周忠の屋敷は立派で、かなりの敷地を持っている。いくつかの蔵もその中にはあった。
家の門の前には護衛の私兵が立っていた。
車を降りて家の門をくぐると、叔父が出迎えた。
「おお、来たか。ううむ、実に見事に変身したな。これならば皆競い合っておまえを望むであろう」
叔父は周瑜の美しさに満足したようだった。
「それに」
叔父はちらり、と周瑜に目をやった。
「その姿であればたとえ以前のおまえを見知っていた者がいたとしても別人だと思うであろう。本日よりおまえは邑と名乗るがよい」
「・・・・邑・・・」
その名は周瑜が生まれたときにつけられていた名ではなかったか。
「周瑜という者は消えたのだ」
「・・・・・」
周瑜は広間に案内された。
そこでは数人の男たちがもてなされていた。
「みなさん、お待たせいたしました。私の姪が到着いたしました」
周忠は男達の目の前を周瑜の手を取って通りすぎ、正面に座った自分の斜め後ろに周瑜を座らせた。
男達の方からは感嘆の声が上がった。
「これはなんと美しい」
「まさに江東の名花だ」
周瑜は男達の視線に晒され、顔を上げることができなかった。
「さあ、みなさんに挨拶をしなさい」
叔父に促されるままに男達の前で周瑜は邑と名乗り、礼をした。
そして右端から男たちをひとりずつ紹介された。
その家柄はそうそうたるものであった。
張家、朱家、歩家、陸家、とのいづれも揚州の名門と呼ばれる家柄の御曹司たちである。
「周家にこのような美しい姫がおいでとはこれまでには伺ったこともございませんでしたが・・・」
張家の御曹司、と紹介された男がそう言った。すると隣にいた朱家の者も同意した。
「私も同感ですね。一体どこに隠しておられたのですか」
「いや、実は姪は昔から身体が少々弱くて江南の田舎に預けておったのですがこのような妙齢になったものの、一向に嫁の貰い手がございませんでな。呼び戻した次第です」
叔父の作り話にも一同、納得したようであった。
たしかに、周瑜の美貌であれば近隣の都市まで噂があってもおかしくはない。
「美貌といえば周家には美貌の御曹司がおられたとか。孫軍に仕えていると伺いましたが」
陸家の息子がそう言った。
周瑜は一瞬ぎくり、とした。だが叔父は
「ああ、公瑾のことでしょう。あれには困ったものです。荒くれで成り上がりの孫堅などについていき、周家の名を汚すようなことにならねばよいと思っているのですよ」とすんなり答えた。
周忠は、話をそらせようと、周瑜に琴を披露するように指示した。
侍女に琴を部屋に運ばせると、その白いしなやかな指は艶やかな音色を奏で始めた。
その場にいた全員が聴き入り、演奏が終わってもなお、その余韻を楽しんでいた。
その腕前を素晴らしい、と口々に褒めちぎった。
ひととおり話しに花が咲き、そろそろ彼らが腰を上げ始めた時、皆は一様に周瑜の前に出て、口々に周瑜の美しさを褒め称えた。
その間、周瑜はにこりともせずにいた。
そして、皆別れを惜しむ中それぞれの帰途についた。
別れ際に、陸家の息子が周忠に言った。
「今日はここへ袁家の者は呼んでいないのですね。私は心配です。お嬢さんは大変美しい。そして今日参った彼らの口からそのことは伝わり、いづれ袁術などの耳にも入るでしょう。そうなったら官職などを条件にしてお嬢さんを差し出せと言ってくるやも知れません。そうなったとき、あなたはどうされるおつもりですか?」
周忠は軽く笑って言った。
「だから、急いで嫁がせるのです。いづれの名家に嫁にいったとあれば袁術とてそう簡単にはあれを奪い取ることはできません」
「そうですか。それならば私が一番分があると思って良いのでしょうね。私はこのたび廬江郡太守の養父のもとで県令を任されることになりました」
「おお、それはそれは。ご出世でございますな、陸儁殿」
「ですからここへは日を改めてまた参ります。邑殿にはよしなに」
彼らが帰った後、周瑜は叔父と話し合った。
「どうかな、彼らの中に気に入った者はおったか?」
「・・・・・興味深い話はいろいろと伺えました」
「・・・・おまえはまだ女としての自覚が足りぬようだな。今日おまえは一度も笑わなかった」
叔父の言うとおり、今日の周瑜は訊かれたことに最低限に応えただけで微笑むこともなかった。
「褒似、という伝説の美女の話は知っておるな」
「はい」
「微笑まぬ美女のご機嫌をとるために国を滅ぼした王にならい、おまえのために身も家も滅ぼす者が出てくるやも知れぬぞ」
「・・・・・・」
孫策と一緒だったころはもう少し笑っていたな、と自分で思う。
だが、面白くもないのに笑えはしない。
「もう、やめます・・・私にはこんなこと、できません」
「何を言うか。おまえは!このように美しく生まれついておきながら・・・幸せになろうと思わないのか」
「叔父上のいう幸せは私にとっての幸せとは違います」
「ではおまえのいう幸せとは何だ!?まさかあの孫家の息子の元へいくことではあるまいな!?」
周瑜は言葉に詰まった。
自分の幸せは確かに孫策の元にあった。
だがそこへいく道が閉ざされた今、幸せの意味すら分からなくなっていた。
「すべておまえのためだ。そうだ、先ほどの陸儁殿などはどうか。なかなかの若者だぞ」
周瑜は無言で首を振った。
「では張家の者はどうだ。お身内には清流派の先鋒である張紘殿もおられるとか。おまえも傾倒しておったではないか」
張紘。そしてもう一人の張姓、張昭。周瑜がずっと会ってみたいと思い続けてきた傑物である。
「・・・・張紘には・・・お会いしてみたいと思います」
「そうか!それは喜ぶであろうな。明日にでも使いを出すとしよう」
もう、どうでもいい。
そんな気分だった。
せめて昔から会いたかった人物に会えれば憂さも晴れるかも知れない、とも思うのだった。
「こら!」
背後から叱咤の声がする。
何気なく振り向いて声のする方を見ると、馬が一頭駆けてくるのが見えた。
舒から曲阿方面に向かう街道ぞいにある、小さな池の畔に腰をおろしていたのは駆けてきた青年の年下の主であった。
「やっぱり公瑾に会いにいってたのか!馬鹿!なんだって一人で行動するんだ!危険じゃないか!」
主人を主人とも思わないこの発言をしたのは馬上の孫河であった。
孫策は孫河を見やり、表情のない顔で言った。
「ああ、すまん・・・気をつける」
気のない返事に、孫河は馬を降りて孫策の傍に駆け寄った。
「どうした・・・・なんかあったのか?公瑾に会えなかったとか・・?」
孫河の問いに応えるでもなく、孫策はただぼんやりと池を眺めていた。
「別に・・・・」
「主公」孫河は急に態度を改めた。
「ん」
「主公が呆けて一人旅されている間に呂範が江都へ出発しました」
「・・・・そうか」
「私達も早く丹陽入りせねばなりません」
そのいい方が可笑しくて、孫策はいつもどおりに話せよ、と言った。
「いえ、こういうことは癖をつけませんと、またいつ地がでるやもしれませんから」
といって言葉遣いを改めなかった。
「・・・なあ、伯海」
「はい」
「人は・・・変わるもんなんだな」
孫策の態度から、孫河は舒で周瑜と喧嘩かなにかあって落ち込んでいるのだと思った。
「この世に生を受けている者で変わらぬのものなどありはしません。それはこの世の中と同じです」
「おまえの言葉遣いとおんなじにか?」
孫策は苦笑して孫河を見た。
「それも世の理のうちです。・・・公瑾とは会えたんですか」
「あいつとは、もう会わない」
孫策はきっぱりと言った。
あれほどいつも一緒にいたのに、と孫河は意外な気持ちだった。
「・・・喧嘩でもしたんですか?」
「・・・進むべき道が、違いすぎるんだ。だから会わない」
その意味を孫河は周家の都合だと解釈した。
「勿体ないですね。あれほどの王佐の才を」
「王佐の才、か・・・そうかもしれんな。父上もあいつのことをずいぶん買っていた」
孫策はしばらく遠くの空を見つめていた。
青い、ひたすら青い空だった。
その空に高く白い昼間の月が見えた。
「昼にある月はだれからもありがたいと思われなくて残念だろうな」
「月は夜空にあってこそ輝くものですからね」
「そうだな・・・・」
孫策はふと周瑜に想いを馳せた。
艶やかな衣裳に身を包んだ周瑜はたしかに美しかった。
だけどそれは昼間の月のように場違いな印象しかなかった。
おそらくは周瑜も同じ気持ちであろうと、彼は思う。
こんなにも、恋い焦がれていたとは。
我ながら女々しい、と思う若い主であった。
孫策の胸の内にはこのとき、ひとつの決心が沸き上がってきていた。
そして急に立ち上がり、
「無駄な時間をくった。行くぞ、伯海」
と言って馬の方に歩いていった。
孫河は、首をかしげながらもそれに続いた。
昼間の月を自分の力で夜空に浮かべたい、そう思った。
しかしそれまでにはまだ時間がかかりそうだと思う孫策であった。