(5)土牢

 

 
 
 

背中が、焼けるように熱い。

腕は・・・動く。
脚も・・・なんとか大丈夫のようだ。

縛られていた手首がひどく痛む・・・ということは、自分はまだ生きているのか。
 

呂範は目をゆっくりと開いた。

土の上にしかれた藁が目に入った。
どうやら自分はうつぶせにその上に寝かされているらしい。

起きあがろうと、腕に力を入れたが、力が入らない。

「く・・・っ」

ぼんやりと思い出した。

(そうだ・・・俺は陶謙の部下に捕まって・・・拷問を受けたんだったな。ああ、ありゃひどい目にあったもんだ・・・)
吊され、鞭棒で幾度も身体を叩かれた。
 

息を吸い込むと胸が痛む。
内蔵をどこかやられたかもしれない。
それにひどく喉が渇いていた。

袁術の密偵と疑われ、何を探っていたのかと拷問にかけられたのだ。
(・・・まあ、元、袁術の配下であることはたしかだが・・それにしても顔は無事か、良かった。ひどい顔にされては妻に離縁されてしまうからな・・・)
呂範は横たわったまま苦笑した。
 

「水を飲むかね?お若いの」
 

その声は隣の房から聞こえてきた。
隣の房とは格子で区切られていて、よおく見れば誰か人がいる。

その人物は水の入った器を格子の間から差し出した。
「かたじけない・・・」
呂範は格子の傍までやっと這いずっていき、器の水に口をつけた。

「ふう・・・すまん。助かった」

「おぬしひどい拷問を受けたようだな。一体何をやらかしたのかね?」

「・・・何にも・・・していない」
呂範は目を凝らした。
格子の奥に壮年の男性がこちらを向いて座っていた。
「あんたこそ・・・何やったんだ?」

「まあ、言ってみればここの主の機嫌を損ねたということかな」
そう言って笑う。
「はっ・・・・面白い人だね、あんた・・・つぅっ・・・」
笑った拍子に背中に激痛が走った。
「無理はせぬようにな。おぬしの背中だいぶ出血しておるぞ」
「・・・ここは・・・どこなんだ?」
「海陵、という城の地下牢だよ。おぬし、袁術の手のものか?」
「・・・・まさか」
「ほう、違うのか。密偵ではないのか?」
「・・・私の主君は孫策様お一人だ・・・・」
「孫策・・・・というと前年亡くなった破虜将軍のご子息のことかな」
「そうだ」
「それは仕方があるまいな。陶謙は孫堅をおそれておった故・・・その息子は父をも凌ぐ虎のような少年だと聞き及ぶ。畏怖しておるのであろう」
呂範は眉をひそめた。
「・・・・あんた、何者だ?」
隣の男は格子越しに笑った。
「ただの書生だよ」
「ふうん・・・」
「孫策殿は今どうしておられるのかな?」
「丹陽に行かれた。私は・・・主君のご家族を迎えに来ただけだ」
「そうか、それで密偵と疑われたのだね。それは災難だったことだ」
呂範は横たわりながら隣の男を注意深く観察した。
年の頃は30代後半くらいだろうか。
身なりは少し薄汚れているが、無位無官の平民のそれではない。
おそらく陶謙の官で、なにか不興を買うようなことでも言ったのであろう。

「・・時に、孫策殿とはどのようなお方かな?」
呂範は背中の疼きに耐えながらそれでも声を振り絞った。
「・・・お父上以上の・・・器でござるよ・・・快活で・・・明るくて・・・」
男は苦痛にゆがむ呂範を見て取った。
「おお、すまなんだ。話すものしんどいのであったな。ここらへんにしておこう」

そのとき、見張り番の兵士の声がした。

「きさまら、なにをくっちゃべっておるか!3日後には陶徐州さまがこちらへおいでになる。そのときにきさまらの処断をする。覚悟しておけよ!」

「あと三日は生きていられるというわけか」
呂範は苦笑した。
 
 
 
 

孫河は弘咨からの報告を孫策に言わなかった。
言えば、おそらく孫策のことだ、自ら助けに行くというだろう。
そんな無茶はさせられない。
「くそっ・・・こんなとき、公瑾がいてくれたら・・・」
あの美貌の少年ならきっとなにか策を思いついてそれを実行できるだろう、と孫河は思った。

今すぐには動けないという事を孫河から聞き、弘咨は気を落とした。
孫河は呂範の残していった残りの部下を彼に与えると、江都へ戻って呂範の部隊と合流してくれ、と言った。
呂範の救出を彼の部下にゆだねようというのだ。

弘咨とて孫河の言うことが正しいのはわかる。
だが、江都でおびえながらすごしている家族のことを思わずにはいられない。
 

ともかくぐずぐずしてはいられない、と思った彼は呂範の残していった部下50人あまりを連れ出立していった。

「すまん・・・許せよ、弘咨」
孫河は一人それを見送った。
 
 
 

弘咨が江都へ入ったとき、街道を反対方向から駆けてくる一騎と遭遇した。

「弘兄殿ではありませんか!」

凛とした声が耳を打つ。
声の主はその声以上に美しい容貌をしていた。

「周・・・公瑾!公瑾殿か!」

お互いに馬を止め、顔を見合う。
「いや、見違えた!また一段と美しくおなりだ!しかしどうしてここに?舒に戻ったと聞いていたが」
「広陵に用があって参ったので伯符さまのご家族にご挨拶をと思いまして」
「そうでしたか。しかし、今はちょっと事情がありまして取りこんでいるのですよ」
周瑜は弘咨の後ろに兵がいるのを見て、ただならぬ気配を感じた。
「・・・何かあったのですか」

弘咨は事の次第を周瑜に話した。

「そのようなことになっていたのですか・・・!」
話し終える頃に、弘咨の後ろにいた兵が口を開いた。
「弘咨殿、我らは主の救出に向かうためにここで別れて海陵へ行きたいと思いますがよろしいでしょうか」
それを聞いた周瑜は驚いた。
「海陵・・・?呂子衡殿は海陵に捕らわれているのですか?」
それに兵らはうなづいた。
周瑜はしばらく何事か考えていたが、やがて口元に笑みを浮かべたかと思うと
「うまくいけば、お二人とも助け出せるかもしれない・・・」
と独り言を言った。
「何だって?」
「いえ、なんでもありません。弘咨殿は伯符様のご家族の元へお戻りください。そしていつでも出立できるように準備をしておいてください。陶謙の見張りにはお気をつけて」
「えっ?・・ああ、いいとも。だが・・・」
「私は彼らと共に海陵へ向かいます」
「えっ?でもあなたには関係のないことでは・・・」
「それが関係なくはないのです。大丈夫、私には広陵太守の協力がありますから」
「ええ?」
「ともかく、そういうことで。ではおまえたち、私についてきなさい。おまえたちの主を助けに行こう」
 
 
 

周瑜は江都から海陵へと伸びる街道を走り抜け、長江沿いの村で馬を降りた。
あたりはもう真っ暗になっていた。
丁度、対岸は丹徒である。 ここからは津があり、対岸へ渡るのにはちょうどよく、江幅が狭いところなのであった。
兵達を村の外に野営させ、周瑜は村の長老の家を訪れた。
「おお、周瑜様。もうおいでになっておりますよ」
周瑜を出迎えたのは村の長老である。長江の民、と呼ばれる漁民たちの村の長であった。
「かたじけない」
周瑜は足早に部屋に入る。

そこには見覚えのある、黒い立派な髯をたくわえた武官が立っていた。
「義公殿,、お久しぶりです」

武官は韓当、字を義公といった。
孫堅のもとで戦ってきた歴戦の勇士である。

「公瑾殿もお元気そうでなによりだ」
「おかげさまで。・・・実は少しばかりまた事情が増えまして」
周瑜は呂範のことを話した。
「なんと、呂子衡殿が・・・。それは一大事でござる」
「ええ、ですから張昭殿を救出するときに呂範殿を探し出してなんとか一緒に脱出させたいのです」
「わかった。やってみよう」
「ありがとうございます」
一礼する周瑜に韓当は目を細めた。
「・・・公瑾殿。こんなことを申しては怒られるかもしれんが・・・」
「は?」
「おぬしはまた、一段と美しくなられたな。その・・・以前より少し顔つきが大人っぽくなったというか・・・」
周瑜はくすり、と笑った。
「義公殿、わたしももうじき18になります。もう子供ではありませんよ」
「いや、これは失礼」
韓当は髯を撫でながら笑った。
「それにしても、なぜ若殿のもとへ戻って差し上げないのか」
「・・・・今私は母の喪中なのです」
「・・・しかしこの大事の折、若殿は一人でも有能な臣が欲しいはず。それがわからぬおぬしでもあるまいに」
「義公殿・・・私には私の事情があるのです。しかし私とて、伯符様のお力になりたいという気持ちにかわりはありません」
「・・・・差しでがましいことを申した。おぬしにはおぬしの考えがあるのであろう。さ、明日は早い。今宵はこちらでやっかいになるゆえおぬしも早く休まれよ」
「・・・ええ」
韓当が一点の曇りもない気持ちで自分に意見してくれていることに対し、秘密をもっていることへの後ろめたさを感じる周瑜であった。
 
 
 

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