(26)奇襲



 

会稽郡太守・王朗には虞翻という配下がいた。
功層の役にある文官の重鎮であるが、この人物、少々変わり者であった。
趣味で占トをするのだが、その卦が良くないと城へ登城してこなかったりする。
ちょうど今は父親がなくなったというので喪中だったのだが、何を思ったか突然登城してきたのだった。

「孫策は浙江を渡って攻めてこようとしておるが、地の利は我にあり、そうそううまくはいかんさ」
王朗はそう言って笑う。
「しかし呉郡太守の許貢は討ち取られ、豫章太守の華キンなどは兵糧不足で援護なぞ期待できませんぞ」
虞翻はそういって釘を刺す。
「おぬしは心配性しすぎるな」王朗はむっとして言った。
「また占いでよからぬ卦が出たとでも申されるのだろう」そう言って笑うのは王朗の部下周マである。もとは丹陽にいたが孫策配下の呉景らに追い払われて王朗を頼ってきたのである。
「占いではござらん。孫策が劉ヨウをうち破ったあの手並みをお聞きになったでしょう。あの江東の暴れ者と戦ってどれほどの勝算があるというのです」
虞翻がそう言うと、王朗はじろりと彼をねめつけた。
「おぬしはそう言うがでは一体どうせよというのか。儂は帝より頂戴した会稽太守の地位を守らねばならん。断じてあのような成り上がりの孫一族なぞに膝は折らんぞ」
王朗は強い口調で言った。
「今の朝廷がどれほどの力を持っているというんです。そんなことより時勢を見極めつつうまく渡っていかねば時代に殺されますぞ」
「虞仲翔!言って良いことと悪いことがあるぞ」王朗は活を入れた。
「太守様、この者は臆病風に吹かれておるようですな。病気が治るまで家で養生させてはいかがか」
周マが言うことに王朗は頷いた。
「そもそもおぬし喪中ではなかったか」
虞翻はこうしてしばし謹慎を言い渡されたのであった。
 
 

孫策軍は浙江を挟んで対岸に陣を構えていた。
これまで朱治が攻めあぐねていた地に本軍が合流したのである。
孫静を参軍に迎え、毎日のように軍議を行っていた。
「これまで2度大きな衝突があったがいづれも浙江の正面からぶつかっている。王朗軍の主力はここだ」
孫策は地図を開いて指さした。
「うむ。浙江は天然の要塞のようなものだ。正面からでは攻めにくい。ここは背後から攻めるのが良かろう」
孫静はそう言って、王朗軍の後ろを指した。
「ふむ」
その地図を見て、孫策は腕組みする。
「皆はどう思う?」
孫策はそこにいた幕僚たちに問う。
「某もその作戦には賛成です」
朱治も同意する。
「別働隊を率いて背後にまわりこみ正面と挟み撃ちにするというのはいかがか?」
黄蓋の言に、
「しかし背後と言っても敵の本隊の数は多いですぞ。こちらもそれなりの数をぶつけなければ」程普が反論する。
「敵の背後にまわり込むとなるとあまり大部隊では気取られますな」韓当が髭をなでながら発言した。
孫策は地図をみながらじっと何事か考えていた。そしてふいに隣りに目をやった。
「おまえはどう思う?公瑾」
皆の目が一斉に周瑜に注がれる。
周瑜は孫策に微笑して言った。
「此度の戦、私の役目はいかに補給線を確保するかでございます。それ以外のことはみなさんにお任せするつもりでおります」
それを聞いて、まわりの幕僚はがっかりした。
だがそれにひらめきを与えられた者が約二名いた。
「そうか、その手があったか」
孫静がぽん、と手を叩いた。
孫策もニヤリとして叔父の顔を見た。
幕僚たちは首をかしげた。
「どういうことでござるか」程普が訊くと孫策は朱治に
「王朗の補給線の要所はどこになるか」と尋ねた。
朱治は、質問の意味を理解して大きく頷き、
「ここです」
地図上の浙江の南岸を示した。
「兵糧の蓄えもここにあるはずです」
「敵の補給線を叩き、兵糧を押さえるのは兵法の基本だ。別働隊を組織し、ここを叩く。これは奇襲だ。行動は隠密に迅速に行わねばならん」孫策はそう言って孫静に向き直った。
「別働隊の指揮、叔父上にお任せしたいが、よろしいか」
「おお、お任せあれ」
「補給が絶たれたとわかれば王朗軍の志気も下がろう。そのときが攻めどきだ。全軍をもって本隊を叩く」
「おお!」
幕僚たちは声をあげた。
「伯符さま」
意気のあがった幕僚たちの背後から、周瑜の声がした。
「なんだ」
水を差されたようで、孫策は少し機嫌を悪くしたようだった。
それに構わず、周瑜は発言した。
「敵の間諜と思われる者がかなりの数、入り込んでいるようです。昨夜も私の配下の者が数名対岸の兵に合図を送っているところを発見し捕らえました」
「間者か」
「それに関しましては、周中郎将殿のおっしゃるとおりです。見張りを多くしておりますがなかなか発見できずにおります」
朱治も顔色を変えていた。
「なんとしても別働隊の動きを察知されてはいかん。なんとか敵の目を欺く方法はないか」
孫策はそう言ってまわりを見渡した。
程普、黄蓋、韓当らはお互いに顔を見合わせた。
「殿、先代の殿が劉表を攻める際、お使いになった策を覚えておられませぬか」
三名が異口同音に言う。
「劉表の・・・・?おお、襄陽攻めの時の火か!」
孫策は手を叩いて思い出した。
「さようでございます」
「夜に火を焚いて敵の目をくらませ、その間に別働隊を動かすのです」
「ふむ。それは上策だ。先日来の雨で飲み水が濁ったために水を沸かせて清水にせよ、とふれを出せ。・・そうだな、ついでにそのせいで我が軍には病人が多数でていることにしよう」
孫策は楽しそうに言った。
「水瓶をたくさん用意して浙江ぞいに並べればよろしいのですね」周瑜が請け負った。
「敵からよく見えるように、でござるな」韓当が言った。
孫策は頷いた。
「公瑾、おまえ今回は高みの見物をしようというつもりらしいがそうはいかんぞ」
孫策が悪戯者らしい笑みをたたえて周瑜を見る。
「おまえも叔父上とともに行き別働隊の遊撃をせよ」
「はい」
「おまえは伏軍だ。わかるな」
「心得ております。補給線を叩いている我が軍の背後にせまる敵の援軍を全滅させればよろしいのですね」
「そうだ」
「殿、それならば私が」程普が言う。
孫策は程普を振り返る。
「ならん。叔父上や公瑾は参軍として本陣にいることになっている故前線にでていなくても敵に不審には思われぬ。が、おぬしら歴戦の将が本隊におらぬのでは敵に怪しまれてしまう。せいぜい本隊の前線で怒号を発して敵を威嚇しておいてもらわねば、な」
程普は孫策の考えが深いことを知って舌をまく思いだった。
 

作戦は速やかに行われた。
大瓶に水を入れ、火を焚いて湯を煮詰める。
その明々とした炎に皆は気を取られているようだ。

「・・公瑾」
「はい」
「策は立派になったな。儂が知っている頃のあやつはまだまだガキで目先のことばかり気を取られがちな暴れん坊だったが、今は見る影もない」
孫静は笑っていった。
周瑜はそれに答えるようにくすり、と笑った。
「ええ、伯符さまはすぐれた才能をお持ちです。それに人を惹きつける魅力もお持ちです。あのような方は他に知りません」
「おぬしと同年で知り合ったのも天の采配というやつだな。あれは人に恵まれておる」
「そう思います」
孫静は周瑜をじっと見つめた。
「・・・策はおぬしをたいそう信頼しておるようだな」
「もったいないことです」
「しかしあれは兄と同じで少々つっぱしるきらいがあるな。自分の足元に穴があいておっても気づかぬだろう。それをうまくおまえが補佐をしているように思う。・・・おまえのような者が兄にもついておればよかったものを」
「いえ。そのようなことは・・」
「別に世辞を言っているわけではないぞ」
「・・・・おそれいります」
孫静は軽く笑って、周瑜の肩をぽん、とひとつ叩いた。
「会稽もおちるのは時間の問題だな」

二日後、秘密裏に準備を進めた孫静らは夜の闇に乗じて進発した。
 
孫静の別働隊は夜中進軍し、明け方近くになって奇襲を開始した。
敵は不意うちをくらってあわてた。
この報せを聞いた王朗はあわてて周マに命じ、援軍を出した。
その援軍を、周瑜の伏軍が横合いから襲う。
まず、弓が雨のように射掛けられた。
「かかったな!愚か者め!」
周瑜が怒声を発したかと思うと、一斉に騎馬と歩兵が襲いかかる。
周瑜は先陣をきって、周マを狙った。
「伯符さまの大望のため、死んでもらう!」
周瑜は槍を構えた。
通りぬけざまに相手の首に一撃を与えた。
確かな手応えがあった。
馬上からふりむきざま周マが落馬するのが見えた。
乱戦の中、落馬した場所に兵が殺到し、ふみにじられていく。
周瑜についていた歩兵が、駆け寄って様子を見る。
「敵の大将の首をとったぞ!!」
その声に、まわりははっとする。
「周中郎将様が、敵の大将を討ち取った!!」
周瑜はそれをきいて頷き、
「周マは私が討ち取った!これ以上無駄な戦はやめよ!降伏して孫軍に従う者はその処遇を今と変わらず保証する!」と大声でふれまわった。
敵兵は次々と戦意を無くし、投降した。
勝敗は決した。
同じ頃、孫静もまた勝利をおさめていた。
 

伝令からの報告で作戦の成功を知った孫策は全軍に指令を出した。
総攻撃。
勢いづいた若い孫策の軍に、もはや対抗するほどの力は王朗には無かった。
前線を見捨てて王朗は手勢のみを率いて逃げようとした。
ちょうど謹慎がとけた虞翻がいた。
王朗は虞翻の言った言葉を思い出して苦い顔をしたが、すぐに翻って逃げる算段を考えよ、という。
虞翻はふかいため息をついたが、
「ま、あなたともここまでご一緒したのも縁です。よろしい、では船を出しましょう」
「ど、どこへ向かうのだ?」
「そうですねえ・・・東治あたりにでも行きましょうか」
なんだか頼りないいい方が気に入らない王朗だったが、しかたなく従う事にした。

一旦、勝利は納めたものの、肝心の王朗を逃がしたのでは話にならない。
孫策は追手をかけた。
呉景、孫賁らを守備におき、自ら船を出して王朗を追いかけた。
「どこまで逃げるつもりでしょう」
周瑜が訊くと、孫策は腕を組みながら水面を見て言った。
「さてな。どこまでだろうが追いかけてやるさ」
「南へ下っていますね。交州まで行くつもりでしょうか」
「だったらついでに交州も平定してくるか」
孫策はそういって大いに笑った。
そんな彼を頼もしいと思う周瑜であった。


虞翻の諌めによって、王朗が孫策に下ったのは船の着先である東治でであった。


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