(1)帰郷


「母上が…!?」

孫堅が亡くなって、混乱する孫軍にあった周瑜の元に1通の書簡が届けられた。
書簡は叔父の周忠からであった。

それは周瑜の母が亡くなったと言う報せであった。
すぐに舒に戻って来い、という。

周瑜の母はもともと病気がちであった。
父と兄が相次いで亡くなったあとは、女である周瑜を長嗣として育ててきた。
死に目に会えなかった。
それが心残りであった。

しかし、それは父親を失った孫策にも言えることであった。

言い出しにくい。
孫策が嘆き哀しみ、落ちこんでいるところを知っているから。
ようやく落ちついてきたとはいえ、孫策は先日父の遺体をここ曲阿に葬ったばかりであった。
 

「公瑾、いるか?」
曲阿の屋敷で、周瑜に与えられた部屋に孫策が来訪した。
周瑜は書簡を机において、孫策を振りかえった。
「さっきの書簡…おまえの叔父さんからだろ?なんだって?」
周瑜は、孫策の顔を見ながら、少しためらった。
だが、こうなっては言うしかあるまい。
「…母が…亡くなったそうです」
孫策は周瑜の向かいに座りかけて驚いた。
「…!…そうだったのか…で?…おまえ、どうするんだ…?」
「叔父が戻ってこい、というので戻らねばなりません。母の葬儀をして喪に服さねばなりませんし…」
孫策はしばらく周瑜の目をみつめていたが、すぐ逸らした。
「そっか…それはそうだよな…」

行って欲しくない、孫策は全身でそう語っていた。

それがわかるから、つらかった。

「いつ・・・発つんだ」
「・・・荷を整理してすぐに。叔父が迎えをよこす、と」
「・・・・そうか・・・」
「申し訳ありません、伯符さま。これからが大変だという時に・・・」
「いや、いいさ、気にするな。でも・・・喪が明けたら・・戻ってきてくれるよな?」
それへは小さく頷いただけで応えた。
周瑜は孫策がつとめて明るく振る舞っていることが哀しかった。
 

孫策も周瑜も、一つの予感があった。

周瑜を男として育ててきたのは亡くなった母親である。
夫を亡くした後、彼女の心のよりどころであった周瑜の兄までもが若くして死に、彼女の心は崩壊寸前であった。
名家のお姫様であった周瑜の母はたおやかな女性であり、こういった逆境に耐えうる精神を持ち合わせてはいなかった。
その彼女を救ったのはまだ幼い周瑜であった。
周瑜は幼いころから賢く、その容貌もすでにただならぬ美貌を予感させる片鱗を覗かせていた。
その周瑜に兄の面影を求め移し、今日まで男として育てて来た。
その母が亡き今となっては、周瑜が男でありつづける理由はなかった。
本来あるべき華のような娘にもどり、しかるべき所へ輿入れする。
叔父の周忠の腹にはそういうこともあるだろうことは容易に推測できた。

ここで別れたら、もう会えないかもしれない−

10の歳から7年、ずっと傍らにいた。
一緒にいたいが為に、断金の誓をし、周瑜の家に間借りしたり、一緒に従軍したりもした。
それが、離ればなれになるなどと、どうして予想できたであろうか。

しかし、引き留めることはできない。
お互い、顔を見合うことしかできなかった。
一緒にいたいと願っても、お互いの境遇がそれを許さなかった。
 

やがて、その日がやってきた。

馬上の人となった周瑜は、孫策との別れを惜しんだ。
「伯符さま、どうかお元気で」
「ああ、おまえも。達者でな」

孫策は、握った手を放したくはなかった。
だが、もはや時間が迫っていた。

見送る孫策の姿がだんだん遠くなる。
それでも周瑜は振り返っていた。

(あの人の姿をこの目に焼き付けておこう)
周瑜は思った。
 

「行っちまったな」
孫策の隣に寄ってきたのは愈河だった。
「ああ・・・・」うなだれる孫策の背中をぽん、と叩く。
「元気だせよ。おまえがそんなんでどうするよ」
「そうだな・・・」
 

ともかく、孫策にはやらねばならない事が山ほどあった。
たしかに愈河の言うとおり、うなだれている場合ではないのだ。
 
 

舒に戻った周瑜は、懐かしい我が家に足を踏み入れた。
だが、いるべき人がいない屋敷は寂しく、廃れてみえた。

母親の遺体はすでに葬られ、その遺影のみが周瑜を待っていた。

「戻ったか。長旅ご苦労であったな」
屋敷には叔父がいて、周瑜を迎えた。
「はい、叔父上にはご無沙汰しており、申し訳ありませんでした」
周瑜は座敷にあがり、叔父と向かい合って座った。
「ふむ。しばらく見ぬ間に大きくなったな。いくつになった?」
「・・・もうじき18になります」
「18か。もう立派な大人ではないか」
「恐れ入ります」
「・・・しかしおまえの母も頑固であったな。おまえほどの器量をなにも男と偽らなくてもよかったのに」
来たな、と周瑜は思った。
「これからはもう、偽る必要はないのだ、公瑾。女に戻れ、よいな」
「・・・・」
「あのような孫家の息子などについていき、まさかとは思うが何もなかったであろうな?」
「叔父上!」
「輿入れ前の娘は身持ちが堅いのが大事だ。そうでなくては嫁入り先が見つからぬ。成り上がりの孫家の息子など、おまえには釣り合わぬ」
なんという言いぐさであろうか。たしかに家柄からいくと周家に比べ、孫家は格下かもしれない。
しかしそれと孫策個人は別だ。
相変わらずの叔父の権力主義には反吐が出そうだった。

「近く、おまえの縁談相手たちを屋敷に招待することになっておる。おまえを見たら皆驚くであろうな」
「叔父上!そのような・・・まだ、母上が亡くなったばかりだというのに」
「わかっておる。もちろん、喪があけるまでは婚儀は延期するつもりだ。だが、早々に輿入れ先を決めておくのも悪くはあるまい?」
「・・・・・」
「どうした?おまえにふさわしい、名家の若者ばかりを選んである。その中から気に入った者を選べば良い。せいぜい美しく着飾って、もてなしてやれ」

叔父がここまでもう話を進めているとは思わなかった。
まさか、母の危篤を知っていて・・・と疑わざるを得ない。
周忠はいわば本家筋にあたる叔父で、三公と言われる官職のひとつ、大尉を排出した名門の直系である。
有力な豪族との結びつきによってその権力を維持しようとするのは、性といえた。


それにしても。
このまま、見知らぬ男の元へ嫁いで一生を終えるのが自分の運命なのだろうか。
この運命の先に、あの人はいないのだろうか。
 
 



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