孫策たちは曲阿の南に陣を張っていた。
その夜、孫策はじめ、宿将達が集まって曲阿攻めに関する軍議を行っていた。
すでにここへ来るまでに湖孰・江乗・句容等の地を占拠していた。
劉ヨウは孫策の軍が音を立てて近づいてくるのを感じ取っているであろう。
頻繁に偵察部隊を送り出している。
孫策はそれを放っておいた。
宿将の宋謙らは偵察部隊を斬って、敵を恐れさせてはどうかと提案した。
孫策はそれを却下した。
「できれば劉ヨウを斬らずに降伏させたい」
孫策はそう言った。
「殿は甘うございますな」程普はそう言う。
しかし孫策は腕組みをしたまま表情を変えずに言った。
「確かに袁術の命を受けて劉ヨウを討伐しに来たが、俺は袁術のために働いてやっているわけではないぞ。劉ヨウ個人に恨みがあるわけでもない」
周瑜は末席にあって、孫策の言葉を聞いていた。
「ですが先方はそうは思ってはおらぬでしょう」言ったのは黄蓋だった。
「まあ、そうだろうな」
「で、具体的にはどうされますか」韓当が問う。
「・・・・・この兵力でなら数の上では拮抗する。へたな小細工はいらん。正面から突破する」
孫策の言にその場にいた者達からはおお、と声が上がった。
孫策は周瑜の方を見た。
「異論はないな?」
ここにおいて周瑜の策士としての能力を認めていた彼らは、周瑜の言をじっと待った。
これまで周瑜の策で勝てなかった戦はない。
周瑜は頷いて姿勢を正した。
「よろしゅうございます。それでは味方の兵力を存分にお使いください。すでに曲阿の城は我が手に有り、陳子烈の内応によって戦局は自在でございます」
「おお!」孫策は嬉しそうに言った。
そのころ、陳武は曲阿にあって、サク融を助けたことから500の兵を貰っていた。
弘咨は城内にそれとなく流言をまいていた。
「孫策が攻めてくるらしい。その兵力は倍だそうだ」
「今孫軍に寝返れば孫軍の兵と同じに扱ってくれるそうだ」
籠城する構えをみせる劉ヨウ軍であったが、すでに牛渚の食料庫は抑えられ、補給のめども立たなくなっていたことは誰の目にも明かであった。
日増しに脱走兵が多くなった。
弘咨は周瑜からの鳩を受け取っていた。
決行は明日の午後。
陳武は毎日兵の鍛錬に明け暮れていた。その朴訥さが、劉ヨウの宿将たちに歓心を持たせた。
陳武の指揮は兵達の支持を受け彼らもまた陳武によく従っていた。
「実によく訓練された部隊だ。もう500程増やしてやろう」
そうして陳武は1000名の精鋭部隊を得ることが出来た。
後に彼はこの精鋭部隊でもって特命部隊とし、あらゆる場面で活躍することになるのだがそれはまた別の話である。
ついにその決戦の火蓋は切られた。
太史慈は自ら部隊を率い、城外に撃って出た。
このまま籠城しても勝ち目はないと踏んだのだ。
しかし、太史慈の出陣したあと、陳武は突然声をあげた。
「おまえたち、無駄死にはしたくないな!?俺の役目はおまえ達をいかに生かし、戦に勝つか、だ。よって、我々はこれよりこの城を占拠し、孫軍に味方する!」
兵達は最初こそ驚いたものの、すぐさま声をあげて従った。
陳武の部隊はまず城門の守備隊を始末し、門を開けさせた。
そこで外で待っていた周瑜の部隊を中に引き入れた。
城門が開いて、孫策軍の歩兵・騎馬部隊がなだれ込んだ。
「周公瑾殿!」
「子烈か!」
周瑜の姿を認めて陳武は駆け寄った。
「ご苦労だった。おまえのおかげでこの戦は楽に勝てそうだ」
「いえ、某は公瑾殿の言われたままに行動したのみです」
「弘咨は?」
「ここにおります」
周瑜の騎馬の傍に彼はやってきた。
「よくやったな。後詰めで伯符さまも来られる。後ほど挨拶をするといい」
「はい」
周瑜は微笑して、陳武を振り返る。
「では子烈、仕上げといこうか」
「はっ」
城門の外で闘っていた太史慈は、伝令の報せで劉ヨウが裏門から、サク融や薛礼他自分の旗本隊を率いて逃げ出したことを知った。
「なんという君主か!兵を見捨てるとは・・・!もはやこれまでか」
太史慈は手勢を率いてそのまま城へ戻らず、逃走していった。
戦は一日ともたず孫策軍の勝利に終わった。
樊能をはじめ劉ヨウの主な武将たちはことごとく討ち死にしていた。
「そうか、太史慈は逃げのびたか」
孫策は部下からの報告を聞いて少し嬉しそうに言った。
「あれほどの武将だ。縁があればまた会うこともあるであろう」
曲阿城をほぼ無傷で手に入れた孫策はその夜勝利の祝宴を開いた。
「存外楽に落とせたのもおまえの手柄だな」
孫策は陳武にそう言い、陳武の引き連れている部隊を褒めちぎった。
「は・・・恐れ入りましてございます」
論功行賞を終えて、周瑜は陳武を見ていた。
少し変わったな、と思う。
まだ会って間もない頃はもっとおどおどしていた。
それが今はどうだ。
孫策を前に、落ち着いたものだ。
そうは思ったが、まだ若い彼をからかって他の武将達が酒を勧める様を見ていると、自然と笑みがこぼれてくる。
「公瑾」
ふいに孫策が声を掛けて周瑜の隣に座った。
周瑜は杯をもったまま孫策を振り向いた。
少し頬が赤い。
「劉ヨウは丹徒方面へ逃げたそうだ」
「・・・予章郡へでも逃げ込むつもりでしょうか。あそこは今だ定まった任の者がおりません」
「おそらくな。そこでまた力を蓄えるつもりだろう」
「でも今度は前のようには行きませんね」
「ああ、もちろんだ」
「これで伯符さまは丹陽を手に入れられましたね」
「景叔父には丹陽太守にまた戻って貰おうかと思っている」
「・・・・・」
周瑜にはそれがどういう意味か、わかっていた。
今現在、丹陽太守は袁術が任命した周瑜の叔父、周尚が着任している。
それを無視して呉景を丹陽太守に任命しようというのだ。
「伯符さまは袁術からいよいよ独立なさるおつもりなのですね」
「ああ。兵も得たし、袁術のもとに留まっている理由はもう無いからな」
「おっしゃるとおりです」
「手始めに会稽を取って、江東を平定する。手伝ってくれるな?」
「もちろんです。そのために私はここにいるのですから」
孫策はふっ、と笑って周瑜の肩を抱いた。
孫策はそのまま丹陽に留まり、袁術のもとへは戻らなかった。
そうして間もなく周瑜の元へ袁術から書簡が届く。
孫策の部屋で、周瑜はいとまを告げていたところだった。
「何?寿春へ?袁術のもとへ行くというのか?」
「はい。叔父がどうやら更迭されたようです」
「丹陽太守にはまたしても袁術の血縁をつけたのか」
「・・・叔父が心配ですし、このままでは筋として通りません故」
「・・・それがおまえを呼び戻すための袁術の罠だということもわかっているのだろうな?」
周瑜は孫策を見上げた。
心配してくれているのだ、と思う。
それへ、周瑜はふっ、と笑った。
「わかっております。袁術程度の男に使われる私ではないことは伯符さまもよくご存じのはず」
孫策もそれに対して身を乗り出し、そっと囁くように告げた。
「・・・・おまえは以前、女の姿で袁術に会っているだろう?俺が心配しているのはまさにそのことなのだ」
「もう何年も前のことになります。わかりはしませんよ」
「そうだといいがな」
「心配症ですね」周瑜はくすくす、と笑った。
「おまえが俺以外の者に膝を折るところなぞ見たくない」
孫策は真顔で言った。
周瑜はそれを見て、ふと思ったことを口にした。
「・・もし、私が伯符さまに敵対するとしたら、どうされます?」
孫策はそれを冗談と受け取らず、眉をひそめて聞いた。
「おまえを捕らえてそのときこそ無理矢理にでも妻にするさ」
「そう簡単にはいきませんよ?」
「簡単さ」
孫策は周瑜の肩に手をかけて引き寄せた。
「こうすれば、おまえは簡単に落ちるはずだ」
何か言おうとする周瑜の唇を、孫策は自分の唇で塞いだ。
しばらくそのまま、刻が止まったかのように二人の影はぴたりとくっついたままであった。
「・・・・必ず、戻って来いよ」
孫策が唇を離して最初に口にした言葉だった。
「・・・はい。必ず」
「戻ってくるときは連絡をよこせよ、迎えに行ってやるからな」
寿春に戻った周瑜は袁術に目通りした。
周瑜を見た袁術は目をパチパチさせた。
「・・・はて、そなたおなごのように美形じゃの。いつぞやの周家の美貌の娘はおぬしの妹御か?よう、似ておるな」
周瑜はこれには黙って頭を下げただけであった。
そして、早々と用件のみを口にした。
「何故我が叔父を更迭したのか、その理由をお教えねがいたく参りました」
袁術は、きたか、と言わんばかりの表情になった。
「そなたには悪いが、袁胤というのは実に有能な管理でな。丹陽は戦続きでほれ、荒れておる由、おぬしの叔父では手に余るとおもうてな」
「・・・・」
周瑜はそれを黙って聞いていた。
「だが、そなたのことはよう聞いておる。儂に仕えよ。さすれば叔父ともども要職につけてやるぞ」
周瑜はにこりともせず、顔をあげた。
袁術もその側近たちも、その秀麗さに圧倒される。
「・・・では 丹陽、廬江に睨みをきかせられる居巣への駐屯をお許しくださいますでしょうか」
「ほう、寿春にはとどまらぬか」
「はい。私は無骨者の武官ゆえ、より戦場に近いところに身を置いておきたいと思います故」
袁術はひげの生えた顎に手をあてて周瑜のその自らの言葉にそぐわない美麗な面を見つめた。
「・・ふむ。そうまで言うのならばよかろう、居巣県の県長を命ずるとしよう」
「ありがとうございます」
「兵は現地で調達せよ」
「了解しております」
周瑜はそういってそのまま下がった。
周瑜の去ったあと、袁術の側近楽就が話しかけた。
「よろしいのですか、将軍」
「なにがじゃ?」
「周瑜公瑾という者、なかなかの切れ者。孫策が用意に放すとは思えません。寿春に拘束しておいた方がよくはございませんか?」
「ふむ。まあ、何を言っても若造よ。何ができるわけでもあるまい。あの切れる頭で儂のための策を練ってくれればそれで良いのだ」
このときの袁術は孫策から取り上げたある玩具に夢中だった。
そのためそれどころではなかったのだ。
「ですが、今の孫策には少しの力も与えてはまずいのでは」
「ああ、うるさいのう、そんなに気になるならそなたが周公瑾を見張っておれ」
「・・・・では、そうさせていただきます」
楽就は周瑜の下がったあとに続いて広間から姿を消した。
広間の外に出て、楽就は楊広を呼んだ。
「先ほどここを通った周公瑾と言う者の後をつけろ。あの者が居巣に行き、そこから万一孫策軍に合流しようとするならば殺せ」
「は」
楊広は周瑜と会っていることを知らない。あのときは夜の闇で顔がみえなかったのだ。
またしても自分が同じ人物の刺客となったことを彼自身まだ知らずにいた。
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