(20)潮流



 

周瑜が寿春に戻ったあと、孫策は呉都へ戻ろうと準備中であった。
まず、会稽を落とさねばならないと考えていた彼は呉景ら守備部隊を丹陽に残し、主力を持って呉へ帰そうとしていたのだ。
 

陳武が周瑜が袁術の元へ向かったと聞かされたのは例の精鋭部隊を率いての偵察から戻ってきた後だった。
すぐさま彼は孫策の居城へと向かった。
その途中、孫河と呂範に会った。
「なんだ、子烈、そんなに血相を変えてどこへ行く?」
陳武は孫河に向き直った。
「周公瑾殿が・・・袁将軍の元へ行かれたと聞きましたが、まことですか?」
呂範はああ、そのことか、というような表情になって陳武を見た。
「ああ、本当だ。一昨日発たれた。しかし必ず戻ってくると約束したようだぞ」
呂範がそう応えると、
「・・・・しかし、戻ってきたくとも袁術が帰さないということもあるではありませんか」
陳武は少しムキになって言った。
「だって仕方ないだろう?公瑾の意志なんだから」
孫河は陳武を諫めるように言った。
「それにしたって・・・!公瑾殿は兵も連れずに出かけられたと聞きました」
「それはそうだろう。孫軍の兵をつれてったら逆に袁術の不興を買うかも知れないではないか」
「・・・・」孫河の言葉に、陳武はそれ以上何も言えなかった。
「・・・で、おまえはそういうことを殿に言おうと思ってきたわけだ」
陳武はムスッとした表情になって頷いた。
孫河は砕けたように笑った。
「おまえ、公瑾のことがよっぽど気に入ってるんだな」
「そ・・・そのようないい方をなさらずともよろしいではありませんか・・・」
陳武は顔を赤くした。
「まあ、とにかく信じて待つしかないだろう?」
「・・・は」
ちょうどそのとき、その後ろから呂蒙がさっきの陳武と同じように息を切らせてやってきた。
「あ!子衡殿!公瑾殿が袁術のところへ行かれたって本当ですか!?」
孫河と呂範は顔を見合わせた。
「やれやれ、ここにもいたか・・・」
孫河は苦笑した。
短期間でここまで人を惹きつける周瑜という人物のことを、呂範は好ましく思った。
 
 
 

「申し訳ありません、叔父上」
周瑜は寿春に仮住まいを置いていた叔父・周尚を訪ね、そのまえで頭を下げた。

「叔父上をこのような目にあわせたのもすべて私の不徳の致すところです」
「何を言う。おまえはなにもしてはおらんではないか、そのように謝るのは筋が違うというものだぞ」
周尚は周瑜の傍により、その肩を軽く叩いた。
「・・・・おまえの父は洛陽県の令を務めたまま早くに卒官した。兄も母もそうだが、おまえは早世する血を持っているのかと気になって仕方がないのだ」
周瑜は目を閉じて叔父の言葉を聞いていた。
父、兄、母・・・皆自分を置いて、去っていってしまった。
思えば、冬の木枯らしのような孤独感から自分を救ってくれたのは、あの活達とした幼なじみの少年だったのだ。
 

そもそも二人の出会いは偶然が引き起こしたものだった。
まだ10になるかならぬかの少年であった孫策は長沙太守に任じられたばかりの父と離れ、寿春へと移り住んでいた。
周瑜はその当時の師匠の進言もあって、勉学のために寿春にやってきていた。
当時舒では周瑜は天童として褒めちぎられ、だれもがその行く末に栄華が待ち受けているものと思っていた。
周瑜の師匠は寿春の孫策の噂を知り、是非周瑜に会わせたいと考えた。
「江東の麒麟児だというぞ。父は江東の虎、と呼ばれておるな」
決して性格的に怠けたり、自信過剰なところがあったわけではないが、自分よりも優れているという子供をそれまで周瑜は知らなかった。
「それは楽しみです。いったいどんなお方なのでしょう」

孫策の家は周家に比べるとそう大して大きくもなく立派でもなかった。
だが、その門扉は開かれ、ひっきりなしに人が出入りしている。
江東の麒麟児の評判を聞いて、皆会いにきているのだろう。
益々楽しみだ、と思った。
周瑜は孫家の門をくぐり、孫策に会いにきた旨を告げると、家の者は孫策が不在だと言う。
多少がっかりした様子でいたが、孫家の従者ははるばる舒から来た周瑜を追い返すような真似はしなかった。

時刻はちょうど夕刻になるところで、屋敷の中の人通りも一段落ついたとみえて、周瑜が通された部屋には他にもう誰もいなかった。
部屋の中を見渡してふと、目を留める。
琴が立てかけてあった。
周瑜は近づいて行って琴を手にとって床に置いた。
「立派な琴だ・・・これは鹿の皮がはってあるのかな?ここの奥方さまがお弾きになるのだろうか・・・?」
指でつま弾いてみた。
少し、弦が緩んでいるようだ。
それで、弾きながら弦を調節した。
「うん、よし」
調律を終えた周瑜は琴に夢中になってしまった。

庭からまわって屋敷に入ろうとしていた孫策は、そこで琴の音を聞いた。
「・・・・?誰が弾いているんだろう?随分と達者だなあ」
孫策には楽の心得など無かったが、その音色が美しいものであることはわかっていた。
その音色につられて、周瑜のいる部屋にたどりついた。
庭に向かって開け放たれたその部屋で、自分と同じような子供が琴をひいているではないか。
「・・・・おまえ、だれだ?」
周瑜は驚いて手をとめた。
庭の方を振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。
「・・・・・!」
こんなに近づくまで気配が感じられなかったとは、と己の迂闊さを恥じた。
それでも周瑜は立ち上がり、少年の方へと歩み寄った。
「私は舒から来ました周公瑾と申します。あなたが・・・孫伯符殿?」
孫策はしばらくじっと周瑜を見つめていた。
「・・・あの?」
「あっ、ああ、ごめん。そう、俺が孫伯符だ」
「そうですか。私はあなたの・・・江東の麒麟児の評判を聞いて、お会いしに参ったのです」
周瑜はそう、にこやかに言った。
孫策という少年は同じ年にも関わらず、武道に秀でているとの噂通り上背が大きくたくましかった。
だけど、なぜこんなにぼんやりしているのだろう?
「どうかしましたか?」
再び周瑜に訊かれ、孫策は頭を掻きながら、照れくさそうに言った。
「ごめん、ぼんやりしてて変だと思っただろ?なんか俺、君みたいな綺麗な子を見たことなくて、さ」
周瑜はぽかん、と口をあけた。
それからまた、孫策は「おかしな事を言ってごめん」、と謝った。
孫家の今の頭領は長江で江賊退治をして名をあげたという。
そのイメージもあって、周瑜はその長子である孫策がもっと荒くれ者で、口の利き方も知らないようながさつな少年ではないかと思っていた。
このように堅苦しくなく、素直な少年であったとは、意外であった。
そして周瑜は彼にいっぺんで好意を持った。
「伯符殿、私もです。あなたのように魅力的な方に初めてお会いしました」
孫策は照れながら周瑜の言葉を聞く。
「・・・さっきの琴、すごく上手だったな。また聴かせてくれないか・・・?」

そうして握手を交わし、お互いが同年だと知ると、ますます盛んに行き来をした。
やがて、別れがたくなった周瑜は舒の屋敷に来ないか、と孫策に進言するのだった。

周瑜の師匠に二人して習い、勉学に武道に勤しんだ。
なにも怖いものなどなかった。
自分たちの未来においてどういう生き方を目指すのか、夜通し語り合った。
だから、寂しいなどと思ったことはない。
孫策がいてくれる、それだけで心が温かかった。
 
 

「居巣に行くそうだな」
ふいに、周瑜の回想は破られた。

「はい」
「・・・・おまえは孫伯符殿の元へ戻りたいのであろう?」
叔父は静かにそう言った。
「儂はなんとでもなる。おまえはおまえのやりたいようにしなさい」
「・・・申し訳ありません」
周瑜は再びそう言った。
「公瑾、儂は舒へ戻ろうと思う。おまえの亡き母や家族の残したあの屋敷で静かに暮らそうと思う」
「叔父上・・・しかしまだそのように隠居されるには早いのでは」
「隠居とはまた随分ないわれようだな。故郷で儂は私塾でもやろうかと思っておる」
「・・・そうですか」
「だからおまえは何の気兼ねもせず己の信じた道を行くがよい。何者もおまえを遮ることはないと思え」
周瑜は叔父の手を堅く握った。
「・・・ありがとうございます、叔父上」
「いや、おまえには謝らねばならぬ。弟が亡くなっておまえの母が心の病にかかり、花のような娘であるべきおまえにこのような苦労をかけさせたのも、すべて儂が至らぬばかりに引き起こしたことだ。・・・すまぬ」
「いいえ。叔父上、私は今の自分を結構気に入っているのです。後悔など、したことはありません」
「・・・そうか。ならば良いのだが」
「ええ」
「おまえが信ずる孫一族のために、周家は協力する。おまえは周家の当主として一族の名に恥じぬよう振る舞うがよい」
「肝に銘じます、叔父上」
 

そうして、周瑜は居巣へ赴くことになった。
準備に数日を要した。
袁術の配下の文官や武将も数人同行する。
その中に楊広がいた。
彼を見つけたとき、その記憶と一緒に陸儁のことが脳裏をよぎった。
「・・・・」
その瞬間、楊広と目があった。
彼はすぐに目を逸らせた。

刺客か。

周瑜は悟った。
袁術か、あるいはその幕僚が自分を見張らせているのだろう。
さて、どうしたものか。
このままここにいられては動きにくい。
 

一旦居巣の小城に着くと周瑜は孫策宛に書簡をしたためた。
孫策は迎えにくる、と言った。
自分が寿春へ渡った後、呉へ戻るとも言っていた。
だから自分が戻るべき場所は呉なのだ。
一緒に来た袁術の文官たちがいれば自分がいなくてもさほど困らないであろう、と思う。
「・・・しかし、せっかく来たのだから何か手土産が欲しいところだな」
周瑜は自分の置かれた立場をも最大限に利用するつもりであった。

その周瑜の耳に、とんでもない話が入ってきた。

袁術が自らを皇帝と称し、成、という王朝の初代皇帝を名乗った、というのである。
きっかけは孫策が袁術に質入れした例の玉璽を手に入れたことであった。

「馬鹿だとは思っていたが、ここまで愚かだとは思わなかった」
周瑜は呆れた。
袁術の幕僚たちは止めたそうだ。
周瑜はちょうどよい、とばかりに楊広を呼んだ。

「袁将軍が皇帝を僭称し、張勲を大将に任命して呂布を討たせる準備に入ったそうですね」
周瑜を前にして、楊広は押し黙ったままだった。
「あなたは袁将軍の部下でしょう?こんなところにいて、よろしいんですか?」
楊広は瞬間、はっ、として顔を上げた。
目の前の軟弱そうな若者は自分が袁術の「部下」の命令を受けてここへきていることを知っているのだ。
そのわずかな動揺を、周瑜は見逃さなかった。
「私などを見張っているより、張大将と共に戦地に向かった方がよろしいのではありませんか?」
「・・・・・あなたは、何をご存知なのか・・・」
楊広はやっと口をきいた。
周瑜は口元だけでくすり、と笑った。
「何も。このままでは皇帝を僭称する袁将軍は不逞の輩として各国の群雄からつけねらわれることになると容易に想像できますから」
「・・・・・」
「もしあなたが袁将軍に愛想を尽かしたのなら、私の元へいらっしゃい」
楊広は目を剥いた。
「あなたのところへ・・・・・・・?」
「もちろん、孫伯符さまのところです」
「・・・・・」
「どこに正義があるのか、じきにあなたにもわかるでしょう。さ、もうお行きなさい。今は」
楊広は拳を床につくと、一礼して立ち上がった。
「ごめん」
そしてそのまま背中をむけて立ち去っていった。

彼はそののち袁術を見限って孫策の元へ出向こうとするが、彼の運命は周瑜達とは二度と交わることはなかった。
 
 
 
 

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