(18)神亭



 
 

曲阿を臨む所に神亭という場所がある。
丘陵、と呼ぶには平坦な道がつづく所であったが、孫策はそこへ自ら偵察にいくと言い出した。
それに程普、黄蓋、韓当、朱治ら十騎あまりを伴って出かけるというのだ。
孫策は周瑜にも声を掛けたが、猛反対された。
神亭は草木が生い茂る見とおしの悪い場所でもある。
曲阿はもう敵の陣地なのだから少数でいるところを敵に見つかって囲まれたりしたらどうするのか、と。
孫策を援護する程普らが自分たちが命に替えても護る、と言ってきかないので結局周瑜はあきらめた。

「まったく、公瑾は心配性だな」
孫策がそう言うと、程普らは笑って頷いた。
追従していた呂範もそれを聞いていたが笑わなかった。
ここは敵地と言っても過言ではないのだ。
用心するに越したことはない。
 
 

周瑜たちはそのころ曲阿にほど近い太湖の辺北に陣を張っていた。
曲阿の連中は彼らが西からやってくると思っている。
その裏をかき、南に布陣していたのだった。
孫策たちが出かけてすぐ、周瑜宛に使者が書簡を携えてやって来た。
農民の姿をしたその使いは、陳武の配下の足軽兵であった。

「ふむ。陳武たちは無事に曲阿に入り込めたようだな」
弘咨が記した竹簡を見てそう呟いた。
「さて、内応させる機会が肝要だな・・・どうするか」
その書簡のなかに、周瑜が気になることが書かれてあった。
「太史子義・・・?」
太史慈という腕の立つ客将が自分たちを疑っていること、そしてまた彼が劉ヨウに軽く扱われていることが書かれていた。
彼は毎日たった数十騎のみを与えられて偵察ばかりさせられているという。

それを見て、周瑜は思わず席を立った。
やはり、偵察隊が出ていたか。
「杞憂であればよいが・・・」
周瑜は兵に言ってすぐさま二百騎ばかりを出動させる準備をさせた。
 
 

太史慈はいつものように偵察に出ていた。
毎日同じことをしている気がする。
この日も太史慈は数騎を従えただけでの偵察にでていた。
兵たちも少しだらけてきて、統率が取れなくなってきつつある。
西からいつ孫策が攻めてくるやもしれぬというのに、この緊張感のなさはどうだ。
それでもまだ、太史慈自身が訓練をしている軍はマシな方である。

神亭にさしかかったとき、太史慈は前日の雨のあとでぬかるんだ地面の上に騎馬の足跡がいくつもついているのに気がついた。
太史慈は兵に指示を出し、できるだけ物音を立てないよう静かに進むよう言い渡した。
しばらく行くと木立の向こうに、騎影が見えた。
息をひそめ、目を凝らす。
太史慈の目は、空高く舞う鳥が地を這う小虫を見つけるがごとく鋭い。
先頭にいる鎧姿の男はまだ年若い。髯もすらも生えてはおらぬ、少年と言っても良かった。
だが、そこにいるだけで感じる重圧感、存在感は只者ではないと太史慈の武将としての本能が教えていた。

間違いなく、あれが孫伯符。江東の虎の息子であろう。

太史慈は決意した。
今のだらけた劉ヨウの軍では新進気鋭の孫策軍には勝てない。
ならばここで孫策の首をあげればそれで終わりではないか。

太史慈は騎馬ごと林の中から飛び出した。
「そこもとは孫伯符殿とお見受けいたす」

孫策はじめ、付き従う武将達は、この突然の登場にぎょっとした。
こんなに近くに来るまで気付かなかったとは不覚であった。
程普はじめ彼ら諸将は孫策を庇うように彼らの主の廻りに騎馬を移動させた。
太史慈の背後に数騎の騎影が見えたからであった。
「この俺を孫伯符と知っての奇襲とは、おぬし劉ヨウの手の者か」
孫策は少しも慌てずに言った。
太史慈は孫策と正面から対峙してみて、改めて思い知った。

これは、器がちがう。
この男と闘うのであれば劉ヨウでは勝てない。
だが、一介の武人としてはどうか、試してみたくなった。

「俺は太史子義と申す。おぬしに恨みがあるわけではないが、客将として劉揚州殿に身を預ける以上おぬしとは闘わねばならぬ」
良く通る声で太史慈は言った。

「おお、おぬしは客将か。どうりで見かけぬ顔だと思ったぞ。だが、おぬしの事情もわからんでもない。俺と闘おうというのなら、その双戟を持って挑むがよい!」
孫策も負けずに張りのある大きな声で言った。

太史慈はゾクゾクしていた。
「承知!ならばここからは双方の兵には一切の手出しは無用!」
「おお!」
孫策はそう答えると、周りの将を見やって、
「おまえたちは下がっていろ。一騎討ちだ。勝負を汚す者は俺自ら斬って捨てるからな!」と言い渡した。
「おまえたちもだ!一切手を出すなよ!」
太史慈は背後の部下にそう言った。

お互いの馬を駆け、間合いを取る。
どちらからともなく、武器を手に馬に気合いを入れ、駆け合った。
剣と戟がぶつかり合う音。
双方ともその手綱さばきは見事であった。
「太史子義とやら、おぬしなかなかやるな!」
孫策は言いながら笑っていた。
「なんの!そちらこそ、この俺の双戟をこれほどかわすとは、大した武者よ!」
すでに交わした剣戟は数十合を数える。
その腕は互角に見えた。

程普、韓当らはこの勝負が終わった後にくるであろう敵の殺到に備え、自分たちも構えていた。
人数はわからないが倒す自信はあった。

二人が戦い始めてからどれくらいの時が経ったことだろう。
遠目に見て、お互い肩で息をし始めている。
次の一撃を皆が息を呑んで見守った。

馬が動いた。
孫策の剣が
太史慈の戟が
一閃した。

「あっ」
そのとき声をあげたのが誰なのかはわからなかった。

太史慈の戟が孫策の兜の先に当たってはね飛ばし、孫策はその反対の手にあった戟を剣ではじき飛ばした。
お互いに再び距離を取り合って、はじき飛ばしたものを拾い上げた。
太史慈は孫策の兜を、孫策は太史慈の戟を。

そのとき、太史慈の部下が声をあげた。
「子義殿、敵のものらしき一軍がこちらに向かって来ます!」
「なに!?」
「その数は数百はおります」
太史慈は馬首をめぐらせた。
そして、孫策に向かって言った。
「どうやら勝負はお預けのようだ」
孫策はまっすぐに太史慈の向かって言った。
「太史子義よ!おぬしほどの猛将を俺は知らぬ!その力、劉ヨウのためにあたら散らすには惜しい。時が許すならば俺の許へ来い!」
太史慈は孫策の顔を見たがそれには答えず、
「良い勝負であった。おぬしは良い君主になるであろう」
とだけ言って、馬の腹を蹴って駆け去った。
「退くぞ!」
太史慈はそう部下に令すると素早くその場から立ち去っていった。

「太史子義、たしか孔融の元にいた者にそのような名の者がおった記憶がございますな。たった一騎で敵の包囲網を抜け出し主君を救うための援軍を求めたとか。あれがそうなら納得できるというものですな」
馬で孫策の傍に来た程普は太史慈の去ったあとを見やって語った。
「ああ。あれはなかなかの武将だ。なんとしても欲しい。もし敵として出会っても、奴は捕らえろ。殺してはならんぞ」
孫策は太史慈の戟を手にしながらそう皆に言った。
「それはなんとも難しい仰せですな。あれだけの使い手を捕らえろとは」
韓当は笑って言った。
「それにしても、こちらへ向かってくる一軍とは?」
黄蓋がそう訊くと、間もなく馬のいななきが聞こえた。
遠目に「周」の旗が見える。
それを見て孫策は思わず笑った。
「公瑾のやつ、美味しいところを持っていくな」
その隣で程普は憮然としていた。
周瑜のいうとおりになってしまい、挙げ句、その周瑜の率いる軍に助けられる格好になってしまったからである。
程普は、周瑜がしたり顔で己を笑いに来たのであろう、と思ったが、孫策の傍に来るとこう言った。

「伯符さまが出かけられてから、やっぱり私もお供すれば良かったと思い直し、旗本隊の訓練も兼ねてこうして来てしまいました。ご迷惑だったでしょうか」

この物言いに呂範は思わず吹き出した。
まったくこの人らしい言いぐさだ、と思わずにはおられない。
こんな大人数を連れて、「ご迷惑だったでしょうか」とは。
程普がそれをじろり、とねめつけたので、呂範は慌てて姿勢を正した。

しかし、周瑜隊が到着する前に太史慈は姿を消している。
敵の奇襲を周瑜が知っていたとは考えにくい。
それで程普も周瑜がここへ隊を率いてきたのは偶然だと思った。

「ああ、まったくだ。おまえのおかげで獲物を逃がしたぞ」
孫策はそう言って周瑜に笑いかけた。
「獲物、ですか?ここで狩りでもなさっていたので?」
周瑜のこの返答に、そこにいた一同は大声を立てて笑った。
孫策も同様に笑った。
場の雰囲気が一転して明るくなった。

「ああ、とびきりのヤツを捕らえ損なった。この次はきっと捕らえてみせるぞ」
孫策はどこまでも明るかった。
 
 
 
 

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