斬ったが、その間に樊能、張英らを取り逃がしてしまった。
樊能らは投降兵ら200人ばかりを率いて秣陵へと逃亡した。
呉景は追っ手をかけながら一応悔しがっては見せたものの、その後乱をぴたりと押さえ一人呟いた。
「・・・これで良かったのだな、公瑾」
陳武と従者二人は森林の中を掛ける馬でもって密やかに進んでいた。
森を出ようとしたところで、出会い頭に牛渚から逃亡してきた樊能らの一軍と出会ってしまった。
陳武は先頭にいた樊能の顔を見知っていた。
「おのれ、おまえは!」
そう叫ぶと矛を振り回して敵を凪いだ。
「く!こいつ、てごわいぞ!絡め取れ!」
しかし、森の木々が邪魔で思うように戦えないのであった。
「降伏しましょう!」
陳武の従者の一人がそう言った。
「何を言う!俺には大切なお役目があるのだ!!それを果たさんでどうする!?」
その陳武の言葉を聞きとがめた張英は、陳武を生け捕りにせよと命じた。
多勢に無勢、思うように動きの取れない陳武は縄を掛けられて矛を払われあっというまに捕らえられた。
陳武に付き従う従者二人も同様に捕らわれた。
「おまえのお役目とは一体なんだ?」
樊能が鋭い目つきで陳武を見た。
縄をかけられたまま地面に転がされて尋問を受ける。
「口が裂けても言うか!」
陳武は憮然としてそう言う。
「ふん、強情だな。拷問にかけることになるぞ・・・そうだな、まずそっちの弱そうなヤツから」
二人の従者のうち一人が指をさされ、悲鳴を上げた。
「ひぃっ、子烈さま、俺は拷問なんていやだ。ここで捕らわれちまってはどっちみちお役目なんか果たせないんでしょう?さっさと言ってしまいましょうよ」
それを聞いて陳武は火のように怒った。
もう一人の従者は沈黙を守っていた。
「某は主君を裏切るような真似はせん!」
張英はこの陳武の毅然とした態度が気に入った。若い上に武勇もなかなか大したものだ。
そのとき張英にあることがひらめいた。
「おぬしがそうでも主の方はどうかな?もし、だ。おぬしの主がおぬしを救いに来ればその意気に免じておぬしを解放してやろう。だが来なかった場合は・・・」
陳武の不器用そうな顔を見て張英は言った。
「儂の配下になれ」
「なんだと・・・!」
「主に見捨てられては戻ることも叶わぬだろう?せっかくのその力、奮わずにおくのは実に勿体ない」
張英はそう言って笑った。
「秣陵の本営に報せてやる。答えがなければおぬしは見捨てられたということだ」
樊能らは先触れを出し、城壁にそって秣陵城への入城を果たした。
もちろん、それは周瑜の知るところではあったが。
「公瑾、おまえの予想どおり秣陵城から使いがきたぞ」
孫河が書簡を持ってやってきた。
報せとは、牛渚を脱走した張英らが陳武を捕らえたということであった。
「なんと返すつもりだ」
「決まっているじゃないですか」
周瑜は笑わずに言った。
「・・・どうでもいいが、早くしろよ。殿がしびれを切らしてるからな」
「・・・お願いしますよ。くれぐれも、いま伯符さまに動かれたらすべてがおしまいですからね」
「わかってるって」
城の地下牢に監禁されていた陳武と従者二人のもとへ張英がやってきた。
「おぬしの上官から返事がきたぞ」
陳武は黙って睨み付けるような目で張英を見た。
「そのような者のことは与り知らぬ、だと。孫軍の兵とは偽りなり、その者の讒言を真に受けられしは愚か者の証拠なり、だそうだ」
「・・・・!」
陳武はあらかた予想していた。
周瑜は助けに来ない。掴まった自分が間抜けなのだ。
しかし、ここで犬死にするしかないのかと思うと口惜しくて仕方がなかった。
「どうだ、陳武とやら!儂に仕えた方が身も世もあるというものぞ」
そのとき、従者の一人がそっと陳武に耳打ちした。
(子烈さま、ここで犬死になさるおつもりか?ここはひとつ寝返ったと見せかけて脱出する機会をうかがった方がよろしくはないでしょうか?)
陳武は従者の顔をじっと見た。
「・・・・俺にはそんな器用な真似はできん。情報を売ることもできん」
張英はその陳武をじっと見た。
そして隣の従者を見た。
「おまえは話がわかるようだな。何か知っておるのなら話せ。悪いようにはせんぞ」
「・・・・子烈さま。私はあなたにまだ死んでほしくはありません。孫軍があなたを見捨てたのは事実。武人として生きられるのも恥ではありませんぞ」
陳武は驚いて従者を見た。
この男と陳武はこの命令を受けてから初めて会ったはず。
この男は一体何者なのだ。
周瑜の命を受けたものであるのか−
もしや、と思い至って、陳武は従者に頷いてみせた。
そして張英に向き直り、口を開いた。
「わかった。某はすでに宿無しの身。拾ってくださるというのであればそれなりに仁義をはろう」
張英は顔をほころばせて言った。
「おお!そうか!よ、よし!すぐにここから出してやる」
張英は兵に命じて二人を牢から出し、部屋に連れて行って食事を与えるように指示した。
そして一人牢に残った従者に張英は言った。
「・・・役たたずめ。おまえがでてくるとは思いもよらなかったぞ。せっかく密偵として送り込んだのにまたこうして戻ってくるとはな」
「ち、張英さま!私をまたここからやつらの本拠に戻していただければ立派にお役目を・・・!」
「おまえはもう用済みだ。ここからおまえだけを帰しては密偵だということがばればれではないか。顔も知れている以上おまえの役はもう無いと思え。しばらくそこにいろ」
部屋に通された陳武たちはサク融、張英・樊能の前に座し、改めて報告をした。
「某のお役目は、亡き孫伯符将軍に替わって牛渚に駐屯されている呉中朗将殿を本陣にお迎えすることであった」
この言葉を聞いて樊能も張英も驚いた。
「いま、なんと言った・・・!?孫策が死んだと、そう言ったか!?」
「孫伯符将軍は先日の緒戦で怪我を負い、その傷が毒に冒され、そのまま三日後にみまかられたのだ」
「なんと・・・・!!」
サク融は膝を叩いて喜んだ。
「やはり、そうであったか!先日以来やつらの動きがどうも鈍いと思っておったのだ!礼を言うぞ、陳武殿」
「しかし、にわかには信じられぬ話では有るな」と樊能。
張英は陳武の人となりを見て、罠をはれるような策士ではないことを確信していた。
「しかし、こやつのいう事は信用できると儂は思うが・・・む。そうだ密偵が戻ってきている故、聞いてみるとしよう」
張英はそういって先ほど牢に一人残してきた従者の一人を連れて来た。
それが密偵だったと聞いて、陳武は眉を吊り上げて怒った。
その様子も張英が陳武を信用する理由の一つとなった。
密偵はたしかに孫策が輿に乗って担がれ、後方の陣営に下がって行ったのを見た、と言った。
それが決め手となった。
サク融は拳を振り上げた。
「そうとなれば、なにもこんなところで閉じこもっている必要はない。孫策のいない陣など敵ではないわ!兵を出す!本陣を突撃するぞ!」
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