(2)懐慕


徐州の牧・陶謙という男が、世間で言われているのとその実像に相違があることを孫策は知っていた。
陶謙は最近になって後漢朝廷から牧を云いつかった男でこのあたりの豪族でもあり、一族の多くが住む曲阿が近いことから以前、孫策は父・孫堅とともに挨拶に赴いたことがあった。
父が長沙に赴任する前で、寿春に住んでいた孫策を連れて行ったのだ。
そのとき、陶謙は父・孫堅に対し、
「江賊あがりの男でもいっぱしの役につくことはできるものよの」
とあざけった。
孫堅はそれに対し、忍耐強く何も言い返さなかったが、孫策は違った。
尊敬する父を侮辱されて黙っている彼ではなかった。
「父上は江賊討伐をしていたのであって、江賊などではありません!」と食ってかかった。
父に制されても陶謙をねめつける孫策のギラギラした目を、陶謙は忘れることができないでいた。

猜疑心の強い陶謙は側近をひっきりなしに替え、少しでも流言が耳に入ろうものなら即刻首を斬った。
そういう人物であった彼はいつしか占トにのめりこむようになった。
占師を抱え、なんでもその占師の言うとおりにした。
戦乱で周りがどんどん荒れていく中陶謙だけが取り残されていく不安を占いによってぬぐい去ろうとしているのだ、とは彼の側近の言葉である。
その占いに、孫策を近づける事は大凶、と出たのだ。

陶謙は、やはり、と思った。
あの野獣のような少年が父の跡を継いだと聞いたときも不快感を露わにした。

一方、父を葬った曲阿にいた孫策は江を越えたところにある江都にいる家族を呼び寄せようとしていた。
なぜなら、徐州牧の陶謙が、父を喪った孫策からの身を寄せたい、との連絡に対し、「その気はない」との返事を返してきたからである。さらに、孫堅が袁術の子飼いの部下であったことから、孫策を袁術の食客とみなし敵対心を露わにした。

「おまえ、なにかやらかしたのか?ここまで嫌われるってよっぽどだぞ」

愈河は不信げに言った。

「何にもしてないって。第一面識なんかほとんどないんだぜ?どうやって嫌われろってんだよ」
誰もが不信に思ったが、こればかりはどうしようもない。
陶謙の元へ行くのをあきらめた孫策は、そのころ、叔父である呉景からの便りをもらっていた。

父の元で戦に功のあった、孫堅の義弟の呉景が袁術の上表により丹陽の太守に任命されたのだ。
「袁術も、少しは責任を感じているらしいな。まあ、殿を焚きつけたのはもともと奴だしな」
愈河の言葉ももっともだ。
ともかく今は呉景のところへ身を寄せることとなった孫策であった。
まずは袁術のところに身を寄せていた呉景や従兄弟の孫賁と合流して未だ丹陽に居座っている、前丹陽太守の周マを討伐し、丹陽に入らねばならない。

「では、お母上たちを私が迎えに参りましょう」
孫策の前に膝をついてそう言ったのは、呂範だった。

呂範、字を子衡。汝南郡の細陽の出身で、美人の妻がいる。
呂範は孫策より9歳年上であった。
もともと袁術配下で県令などをしていたが、最近になって孫策のところへやってきた。
袁術の狭量さにはほとほと愛想がつきていたのだという。
背は高く、容貌もなかなかで、身だしなみには人一倍気を使っているようであった。

「そうか、子衡が行ってくれるか。それは心強い」

「しかし、危険はないか?陶謙は部下に太妃さまを見張らせているかもしれんぞ」
愈河がそう言って心配顔になると、呂範は涼しい顔で応えた。
「そうかもしれませんが、このまま江都にいていただくわけにも参りませんでしょう。ご主君が直接おいでになるよりはマシです」

孫策はこの呂範の言葉に感動した。
「では、子衡、頼む」
しかし、このことが呂範の身を危険に晒すことになろうとはこのとき孫策は思いもよらなかった。
 
 
 

呉景の元へ行くと言うことは、袁術に仕える、ということでもあった。
孫策としては非常に不本意なものになったが、父が太守をしていた長沙を父の死後守ることができなかった非力さに己の未熟さを思い知った。
そんな気持ちを、愈河は見抜いていた。
時々、ふっと孫策の表情が暗くなるのはそのせいだと思った。

「なあ、伯符。今は耐える時なんだってこと、わかってるよな?おまえが袁術なんぞに膝を折るとこなんぞ俺だって本当は見たくない。だけど俺は信じてる。おまえは絶対覇王になるって」
愈河の言葉に、孫策は目を丸くした。
今までそんなこと言ったはことなかった。
「伯海・・・」
「俺は、絶対おまえを裏切ったりしない。安心して良いぞ」
そう言って、愈河は孫策の頭をいつものようにはたいた。
「だから、こういう態度も改める。今日限りだ。俺は、おまえに仕える。命を懸けて、おまえの大望とともに行く」
愈河は孫策の前に膝を折り、礼をとった。

愈家と孫家は縁戚関係にある。
孫堅が兵を挙げた時一緒についてきたのも道理である。
愈河は孫策にとっては兄のような存在であった。
その愈河が自分に対して礼儀を尽くす。
孫策は己の置かれた立場を、改めて認識した。
もう、今までのような甘えた自分でいてはいけないのだ・・・。

「伯海。今日を限りに、孫姓を名乗ることを許す。これまで以上に、俺の力になってくれ」
孫策はそう言って、愈河の手を取った。
愈河はこの申し出に少し驚いたが、やがてにやり、と笑い
「ありがたき幸せ。もちろん、私の力の及ぶ限り全力を尽くします」
と言った。

こうして愈河は孫河と姓を改め、孫家の一員に名を連ねることになった。

しかし孫河は知らなかった。

孫策のふさぎ込んでいる原因の一つが彼の幼なじみであったことを。
 

だから、数日たったある日、急に孫策がいなくなったときは青くなった。
2,3日で戻る、と置き手紙があってもどこへ何をしに行っているのかわからなかったからだった。
 
 
 
 

「これなんかどうかしら?」

色とりどりの衣を取り寄せ、拡げてみせる。
世話を焼いているのは周瑜の姉である。
一度嫁いだが、夫が戦乱に巻き込まれて死亡すると家に戻され、叔父の周異の元へ身を寄せていた。
周瑜の前には衣裳が散乱している。

「・・・・」
興味のなさそうな顔だ、と一見してわかる。

「あのねえ、少しは気を遣って欲しいわね、公瑾」
姉・瑤は溜息をつきながらそう言った。
「・・・すみません、姉上」
口では謝っているが、そこに感情はない。
「ですがそのようなもの、見たくもない」
男装のまま、周瑜は窓の桟に腕をかけて外を見ながら答えた。
「・・・・だって公瑾、どうするの。叔父上がわざわざ求婚者を家に招いてくださるのよ。相手をあなたに選ばせようということじゃないの。そんなこと普通は考えられないわ」
姉の言いたいことはわかる。
名家の女は普通、名のみで顔も知らぬ相手に嫁ぐものなのだ。
これでも叔父は自分に気を遣っているのだろう。

「・・・やっぱり伯符どのが忘れられないの?」
姉がふとその名を口にした。
周瑜はすぐに振り向き、「違います」と否定した。
違わないことはわかっている。
「だけど、忘れなくてはダメよ、公瑾」
姉の言うとおりなのかもしれない、とは思うのだ。
「・・・その、薄紅の」
周瑜は床に拡げられた衣の一枚を指さした。
瑤はそれを手に取った。
「・・そうね、これならよく似合うと思うわ」
 
 

周瑜は叔父の家に車に乗って出かけることになった。
求婚者たちに会うためである。
往来を行く人々が車に乗る周瑜を見て袖を引き合い、噂をしあう。
それほどに、美しい。
「・・・・・?」
ふと、視線を感じて、その美しい顔をあげた。
薄紅の衣裳に身を包み、あでやかな華の簪を差した周瑜はどこから見ても美しい、名家にふさわしい美姫であった。
その目は何かをさがしているかのように辺りを見回していたが、目的を見つけられないと悟ったのか再び俯いた。
そうして車に乗り込むと、使用人に引かれた馬は車を引いて歩き出した。
 

その視線が見つけられなかった瞳がそこにあった。
往来の大勢の人にまぎれて、目立たないよう薄汚れた衣服を身につけた若者は、車に乗った美姫に視線を注いでいた。
彼は少年とはもう言い難い年齢に達していた。
言うまでもなく、それは孫策であった。
お互い離れてまだ半年と経っていないというのに、この変貌ぶりはどうしたことだろう。

つい先日まで隣で笑っていた親友だった。
同時に恋慕の情をも感じていた相手でもあった。

その相手が、女に、なっていた。
周瑜が女であると知った時からこうなるかもしれない、という予感はどこかにあったが、 そうなったらどうなるのだろう、というところまでは考えが及ばないくらい、孫策は子供であった。
目がくらむほどの美しさに、孫策は知らぬ間にある種の独占欲をかき立てられていた。

「・・・・俺は何を期待してきたんだ・・・」
孫策はその場に立ちつくした。
ただ、会いたかった。
一緒に戻ることはできなくても、言葉を交わすだけで良かった。
一人で起っていかねばならない自分に、周瑜の励ましが欲しかったのかもしれない。
 

しかし孫策は自分の知らないものに変貌していたかつての友を見て、寂しさだけを味わった。
すべてが、もう取り戻せない過去になってしまったことを悟った。
 

「・・・さよなら、公瑾」
ゆっくりと遠ざかる車を見送りながらぽつりと呟いた。

「さよなら、だ」

それは自分自身に言い聞かせた言葉だった。
 
 
 
 

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