(21)魯粛



居巣県に来た周瑜は、そこで東城県にいる魯粛という男の噂を部下から聞いた。
東城は居巣からは北へ登ったところにある田舎町である。
魯粛は袁術から東城の県令に任じられていた。
だが、袁術の呼び出しになかなか応じないのだという。
家は裕福だが、父を早くに亡くして祖母と年老いた母を養っているという割には、自分の田畑を売りに出して貧しい者を援助したりしているので、随分とそのあたりでは有名な義士としてもてはやされているということだった。
「しかし、近隣の豪族の間では魯家の若旦那は身代をごく潰す阿呆だと申しております」
文官のその物言いに周瑜は苦笑する。
「その魯粛とやらに会いに行ってみるとしよう」
 

護衛を十数人ほど連れて、周瑜は視察を兼ねて馬で三日ほどかけて北へ向かった。
先の黄巾の戦のせいで、どこも荒らされていた。
江東は湿地帯が多く、土地も肥沃だが、まだまだ整備されているとは言えない。だが、ここよりはマシだと言えた。
魯粛の家はまわりを田畑で囲まれた大きな敷地に建っていた。
「なるほど、これは大した資産家だな」
ちょうど、その家屋敷の前の畑で農作業に精を出す農夫がいた。
「もし。少し尋ねるが、ここいら一帯の田畑は魯粛という男のものか?」
周瑜が馬上からそう尋ねると、農夫は手を休めて周瑜を眩しそうに見た。
「ああ?そりゃあ、昔はそうだったけど、今はもうあのお屋敷だけになっちまってるよ。魯家の若様が大旦那様が亡くなってからはちょっとずつ売りに出しちまってねえ。どーしょうもない、甲斐性なしだって、噂んなってるけどね」
「ほう」
「あんた、あれかね?将軍さまんとっからきなすった、お役人かね?」
「ああ」
「魯家の若様はごくつぶしだとかいわれてっけどね、あの方は偉い方だよ。ここいらの農民はあの方のおかげで皆飢饉を耐え凌ぐことが出来たんだから」
「ふむ。その偉い若様はご在宅かな」
「ああ、ほれ、あれだ。ちょうどお屋敷に戻られるところだ」
男の指さす方向を見ると、馬の乗った男が一人屋敷に向かって駆けていくところだった。
 

「なるほど、居巣に若い県長が着任したとは聞いていたが、そうですか、あなたが・・」
魯粛は周瑜に茶を出しながら言った。
周瑜はその茶に手をのばしながら、魯粛という男を注意深く観察した。
自分よりいくつか年上だろうということはわかった。
口ひげを生やし、中肉中背の、あまり外見的には特徴のない男ではあった。
だがその口元は引き締まりいくらか頑固で強情そうにも見えた。
とらえどころのない男だ。
周瑜は魯粛がちらちらと自分の顔を見ているのに気が付いたが、それには苦笑するだけだった。
居巣でもそうだったが、周瑜と初めて対面する者はたいていこうなのだ。
「なにか、私の顔についておりますか?」
とだけ言うと、魯粛は急に頬を赤らめた。
「いや、失礼、不躾をお許しくだされ。あなたのようなお若い美しい方と面と向かって話をする機会なぞないものですから」
そう言って少し笑い、らしくないしぐさで頭を掻いた。
周瑜は正直いってこういう対応には慣れており、もういちいち反応を返す事もしなかった。
「あなたはずいぶんと名のある文人たちと交流をなされているようだと伺っていますが」
周瑜は茶器を手に取り、一口飲んだ。
「寿春の袁将軍の呼び出しに応じない理由を教えては下さいませんか」
「・・・周公瑾殿とおっしゃいましたね。あなたこそ孫伯符殿の副将だと伺っておりましたが、なぜ袂を分かったのです?」
周瑜はこの魯粛と言う男がなかなかに頭の切れる男だとその瞬間感じた。
「袁将軍があなたの信頼に足る主だとは私には思えないのですがね」
魯粛はそう言って茶を飲む。
「孫家の長子は袁将軍が思っているような子虎ではありません。しかし今はまだあなどってもらっていた方が良いのです」
周瑜はこのお互いの腹のさぐり合いのような会話を少し楽しんでいた。
「・・・なるほど。袂を分かったわけではないということですか」
「あなたは?魯子敬殿」
魯粛は周瑜の綺麗な顔をみて唇を少しだけ歪めて言った。
「あなたが私と同じ考えでよかった。袁将軍はとうとう皇帝を僭称したそうですね。どれほどの臣下が彼に追従するのか、見物ですねえ」
魯粛はそう言うと、からからと笑った。
周瑜は茶器を置いて、膝をぐっと詰めた。
「・・・折り入ってご相談があります、魯子敬殿」
その匂い立つような美貌が更に近くに寄ってきて、魯粛は少しだけ狼狽した。
「私は近く、呉へ・・孫伯符殿の元へ参ります。そのために兵を募りました。しかしながら呉へ渡るにしてもそれに見合う兵糧が確保できません。そこでご助力を請いたいのです」
「ほう・・最初からそれが目的でここへ参られたのですか」
「そうです」
「それはまた。あなたの袁将軍への裏切りを私が密告するやもしれないとは考えませんか?」
魯粛の返答に、周瑜はあざといほどの笑みを作った。
「あなたはそれほど袁術に忠義をつくす必要など感じてはいないでしょう?」
魯粛は、周瑜がもはや袁術を「将軍」と呼ばないで呼び捨てにしたことに驚いた。
それを魯粛が指摘すると、周瑜は
「袁術は逆賊です。今更なんの尊称が必要でしょう」と苛烈に言った。
「顔に似合わず激情家なようですね、あなたは」
魯粛は苦笑した。
「いいでしょう。あなたにうちにある蔵のひとつ丸ごと差し上げましょう」
「えっ?丸ごと・・・ですか?しかしそれではあなたがお困りでは・・・」
「うちには年老いた母と老衰の祖母がいるだけで別に蓄えなんぞあっても使い道にこまるくらいです。どうぞ、お持ち下さい」
魯粛の気前の良さに周瑜は驚いた。
「魯子敬殿、かたじけない」
周瑜は手を差しだし、魯粛の手を握った。
「ご厚意ありがたくいただく」
「・・・・」白い、暖かい手だった。
魯粛はまたしても狼狽えた。
男にしては美しすぎる。
だが、女であるはずはない。中性的とでも言おうか、そのあやうさが周瑜の魅力でもあった。
自分は魅了されてしまったのだ、と思った。
そんなことをぼんやりと思っていると、周瑜の手が更に強く自分の手を握るのを感じて、はっとした。
「・・・呉へ、来ませんか」
「・・私に孫伯符殿に仕えろとおっしゃるのですか」
「そうです。あなたもあの方にお会いになれば、きっと分かる」
周瑜の手が放され、魯粛の手が宙に浮いた。
「・・・・・」
魯粛はしばらく考えて口を開いた。
「実は劉子揚殿からもお誘いをうけておりましてな」
「劉子揚殿・・・」
劉曄、字を子揚。たしか光武帝の末裔だという話を聞いたことがある。家は裕福だが若い頃は無法者として知られた男である。なるほど、家を傾けるような型破りな魯粛とは馬が合いそうだ。
だが、劉曄は曹操に仕えたと噂で聞いた。
「劉子揚殿はご自分では兵をもたれぬお方と伺った。聞けば同族の劉勲にご自分の兵をすべて預けておられるとか」
「ええ。こたびの乱世、漢室の力が及ばぬが故の原因と自ら責任を感じていらっしゃるようです」
「・・・責任といえばたやすいが、兵を預け、戦に踏みにじられる民草に目をつぶっておられるように私には思えます」
「・・・・」
「ならば敢えて剣を取り領土を固めて民を安心させてやることの方が大義をつくしているように思います」
「それが、孫伯符殿であると」
「そうです」
周瑜は少し薄い唇を引き締めた。
「曹操は人殺しの治世を築こうとしている」
周瑜は拳を握っていた。
「乱世の姦雄とはよくも言ったものだ。だがわが主の目指す治世は違う」
魯粛は形の良い唇が己の主君を語るのをじっと聞いていた。
そしてこの周瑜という男をここまで惚れ込ませる孫策という人物に逢ってみたくなった。
「その世を一緒に確かめたいとは思いませんか」
魯粛は真面目な表情で熱弁を振るう周瑜をしばらく黙って見ていた。
やがて口を開いた。
「・・・・うちの祖母は長くありません。もうここ数週間のうちに他界するでしょう。私はその葬儀をせねばなりません」
魯粛が何を言うつもりなのか、と周瑜は口をつぐんで次の言葉を待った。
「・・・ですから呉へ渡るのはその後ということになりますが、それで万一機を逸するようなことにならなければ良いと思います」
周瑜の表情がぱっと晴れた。
「そうですか。それは嬉しい!」
笑った顔はなお美しい、そう思った。

魯粛は遠路を尋ねてきた周瑜とその供の者達に今宵の宿を与えることにした。
そして自分の母に周瑜を引き合わせた。
そのときに母親は
「おや、子敬殿にもついに嫁に来てくれる女人が現れましたか。しかもこんな美人とはねえ。善哉善哉」
と言ったので魯粛は慌ててそれを否定し、周瑜に謝った。
周瑜は苦笑して母親に挨拶した。
「呉へ渡ることとなれば、母君を私がお連れ致しましょう。道中決して不自由な思いはさせません」
周瑜は魯粛にそう約束した。
「ではあなたにお任せいたしましょう」
「・・・ただ、ひとつ心配なのは、あなたがこの領地を治めている以上、県長がただだまってあなたを行かせるとは思えないということです」
魯粛はそれを聞いて、ふっ、と笑った。
「まったくあなたはよく気の回るお人だ。そのような心配は無用です。私は私の判断で民を連れて移動するだけなのですから」
「そうですか」
「・・・・あなたがお仕えするご主君なら私もきっとそうするでしょう」
 

その後、魯粛は孫策に目通りし、孫家に仕えることとなる。
 
 
 

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