(24)恋慕


 

「丹陽に太史慈がいるとの報告があった」


孫策は話題を変えた。
「ほう。神亭で逢うたあの武者ですな」
韓当が自分の顎髭を撫でながら言った。
「明日にでも立って、ヤツを捕らえたい」
「殿自らお出になるのですか」
呂範は急に姿勢を正して言った。
「ああ。できればまたあいつと手合わせしてみたいと思ってな」
孫策はまた器に酒を注いでそれを飲み干した。
「殿はまことに猛者がお好きと見える」韓当がそう言って笑う。
「女子よりも戦がお好きか」孫河がはやしたてる。
「ああ、戦はいい。勝つか、負けるかしかないからな」
「戦に勝てば女も手に入る。同じではありませんか?」
呂範が口を挟む。
「ふん、俺を許の宦官の孫と一緒にするつもりか」
孫策は鼻で笑った。
 
 

丹陽の山に山越の砦があった。


孫策は一軍を率いてそれを攻略した。
太史慈は縄を掛けられて孫策の前に引き出された。
「おぬし、俺をおぼえているか」
「むろん」
「ほう、俺の名を言って見ろ」
「江東の小覇王、孫伯符」
太史慈がそう答えると、孫策はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「あのときは邪魔が入って残念だった。俺はもう一度おぬしと手合わせしたいと思っていた」
「俺もだ」
「おまえほどの武者がなぜこのような山奥で山賊をしているのだ」
「山賊などではない。山越を平定しているだけだ。・・・それに」
「なんだ?」
「今は仕えるべき主を失っている」
「劉ヨウはおまえたち部下を戦わせておいて逃げだすような立派な主だからな」
孫策は少し同情するように言った。
「・・・・・」
孫策の言葉に太史慈は目を閉じた。

「よし、太史慈の縄を解け」孫策が突然命令した。


「は・・よろしいのですか?」
脇にいた兵がおもわず聞いた。
「早くしろ」
兵はしぶしぶ太史慈の縄を解いた。
「どういうことだ」
太史慈は孫策に向かって、座ったまま訊いた。
孫策は太史慈の前に歩み出て、その目を見ながら言った。
「おぬしは殺すには惜しい。武門の男として、志をもって生きたいとは思わぬか」
太史慈は孫策の男らしい風貌をじっと見つめた。
「俺に仕えよ。俺の大望のためにその力を貸せ、太史慈」
気持ちの良いはっきりした口調で孫策が言うのを太史慈は驚きを込めて見ていた。
「・・・・・俺は」
太史慈は兜を取って自分の脇においた。
「仕えるべき主を誤っていた。己の意志ではなくなりゆきでしか選べなかった。・・・それが己の不運」
そう言ってから彼は姿勢を正し、孫策の前にひれ伏した。
「身に余るお言葉をいただきましたこと、この不祥の身、感激いたしました。あなたこそ、我が運命。この太史子義、仕えるべき主をいま、見いだしました」
「太史慈」
孫策は太史慈の前にしゃがみ込んで彼を立たせた。
「このうえはさっそくお役に立ちたい。劉の敗残兵たちはまだ曲阿から丹陽にかけて潜伏しております。彼らをまとめてわが殿の軍に加えたいと存じます」
「おお、そうか」
「しばしのお時間をいただきたい。必ずや一軍を率いて戻って参ります」
 

「あのような者、信用してよろしかったのですか」
太史慈を送り出してから程普がやってきてそう言った。
「なんだ、徳謀。太史慈は信用できんか」
「先刻まで敵として戦っていた男ですぞ。人間性がどうということではございません。それをあのように人馬と食料を持たせておやりになり・・・」
孫策はははは、と笑った。
「将は将を知る、というものだ。俺は太史慈を信じる。万が一にもヤツが裏切るようなことがあれば、俺の器もその程度のものだということになるな。そんな主はさっさと見捨てた方が身のためだぞ」
「殿・・・!」
それきり、誰も孫策を攻める者はいなかった。
そうして丹陽から戻ると、今度こそ周瑜が戻ってくると言う報せが届いた。

武進まで迎えに行く、という孫策の思いは結局叶わなかった。
呉には山越という反乱分子がいる。野盗なぞも多くなかなかに都は治まっているとは言い難い。
これから会稽を落とそうという時に一軍を率いて孫策が北上したと分かれば、王朗だけでなくそれらの敵に付け入る隙を与えてしまう。
そう周りに説得され、孫策は呉の津まで迎えに出ることにとどめた。
 


陳武は兵舎の前の広場に敷物をしいて座り込み、その上で兵たちに作業をさせていた。
竹を削って、弓を作る。
前の戦で回収した武器を磨きあげる。
兵たちは時間のあるときにこうして武器を自前で作っているのだ。
作業を監督していた陳武は、彼自身も自分の武器の手入れをしていた。

「周公瑾殿が戻られたそうだ」

中庭の回廊を通る武官たちの話が聞こえてきた。


陳武はそれを聞いて、すぐにでも広間へ行きたかったが、仕事を放り出すわけにもいかず、悶々としていた。
しばらくして、回廊から話し声が聞こえた。
少し高い、聞き覚えのある声だった。
陳武は思わずそちらを見た。

(周公瑾殿・・・!)

回廊のむこうから歩いてきた人の塊の中に周瑜を見つけた。


陳武はおぼえず、頬が赤くなるのを感じる。
別れて半年以上経つが、その美貌は色あせることなく、陳武の心の中にあったものと寸分たがわぬ。

「やあ、陳子烈ではないか」


先に声を掛けたのは周瑜の方だった。
陳武は頭を下げた。
「お久しゅうございます」
「元気そうだね。今は兵の監督かい?」
「はい」
「そうか、後ほど広間へ来ると良い。皆と話をしよう」
「は」
そう言い残して行ってしまった。
陳武はそれを見送ってなお、まだ胸の鼓動が治まらなかった。
(・・・俺は、一体どうしてしまったというのだ・・)
周瑜の姿を見ただけで、この有様だ。
陳武は頭を振った。

広間では上座に孫策を据え、その前に半月を描くように数人の武官たちが集まって談笑していた。


孫策の正面には周瑜が座っていた。
陳武はその末席に座した。
まもなく酒が出て、そのまま酒宴になった。
陳武は黙って皆の話を聞きながら酒を飲んでいた。

「・・・で、太史慈を解放したわけですね」


周瑜は少しも赤くなっていない顔で孫策を振り向いた。
「ああ。ところがこれに反対するものも多くてな」
「普通ならそうでしょう」
「おまえはどう思う?」
「私は太史慈と直接逢っていませんから、どちらとも言いかねます。ですが伯符さまがそうおっしゃるのならばそうなのでしょう」
孫策の問いに周瑜はそう答えた。
「案外いい加減なんだな」孫河が横合いから口を出す。
「おや、伯海殿は伯符さまの心眼の正しさをご存じないと見えますね」
「心眼だと?」孫河は意外そうに訊いた。
「公瑾、公瑾」
孫策は酒の器で周瑜を指して笑った。
「俺をそんなに買いかぶるな」
「買いかぶってなどおりません。でなければ私どもはここにこうしていないでしょう?」
「まったく、そのとおり」
周瑜の言い分に同意したのは韓当だった。
「殿は正しく大きな心の目を持っておられる」
そこにいた皆はその言葉に頷いた。
「よせよせ、俺をおだてるな。つけあがって何をしでかすかわからんぞ」
孫策は、ははは、と軽く笑ってまた酒を飲んだ。
「おお、それではもっとおだてて差し上げましょう。伯符さまがこれからなさることといえば江東の平定くらいしかありませんからね。江東といわずに中原全部を平定していただきましょうか」
周瑜の冗談に一同はひとしきり笑った。

陳武の隣に呂蒙が座った。


「なんだ、どうした。あんまり飲んでないじゃないか」
呂蒙はそう言って酒の壷を差し出す。
陳武は器を捧げ持った。
呂蒙がそれに酒をなみなみと注ぐ。
気が付くと、広間にいる人数が増えている。
陳武がそう言うと、呂蒙が答えた。
「今日は公瑾殿が戻られたので、その祝宴だろう。きっとまだまだ人が増えるぞ」
周瑜は昨日、呉の津まで孫策が迎えに行って、今朝一緒に戻ってきたのだった。
おそらく夕べも再会を祝って二人で飲み明かしたのだろう。
戻ってきたばかりの周瑜に孫策は建威中郎将の位と兵馬を授けた。
それに文句をつけた文官などもいたようだが、物資も兵も持って駆けつけた周瑜に対し、何をいう隙もない。

陳武から見ても今夜の孫策はいつになく上機嫌だった。


その孫策と周瑜を見比べては、ため息をつく。
「なんだ、子烈。おまえ公瑾殿と話したいのか」
「い、いやそんな・・・」
「いいからこっちへ来いよ」
陳武は呂蒙に連れられて周瑜の傍に座った。
途端に陳武は顔を真っ赤にしておとなしくなった。
それを見て呂範たちはくすくすと笑った。
「相変わらずだな、子烈は。殿の前だからってそんなに緊張するな」
「は・・・」
「子烈、ほら、公瑾殿の器が空いてるじゃないか」
呂蒙がそう言うので、陳武は慌てて酒瓶を取って周瑜の器に注いだ。
その手が小刻みに震えているのを孫策は見て取った。

酒宴もそろそろお開きになろうとした頃、皆思い思いに引き上げていった。


周瑜も立ち上がったが足元がどうやら怪しい。
その様子を見て孫策は、隣で心配そうに見ていた陳武に言った。
「子烈、おまえはまったく酔っていないようだな。それならば公瑾を部屋まで送って行け」
「は・・某が、ですか」
「ああ、子明もおまえの隣で眠りこけているしな。そいつはそのまま寝かしておけ」
「殿は・・・」
「俺はまだ少し飲み足りない。良ければ公瑾を送ってから戻ってこい」
「はい」
陳武は周瑜に肩を貸すと回廊を歩いていった。

周瑜は酔ってはいたが、まったくつぶれていたわけではなかった。


部屋について、周瑜を牀台に座らせる。
「大丈夫ですか・・・?」
「うん・・・すまないね」
さっきまで赤かった頬がいまは随分白い。
「水をお持ちしましょうか」
「ああ、頼む」
陳武が水を汲みに行っている間、周瑜は髪を束ねる冠を取って衿を少しだけくつろげた。
やがて水差しを持って戻ってきた時、陳武は目をまん丸く見開いて周瑜を見つめた。
呆然としていた、と言った方が良かった。
髪を下ろしているところをはじめて見た。白く細い首筋が眩しい。
前から綺麗な人だと思ってはいたが今は艶っぽさまで身に纏い、陳武は身体の芯が熱くなるのを感じた。
「ありがとう、水を・・・。子烈?どうした?」
周瑜は水差しを持ったまま自分に渡さず呆然と突っ立っている陳武をいぶかしげに見た。
声を掛けられてはっと我に返る。
「す、すみません、水・・」
周瑜は水差しを受け取った。
そして、更に陳武は自分のミスに気が付いた。
「あ、水を注ぐ器を持ってくるのを忘れました・・・」
「ああ、いいよ、別に。水差しから直接飲むから」
いつも、そうだ。
自分はどこか抜けている。
陳武はまただ、と己自身に怒りをおぼえた。
なのに気が利かない、とは怒らないのだ、この人は。
そうされることの方が、自分には響く。
同じ失敗を繰り返せばこの人を失望させてしまう。それが怖い。

水差しに口をつけて水を飲むさまを見ていた。
「もう平気だよ。殿のところへ戻るがいい」周瑜はそう言うと、手をあげて向こうへ行け、という振りをした。
「は、はい…」陳武は返事をしたが、その場を動けなかった。
「子烈?」
字を呼ばれて、反射的に体が動いた。

「……!」

気が付くと陳武は周瑜を抱きしめていた。
周瑜の体はその大きな両腕にすっぽりと納まってしまう。
息ができないほどの強い抱擁だった。
周瑜は一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。
「子烈、苦しい…腕を、離しておくれ」
やっと、そう言った。

すると、我に返ったように、ぱっ、と腕を離し、慌てて周瑜の前にひれ伏した。
「もっ、申し訳有りません!」
周瑜はふう、と一息つくと額を床につけたまま動かない陳武を見やった。
「…自分は…中郎将殿に、なんという無礼を…」
「もういい、子烈。行きなさい」
「は…しかし」
陳武はやっと顔を上げた。赤い顔をしていた。
「いいから行け。私はもう休む」
冷たい言い方だった。
陳武は周瑜が怒っているのだと思った。
何度も謝ってから陳武は周瑜の室を辞した。
周瑜は一人になって寝室へと歩いて行った。
夜着に着替えるとき、ふいに自分の胸に触れてみた。そうして孫策の言葉を思い出していた。

(おまえは男というものに恐れを抱いた事はないのか…今に痛い目を見るぞ)

夜着の前をぴしゃりと閉じて帯を締めた。
「…私は男だ…何を恐れることがある…!」
周瑜はそう自分に言い聞かせた。 



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