(23)名医


 

 
 

孫策は今呉県にいた。
孫静が孫策の呼び出しに応じ、家族を連れて呉へやってきた。
故郷の富春は会稽の浙江沿いにあって、これから戦になれば巻き込まれることは必死だったはずである。
「叔父上!よくおいでくだされました」
孫策は笑顔で孫静を迎えた。
「しばらく見ない間に随分逞しくなったな、策よ」
「叔父上もお元気そうでなによりです」
孫策は自室に孫静を通し、しばらくはそこで語り合った。

「ここへ来る前に居巣へ寄ってきた」
「寄った・・って呉とは方向が逆ではありませんか。わざわざ公瑾に逢いにお出かけになったのですか」
孫策は驚いて言った。
「うむ。船でな。家族を先に呉で降ろしてそのまま居巣まで脚を伸ばしてみた」
「そうですか。あいつは元気そうでしたか?」
孫静は自分の手荷物から書簡を取り出した。
「これを預かってきた」
孫策は孫静から書簡を受け取った。
「あれはまた一段と美しくなっておったな。男とは思えぬ程だ」
孫策はそれをわざと聞き流して、丸めたままの書簡を見つめた。
「叔父上、失礼して、書簡に目を通してもよろしいでしょうか」
「ああ、良いとも。儂も少々疲れた故屋敷に戻らせてもらうとしよう」
「これは気が利きませんで、申し訳有りません。お引き留めしてしまって」
「いや、久しぶりに逢ったのだ。おぬしを放って故郷に引きこもっていた儂を恨んでおるやと思っておった故、安心した」
「何をお言いです。こうして今おいで下さったではありませんか」
「そう言ってもらえるとありがたい。・・・朱治らには少々嫌われておるやも知れぬがな」
孫静は苦笑した。

孫静が去って、孫策は部屋で周瑜からの書簡を読んでいた。
来月には呉へ向かう準備が整う旨そこには書かれていた。
兵と食糧、武器を船で持参するという。
「あいつめ、気を遣いおって・・・身ひとつでくれば良いものを」
そう言いながらも孫策は笑みを絶やさない。
江水と交わる武進まで迎えに行ってやろう。
それまでに丹陽へ行って太史慈を捕獲しよう、とも考えた。
手勢の将を配置して、防衛網を築かねばならない。
書簡には会稽攻略についても触れてあった。
だがそこからは少し目を通しただけであった。
周瑜からの献策は直接本人の口から聞けばよい、そう思っていた。
しかし、華キンが動かない、という情報はありがたかった。
しばらく王朗は朱治に任せ、こちらも軍備を整える必要がある。
呉には山越という無法の勢力があったからだ。

孫策は弟の孫権を呼んだ。
「お呼びですか、兄上」
「まあ、其処へ座れ」
「はい」
孫権は礼儀正しく座って兄の面を見つめた。
「・・・おまえはこれから俺がやろうとしていることがわかっているな?」
「もちろんです」
「おまえももう16だ。そろそろ城をひとつ任せてもよい頃だと思う」
「本当ですか、兄上!」
孫権は飛び上がって喜んだ。
「曲阿の宣城をおまえに預ける。 山越や、まだ劉ヨウの残党らが残ってるだろうからな。副将には周幼平をつけるが、くれぐれも油断するなよ」
「はい!」
孫権は明るい声で返事をし、部屋を辞した。

弟たちはすこしずつ大きくなっている。
孫権は内政に向いている、と思う。
あれが国内を治めるようになれば繁栄するであろう。
領土を広げ、強い軍を作るのは自分の仕事だと思う。
だが、そのあとは孫権や孫匡に任せよう。
そうして己自身は・・・

ふと、胸の中に風がふきぬけるような気がした。

覇王になったら、孤独になるだろう。
そのとき自分には何が残ってるだろうか?

・・・・公瑾。
 

周瑜に逢いたい。
今度あったら、力いっぱい抱きしめよう。

それにしても、なんだか不思議な気持ちだった。
恋しい、と思う気持ちがある。
それとは別に、周瑜がくれば戦がしやすくなる、との思いがある。
周瑜は武勇こそ少ないが兵を動かすのが上手い。
あの知謀と機動力は他に替われる者はいない。
(俺は、あいつを本当は女と思っていないのだろうか)
戦のこと、これから先のこと、屈託なく話せる相手は今となってはそう多くはない。
時々、思いのままをぶちまけたくなる。
父の跡を継いだ今の自分を重荷とは思っていない。
だが、時々少年のころの奔放さを思い出すことがある。
父に憧れ、認められたい、と必死だった頃のこと。
いつも突っ走ってばかりいた自分を抑えていた周瑜は隣にいて、あの美しい顔で心配そうにしていた。

孫堅は、自分の年にはもう父親になっていた。
父は母を愛していた、と思う。
母の妹を側室にしていたことも、孫策には不思議ではなかった。
姉妹が示し合わせて一人の男に嫁いだ気持ちは男である孫策にはわからない。
母とその妹である叔母は仲が良い。
それは父が二人の女に対して真摯だったからだと思う。
だがその父の想いと自分の周瑜への想いは少し違うような気がした。
そんな想いとは裏腹に、孫策に早く妻を、と薦める者も多い。
呉郡へ来て、豪族が自分の娘を差し出そうとすることも多かった。
だが孫策は女に対する思慕というものに無頓着であった。
はっきりいってしまうと、どうでもよかったのだ。
彼らはまだ若く、日の出の勢いの孫策と縁を結びたがったのだったが、ことごとく追い返されたのだった。
張昭などは口うるさいくらい正室を娶れという。
周瑜が女だと知ったら、いったいどのような顔をするであろうか。
想像するだけで可笑しかった。


 
 
 

居巣にいた周瑜は袁術からの呼び出し状を貰っていた。
しかし、それを周瑜は無視した。
予定を少し早めて呉へ戻ることにした。
そうしなければ時勢に対処できなくなりそうだった。

居巣の津でその準備をしていたとき、周瑜は盗賊に襲われている一家を助けた。
父親らしい男は腹を斬られて瀕死であった。
その傷を見たとき、周瑜はもう助からない、と思った。
だが母親やまだ幼い子供を前にしては口をつぐんだ。

「どうかしたかね?おや・・・これはひどい」
馬に乗った一人の初老の男が声をかけてきた。従者らしき青年が一人ついていた。
「あなたは・・・?」
「儂は医者だ。どれ診てあげよう」
男は馬から降りて怪我をしている男の前にしゃがみこんだ。
「うーむ、これは手術をせねばならんな」
「手術?それをすれば助かるというのですか?」周瑜は医者だというその男に聞き返した。
「さよう。しかしここでは無理だ。どこか広い場所に移さないと」
「では私の船の中に運びましょう。他になにか必要なものはありますか?」
周瑜はそう言って、部下に指示を出した。
「では清水と清潔な布をできるだけたくさん用意してくれ」
初老の男はそう言って、従者の青年に皮でできた巾着と箱をもってこさせた。
この男の言う手術、とはどういうものなのか、周瑜は知りたかった。
それで船の一室に同行した。

しばらくして、船室から青い顔をして周瑜がでてきたのを、部下が心配して駆け寄った。
「どうなさいました?大丈夫ですか」
「ああ・・・いや、ちょっと血の匂いに酔ったようだ」
そのあと初老の男が出てきた。
心配顔の家族になにか言って薬のようなものを手渡していた。
「すばらしい手際でしたね。あれが手術というものなのですか」
周瑜は額の汗を手布で拭いながら男に言った。
「あんたはそんななりなのに大したもんだ。大の男でも気持ち悪くてぶったおれてしまうというのに。気丈なものだね」
「あの父親に始めに与えていたあの液体のようなものは何ですか?」
「ああ、あれは麻酔と言ってな、痛みを感じさせなくする薬だ」
「痛みを・・・?」
「うむ。あんな風に腹を切り裂かれたらふつうの人間は痛みの余り死んでしまうだろう?」
「ええ・・しかし、始めてみました。あのような治療の仕方は」
「それはそうだろう。儂が考え出したんだから」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「華佗、元化と申す」
男はそう名乗った。
「華佗・・・・あなたが」
「ほう、儂の名を知っておられる?」
「ええ、どのような病もたちどころに治してしまう名医とうかがっております」
周瑜の言葉を、華佗は軽く笑い飛ばした。
「それは買いかぶりすぎというものだ。儂は病の身体を診るふりをして実は医学の勉強をしているにすぎんのだよ。褒められたものではないさ」
「それでも病を癒された者は皆感謝しておりますよ」
華佗は自分とほぼ同じ高さの目線の周瑜をみた。
「その姿にはなにか事情があるんだろうね?」
周瑜は驚いた。
「何を、急に」
「儂の目はごまかせんよ。これでも人間の骨格からなにから熟知しておるでな」
「・・・・そうですか」
華佗はふっ、と目を細めた。
「心配せんでも誰にも言いはせんよ。そうやって普通にしていればばれたりはせんだろう。だが見る目のある者がいれば隠し仰せるものではないぞ」
「・・・・」
「なにしろ美人だからな」
華佗はそう言って笑った。
「華先生・・・」周瑜は苦笑した。
「そういうおぬしは、どこのどなたかな?」
「申し遅れました。私は周公瑾と申します。この居巣の県長をしております」
「ほう。県長とな。その若さでか!それは大したお人だ。いやこれは失礼を申した。・・この船でどちらにいかれるおつもりかな?」
なにか、問答をしているような気になってきたが、周瑜はそれに正直に答えた。
「呉郡です」
それを聞いて華佗はしばらく考えてから口を開いた。
「それならば儂も船に乗せてもらえんかな。ここまで馬でやってきたがちと尻が痛くなってきてな」
華佗は自分の尻をさすった。
それを見て周瑜はくすくすと笑った。
「いいですとも。華先生はどちらへお越しですか?」
「江南へ渡ろうと思っておったが、江東に立ち寄るのもよいかな」
「しかし、船を出すまでにまだ少し時間がかかりますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、その方がありがたい。今の患者の術後の経過を診ねばならんしな」
華佗は、先ほど手術を済ませた部屋を振り向いた。
「ではその間の宿舎は私がご用意いたしましょう」
 
 
 
 

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