広陵の張紘の屋敷についたとき、日は暮れかかっていた。
「あなたが周瑜殿…いや、遠い所をよくおいで下さいました」
周瑜は自分のことを、張紘の甥の許婚者の兄だと名乗った。
もちろん、このときの周瑜は女装などしてはいなかった。
張紘は甥の縁談のことを聞いていたようで、周瑜を快く出迎えてくれた。
周瑜は張紘を見たとき正直驚いた。
噂を聞く限りではもっと年配だと思っていたのだ。
事実、張紘はこのときまだ40になるかならずの壮齢であった。
周瑜は張紘と、書経や礼記など学問の話をして、しばし時を忘れた。
「いや、お若いのにあなたの知識は素晴らしい。このように時を忘れて話をしたのは太学の時以来かもしれませんな」
張紘は茶を周瑜に勧めながら、にこやかにそう言った。
「いいえ、私なぞ、先生に比べればほんの赤子が言葉を覚えたばかりのようなものです。先生の深い知識と見識には言葉もありません」
周瑜は拱手して言った。
「先生はそれほどの秀才を、お役に立てようと思うお方はおられないのですか?聞くところによると、あの何進や太尉の朱儁などからも茂才として招聘されていたと伺いましたが」
茂才、とは州の刺史などの官職にあるものから官吏として推挙される名目のことである。見識者の代名詞のようなものである。
「いや、少々病を得ましてな、静養しておったわけです」
「…病は汚れた気配の満ちた場所では治りにくいどころか、なお悪化しますからね」
張紘はこの周瑜のものの言いように、笑った。
「病を治すためには新しい風を通さねばなりません。そのためには風通しの良い格子窓が必要ですね」
張紘はなおもひとしきり笑うと、こほん、とひとつ咳をした。
「なかなかにあなたは面白いことをおっしゃる。そういうあなたは今どこかに仕えておられるのですかな?」
張紘はちらり、と周瑜の目を覗きこむように見た。
「いえ、今は事情があってどなたにも。しかしお仕えすると決めている方はおります」
「ほう。それはどなたですかな?」
「先年亡くなられた長沙太守・破虜将軍の遺児、孫策様です」
「ほう…孫家のご子息ですか。しかし今だ拠を持たぬはず」
「今はまだ、私と同じ年も若くそうは見えないかもしれませんが、人の上に立つものとしての魅力にあふれ、天賦の才がおありになります。あの方は近い将来、必ず頭角を現すでしょう。そうなったとき、先生のお力をお借りする事はできませんか」
「…それは今はなんともいえぬ事ですな。もしあなたのいうとおりのお方なら不肖のこの身をお預けすることになるでしょうが」
「本当ですか、先生」
「もちろん。そのときあなたがその軍にいれば、という条件付きですがね」
「……」
にこにこと周瑜に笑いかける張紘であったが、彼はもちろん、今の周瑜の事情など知るはずもない。
孫策が起ち、手始めに江東を平定したとき果たして自分はその隣にいるであろうか?
複雑な心境を押し殺したまま、周瑜は「もちろん」とだけ答え茶器に手を伸ばした。
そのときであった。
誰何の声がしたと思うと、回廊を乱暴に歩く音がした。
足音は、周瑜たちのいる部屋の前で止まった。
「子綱殿、急ぎの用なれば、失礼を承知であがらせていただいた。入ってもよろしいか」
張紘はその声で誰だかわかったらしく、周瑜に目配せをした。
「よろしいですかな」
「私は構いません」
「では、お入りなさい」
許しを得て、扉を開けて入ってきたのは壮年の、身なりの良い男であった。
「失礼つかまつる。お客人でありましたか」
「おお、趙c殿。どうなされました」
趙c…
周瑜はすぐに思い至った。広陵太守はたしかそのような名ではなかったか。琅邪の出身だと聞くが。
「張子布殿のことですが」
趙cが発した名に張紘同様、周瑜も反応した。
「どうあっても解放してくれません。こうなれば実力行使しか…しかし軍を動かすとなると諸侯が黙ってはいますまい。お知恵を拝借しに参ったのです」
周瑜にはどうにも話が見えなかった。
そこで、事の次第を張紘に聞きただした。
「張昭殿は実は今陶謙に囚われているのです」
「なんですって!?」周瑜は驚きを隠せなかった。
「張子布殿は徐州牧の陶謙から茂才に推挙されていたのですが、それをお断りになったのですよ。そのことを陶謙に恨まれて捕まってしまい、投獄されているのです。こちらの趙c殿は長年子布殿とは交友があり、その身の返還を求められているのですが…」
「…なんということを…」
「失礼ですが、こちらのお若い方はどなたですかな?」
趙cは周瑜の美しい横顔に目をやった。
周瑜は趙cに向き直った。
「こちらこそ、失礼を致しました。私は周公瑾と申します。舒から張子綱殿にお目にかかるために参りました」
「おお、そうでありましたか、舒の…周家のお方でしたか。私は趙cと申します。不肖ながら広陵の太守をおおせつかっております」
周瑜はそれに頷き、
「あの、今のお話、私にもお手伝いさせていただけませんか」
と申し出た。
「それはありがたい申し出ですが…」
趙cは周瑜のあまりにも若く美しい姿に不安をおぼえて口篭もった。
「張子布殿はどこに囚われているのかご存知ですか?」
「江都からほど近い海陵という城に囚われていると聞きます。ですが、手伝うといってもどうするおつもりなのです?」
「一応、これでも軍人でしたから、私兵くらいは持っております」
趙cは周瑜の顔をまじまじと見つめ、ひとつ思いついたように言った。
「あなたは、もしや、周瑜殿?」
いきなり自分の名を呼ばれて驚いた。
「は…、そうですが、それが何か?」
「そうでしたか!いえ、南陽に義弟がいるもので、孫堅軍の話はよく耳にしていたのです。若いながらになかなか目先の聞く策略家だとか」
「いえ・・・お恥ずかしい限りです」
「それに、目の醒めるような美貌の持ち主だということも…なるほど、一目見たとき、どうして気づかなかったのか」
趙cの目は周瑜の秀麗な美貌に釘づけであった。
「あなたが協力してくださるのならば心強い!どうか、私の兵を使ってください」
周瑜は趙cの差し出した手を握った。
張紘の屋敷に数日泊まることになった周瑜はその間に書簡を何通かしたためた。
そのうちの1通は孫堅軍の主将、韓当にである。
周瑜は思い出していた。
孫堅の部曲が袁術によって召し出され、それまで孫堅の元で戦ってきた歴戦の勇将たちを孫策から引き離すべく各地に駐屯させていったのである。
周瑜は舒に戻ってきてからも、彼らの情勢を把握していた。
そして、江都に近い丹徒には韓当が駐屯しているはずであった。
それから叔父に、しばらくは戻れないことを記して送った。
「…しかし、陶謙か。彼奴はなぜあのように伯符さまを毛嫌いするのであろうか…その意図を確かめるためにも、私が行ったほうがよいだろうな。それに…伯符さまのご家族のことも心配だ」
時を同じくして、丹陽に入った孫河の元に早馬が到着していた。
使者は孫河の見知った者であった。
長距離を寝ずに駆けてきたためか疲弊していたが、特に襲われた様子も無かった。
ねぎらいの言葉をかけるまもなく使者は孫河に報告をした。
「…何…!!」
報告を受けた孫河の顔色が青くなった。
「呂範が…捕らえられただと…!」
その少し前、江都へ孫策の家族を迎えに行った呂範は、部曲を率いて行ったがその屋敷の前で待ち伏せしていた陶謙の部下とでくわした。
「そこをどかれたし。私は元長沙太守・破虜将軍が遺児、孫策様の部下、呂範と申すもの。主君の命あって、ご家族をお迎えに参っただけでござる」
呂範は馬上で堂々とそう言った。
すると、屋敷を取り囲んでいた一隊の隊長らしき男が、1歩前に出て、
「ただ、迎えに来たというならば、なぜにそのような軍を率いておられるのか!ここは陶徐州さまの統治なされる地であるぞ!」
とどやしつけるように言った。
「これはしたり!曲阿からこの江都まで一体何里有ると思われるか!婦女子をお迎えにあがるのに充分な護衛がなければ安心して旅路にもつけぬというもの!ましてここにおわすのは我が主君のご母堂なれば、至極当然のことと存じますぞ」
呂範は大声でそう言い返した。
「く…」
隊長らしき男は困惑したように呂範を見たが、やがて実力行使に出た。
「ええい、構わぬ!こやつらは袁術の密偵だ!捕らえよ!この屋敷は我らが押さえておる!抵抗すれば家族の命はないと思え!」
「くっ!なんたる卑怯!」
呂範は罵倒しながらも抵抗できず、捕まってしまったのである。
この様子を屋敷から見ていた呉夫人とその家族は、なんとかこのことを息子に報せなくてはと思い立った。
孫策のすぐ下の妹、香の婿である弘咨は孫堅が亡くなった折からこの家族と共にいた。
元々孫堅の部下として家族同様に仕えていた武人であるが孫堅に気に入られて長女の婿になった。
「義母上、私が参りましょう。このままでは孫策殿にまで害が及ぶやもしれません」
「おお、婿殿が参られると…しかし危険ではありませぬか」
「私とて武人のはしくれでございますれば」
「弘咨殿、お気をつけて」
呉夫人の隣にいた小柄な少年がそう言った。
孫策の三人の弟のうちの年長である孫権であった。
「仁もまだ、小さいのです。どうか早くお迎えを」
そういって孫権が振り向くとまだ幼い赤子を胸に抱いた女性が微笑み返した。
呉夫人の妹で、孫堅の側室でもある女性である。
「はい、私が出かけている間、仲謀殿に義母上たちをお任せ致します」
弘咨は孫権の前に膝をついた。
「はい!」
孫権は力強く返事をした。