(22)熱風



 

夷陵の山に、夕陽が沈む。
それを城壁の上からじっと見つめる双眸があった。
夕焼けを顔に受けて、頬が赤く染まっている。

「なんだ伯言、こんなところにいたのか。探したぞ」
声を受けてゆっくりと振り向く。
「・・・夕陽があまりにも綺麗で、つい。何か御用ですか?呂子明殿」
陸遜を呼びに来た呂蒙もその夕陽に眩しそうに目をやった。
「ああ、本当に燃えるように赤いな」
夕焼けの空を編隊を組んだ鳥が飛んでいくのが見えた。
「子明殿は、周都督とはもう長いおつきあいなんですよね」
「ああ、まあそうだなあ。先代の殿にお仕えしたときからだからもう10年以上になるな」
「・・・その間、ずっと一緒に戦ってこられたのですね」
「ああ、負け戦は一度も無かったな」
呂蒙は少し得意そうに言った。
「文官でおられたらよかったのに」ぽつり、と陸遜が言う。
「・・・何を言っているんだ、おまえは」
「知将ならそれらしく陣頭になど立たねばあのような怪我を負うこともなかったでしょうし」
「知略のみでは戦に勝てん。戦は最後は武だ」
呂蒙はそうきっぱりと答えた。
「・・しかし、諸葛亮という人は陣頭にこそ立ちませんがその采配で戦の勝敗を左右しています。・・・あのようなやり方もあるのです」
「それは劉備軍のやり方だろう。孫軍は違うぞ。文武両道ってのが基本だからな」
陸遜はふっ、と目を細めて呂蒙を見つめた。
「・・それでこのところ書物をよく読んでいらっしゃるのですか」
「あ、うん・・まあ、そんなところだ」
呂蒙は少しバツが悪そうに言った。
「こんな俺でも・・・少しは公瑾殿の・・・殿のためにお力になれればと思って、な」
陸遜はふう、と吐息をついた。
「孫軍は・・・周都督を中心にまわっておりますね。本当にすごい方だ」
「なんだ、今更そんなこと。都督なんだから当たり前だろう」
「なんだか不思議だなと思って。ここへ来るまで言葉すら交わしたことのない雲の上の人だと思っていた方と同じところにいるなんて」
「・・・一兵卒みたいなことを言うなよ」呂蒙は笑った。
「だれだってそう思いますよ。烏林での戦いのときなんか、一度激励に来られただけであの方の為に命を捨てると周りの兵は皆言っていました」
「策を立てるのみならず陣頭にたって剣をとっておられるからだ。悪いが諸葛孔明殿ではそうはいくまい」
「・・・そうかもしれません。策を練るばかりではどれほど兵が死んでも、痛みを感じることはないのかもしれません・・」
「そのとおりだ。苦楽を共にしてきた兵を家に帰してやりたいと思うだろう?戦に勝つとはそういうことだ」
陸遜は沈んでしまった夕陽を見つめながら呂蒙の言葉を聞いていた。
無意識に拳を握った。
「都督のような人を私は知りません。あの方は無欲だ。将は皆、武勲のため、勲功のために戦うのが普通です。なのにあの方は・・いえ、都督だけじゃない、子明殿、あなたもそうです。孫軍にはそういう将が多すぎる」
「おまえは?伯言」
「私は・・・・」

陸家のため。

その言葉を呑み込んだ。

忘れてはいない。
孫権の兄が己の養父を殺したことを。
孫策のために陸遜は一族を五十人以上も喪った。
それを忘れて知らぬふりを決め込むことで今まで生きてきた。
だが従兄弟の陸績が孫策に仕えていたことすらも、陸遜にとっては偽善であった。

「もうすっかり日が暮れたな。広間へ行こう。都督が待っているぞ」
呂蒙に背中をぽん、と叩かれて我に返る。

自分の中に邪なものが流れている。
陸遜はそれを自覚している。
そして周瑜にはそれを見透かされているような気がしてならない。
だから緊張する。冷や汗が出る。

なぜ、あのような人がいるのだろう。
・・・・なぜ、孫策の義兄弟だったりするのだろう。
今更、言ってもしかたのないことをつらつらと考えてしまうのは、悪い癖だ、と思う。

呂蒙に肩を掴まれて階下に降りながら、周瑜に会うのを恐れている自分に気付いた。
多すぎる。
自分が憎めない相手が、この軍には、多すぎる。
 
 
 
 
 
 
 

周瑜が居巣にあった時、周瑜の居室に意外な人物が訪ねてきた。

「幼台殿・・・!お久しゅうございます」
「壮健そうでなによりだ、公瑾殿」
孫静幼台、孫策の父の弟、つまり孫策にとっては叔父である。
孫堅の死後、彼は戦を避け家族を連れて故郷に戻っていたはずであった。
「儂はこれから呉へ渡ろうと思う。おぬしがいつまでここにいるつもりかと思ってな、道すがら寄ってみたのだ」
「そうですか。お気を遣っていただき、申し訳有りません」
「・・・なぜすぐに動かんのだ?策はおぬしを呼んでおるのだろう?」
孫静は今年40になる。
まだ壮年といえる年齢であったが、その貫禄は兄譲りであっただろうか。
周瑜は侍女の持ってきた茶を差しだした。
孫静はそれを手にとって、ゆっくりと口を付けた。

「幼台殿こそ、伯符さまのもとへ行かれる決心をなさったのですね」
周瑜は自分の口元を袖で隠すようにして茶を飲んだ。
「策の奴めが儂を呼びつけおった。会稽を攻めるから知恵を貸して欲しい、とな」
会稽郡は大きな土地であり、江東を支配するには欠かせない重要な場所であった。
そこには朝廷から任じられた会稽郡太守・王朗がいた。
王朗は元は陶謙の部下で、ここ数年孫策配下の朱治の軍との小競り合いが続いていた。
会稽には浙江という天然の要塞があり、それが勇将である朱治を持ってしても攻めあぐねていた原因であった。
孫静は地元である浙江のことを熟知している。
孫策はそれを知っていて会稽攻略の前に呼び寄せたのだろう。
周瑜はうすく口元だけで笑ってみせた。
「幼台殿がおいでなら王朗も逃げる準備をせねばならぬということになりますね」
「儂はそこまで楽観はしておらんぞ」
孫静は笑わずに周瑜を正面から見つめた。
「おぬしが来なければ絶対とは言えん、と儂は思う」
「行かぬとは言っておりません。ここで情報を収集して機をうかがっているのです」
周瑜はそう答えた。
孫静が言っているのはなにも周瑜個人の力をあてにしているということではない。廬江一帯に勢力を持つ名家の周家の協力が欲しい、ということなのだ。
顧家、朱家、陸家、張家、董家、いずれも揚州を中心とする名家である。
いわゆるその地の豪族の協力なしにはその土地での戦の後を治めることは難しい。
「策は軍略の才に溢れているが、やはり支える者が必要だ」
周瑜は孫静の物静かなものの言い方が妙に気に入っていた。
周瑜の知っているかぎり孫家の男でこのように物腰の穏やかな人物はこの人をおいて他にはいない。

「ではひとつ私がここで得た情報を伯符さまに持って返っていただきましょうか」
「ん?」
「丹陽の山に逃げ込んだ太史慈が山越を平定して砦を占拠しているようです。どうやらそこで勝手に丹陽太守を名乗っているようです」
「あいわかった。伝えるとしよう」
「それから」
「まだあるのか」
「ええ。豫章の華キンですが、先日袁術軍に兵糧をわけて欲しいとの嘆願が参っておりました。これから戦をする余力はないと見ます」
「・・・」
孫静は周瑜の端正な顔をじっと見た。
「おぬしを敵にしなくて良かったと思うぞ。策には天運がついてまわるようだな」
「おそれいります」
軽く頭を下げた周瑜を一瞥して、孫静は咳払いをひとつした。

「で、だ。甥の幼なじみの公瑾としてはなにか策に届けるものはないのか?儂を好きなように使ってもよいのだぞ?」
「あ・・・」
周瑜は突然孫静の様子が変わったのに戸惑った。
まだ幼年だったころのことを思い出す。
孫策の父と共に舒に来た時はこのように気さくに接してくれたものだった。
周瑜は懐から書簡を取り出した。
いつ出そうか、ずっと迷っていたものだった。
「では、お言葉に甘えてこれを・・・」
孫静は周瑜から書簡を受け取った。
「策への書簡か。これにいつ呉へ行くのかが書いてあるというわけだな。今儂に託そうとした事もここに書いてあるのだな」
「はい」
「そうか。わかった、必ず届ける」
「お願いします」

孫静は周瑜の書簡を携えて居巣を去った。周瑜はそれを見送った。
(いよいよ、伯符さまがお発ちになる)
一陣の風が胸に吹き付けた。
炎をまとった熱風だ。
こうなってはぐずぐずしてはいられない。
手始めに江東を統一し、支配下に置く。
目指すのはあくまで中原だ。
そして孫策にはその器は十分にある。
孫静が甥に呼ばれて故郷から出てきたのはその気配を感じ取ったからであろう。
戦が続くことになるだろう。
いかに兵と糧食を補給していくか、それを考えねばならなかった。
「こたびの戦の参軍は幼台殿にお任せするとしよう」
周瑜は口の中で呟いた。
 
 
 

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