王朗は虞翻の説得により降伏した。
この討伐には新たに董襲や賀斉らが加わりその実力をみせつけた。
孫策は虞翻を配下に置き、兵を会稽へとって返した。
「伯符さま、・・・わざと私に手柄を立てさせたでしょう」
周瑜は船旅の途上、孫策の居室にきてそう言った。
「何のことだ」
孫策は机に肘をついたまま周瑜を見て言った。
「手柄を立てる立てないはその者の能力次第だと思うがな。俺は適材適所に人事配置しただけだ」
孫策は笑いもせずそう言った。
「会稽に戻ったら景兄の危惧していた厳白虎を討伐する。それで平定したも同然だ」
「厳白虎などたかが野盗のごとき一豪族、恐るに足りません」
「おまえはそう言うが、山越のしつこさを知っているだろう。ほおっておけば後顧の憂いにならんとも限らぬ」
「山越といえば、子烈にはご命令を出されたのですか」
孫策は周瑜の口から陳武の名が出たことに眉をひそめた。
「・・・気になるか?」
「当然でしょう」
「・・・公瑾、手を出せ」
「は?」
急に周瑜は孫策が話しに脈絡のない事を言い出すので驚いた。
「いいから出せ」
「はい・・・」
周瑜は孫策の前にその白い手を差しだした。
孫策はその手に懐から出した竹簡を置いた。
「・・・何です?」
「陳武からだ。本当はおまえに渡さずにおこうと思っていたんだが」
周瑜はそれを紐解いてみた。
「お読みになったのですか?」
周瑜の問いに、孫策はばつの悪そうな顔をした。
「・・・すまん。無礼なことは承知しているが、・・・その、これがおまえ宛の恋文なんぞだったりしたら・・・と思ったらつい、な。許せ」
周瑜はくす、と笑って竹簡を読み始めた。
そこにはせつせつと反省文が綴られていた。しばらくはお目にかかれないので許して欲しい、というので結ばれていた。
読み終わって周瑜の目は細められた。
「あいつの気持ちはわからんでもない。おまえももっと自重しろよ。あまりそばに男を近づけるな」
「そんなこと陣中にいては無理ですよ」周瑜は笑った。
「・・・・厳白虎は呉城にいる。指揮は義公に任せてあるが、陳武もそこへ合流させている。おとすのも時間の問題だな」
「呂子衡殿は海西に遠征中でしたか」
「ああ、陳ウの討伐に出ている。戦勝の報も入っているぞ」
「厳白虎は陳ウにそそのかされたという噂もありますね」
「なんだ?おまえ同情しようというのか?」
「いえ、実は密偵を送り込んでいるのです」
「・・・さすがにぬかりはないな。なにか情報はあったか?」
「厳白虎には厳輿という弟がいるそうです。二人きりの兄弟で、お互いに支え合っているとか」
「ふうん」
孫策は興味がなさそうに答えた。
「弟はかなりの剣の使い手だといいます。なかなかに動きが素早く、会稽郡の反乱勢力をまとめる際、従わない者達100人を斬り捨てたとき、一太刀も浴びなかったとかで」
「ほう」
「しかしこれも自分で言っていることなので信憑性があるかどうかわかりません」
「厳白虎とやらも大したことはないな。弟のみを頼りにするとは」
「まったくです」
孫策が会稽へ戻ったとき呉城は落ちていた。
海西に行っていた呂範も戻ってきて報告した。
「海西に砦があり、そこへ捕虜を四千人ほど収監し、指揮は徐逸に任せております。」
「ふむ。我が軍に下る者はどれくらいいそうか?」
「おそらくは殆どが」
「上出来だ」
ちょうどそこへ呂蒙がやってきた。
「殿、太史子義が戻りました」
やや、頬を紅潮させて弾むように言う。
広間にいた孫策をとりかこむ配下の者たちはざわめいた。
呂蒙はまわりの文官達に対して、「どうだ、殿のいったとおりになっただろう!」と叫びたい気分だった。
「そうか!よし、通せ」
孫策は膝を叩いて立ち上がった。
傍に座っていた周瑜も非常に興味を覚えた。
やがて、太史慈が通され、孫策の前に座る。
「良く戻ったな。待ちかねておったぞ」
「遅くなり、申し訳もございません。旧劉ヨウ配下の残兵約5千を糾合して参りました」
「よくやった!」
孫策は手放しで喜んだ。
周瑜はその様子を見て微笑んだ。
(これが太史慈か・・・)
堂々とした体躯に立派な顎髭をたくわえたいかにも猛者といった感じの武将である。しかし年少の主人に尽くすその礼節さは彼が単なる武のみの者ではないことを伺わせた。
「ついでと申すと変ですが、豫章郡の様子を偵察して参りました」
孫策は大きく頷いて太史慈の話しに耳を傾けた。
豫章太守の華キンは領土を完全に統治できていないこと、あちこちに反乱勢力があること、それらを華キンの力では討伐できないことなどを語った。
孫策はそれらに満足した。
そこで周瑜は初めて口を開いた。
太史慈も周瑜に注視した。
「伯符さま、豫章は後回しにしても大丈夫だということがこれではっきりしました。先に厳白虎を討伐しましょう」
「殿、呉城は韓義公殿が押さえております。まずは入城されて準備を整えるのがよろしいかと存じます」呂範が助言する。
「そうだな」
孫策はそう言って立ち上がった。
孫策は太史慈に官位と兵馬を与えた。
このことは、敵将であっても尽力次第で優遇されるという孫策の度量の広さを示すと共に陣営の方針の見本となった。
孫策が呉城に入城したとき、韓当や蒋欽らが迎えた。
そして間もなく孫策の元へ厳白虎からの使者が来ることを早馬が伝えた。
「おまえたちが散々にうち破ってくれたおかげでどうやらやつは怖じ気づいたようだな」
孫策は高笑いした。
蒋欽の後ろに陳武が控えていた。
「子烈、おまえも力を発揮できたようだな」
「・・・は」
いささか緊張した面もちで答えた。
「陳武の働きは大したものです。あの機動力と戦闘力があってこそ城攻めの不利も覆せたというものです」
韓当もそう言って陳武を褒めた。
陳武は何も言わずそこにいた。
孫策はうすく笑ったがそれ以上なにも言わなかった。
「何、船が浅瀬で座礁した?」
部下からの報告を聞いて周瑜は顔色を変えた。
「はいそれで、後続の積み荷が到着しておりません」
「ふむ・・・それは深刻だな。して、その座礁した船は今どうしている?」
「全員でなんとか軌道を戻そうと必死です」
「なんとか洞庭湖まで持って来れないか」
「船を陸に接岸し、陸上で運搬すれば・・・」
「どれくらいか」
「10日以上はかかります」
「・・・それでは戦にならん」
前線で戦う兵達の食糧や武器は主に長江を渡して船で運搬させていた。
その方が大量の物資を運べるからなのだ。
しかしその物資が事故で遅れるという。
戦の基本に、補給線の確保というのがある。
これが断たれれば兵は餓え、志気は下がり、戦は負けるのである。
先日周瑜が王朗との戦に使った手もこれだった。
「たかが厳白虎ごときに、兵糧が足りぬで負けるなどということは許されない」
周瑜にはそういう思いがある。
「物資を後方の船にうつし、座礁した船を沈めてしまえ」
「は・・・はい」
部下はその思い切りの良い決断に少々びびっていた。
「その間の時間くらいは稼ぐ」
周瑜にはこのときある読みがあった。
「やっと来たか公瑾。どこへ行っていた?」
陳武たちがようやく引き上げようかという時になって現れた周瑜に孫策はそう問う。
周瑜は末席に座す陳武にちら、と視線を送った。
一瞬目があって、陳武は慌てて目を逸らせた。
「補給のことで少々打ち合わせておりました。船が一隻座礁しましたのでこれを沈めますがよろしいでしょうか」
「何、船が?・・・仕方がない。おまえに任せる」
「ありがとうございます」
「今も話していたところだが、厳白虎からの使者がくるそうだ。誰が来ると思うか?」
「・・・弟の厳輿ですか?」
「当たりだ。こいつが持ってくる条件てのは馬鹿馬鹿しくて話しにならんがな」
孫策は肩をすくめながら続けた。
「江東を半分ずつ統治しましょう、だと」
「まったくけしからん話しですな」韓当も少し怒り気味で言う。
「そのとおりです。自分が殿と同等の力をもっているとでも錯覚しておるのでしょう」蒋欽が口を開く。
「公瑾、おまえもそう思うだろう?どうすべきだと思うか」
孫策は案に頬杖をついて周瑜を見た。
「その場で殺しておしまいになるがよいかと存じます」
周瑜はその顔に似合わず苛烈なことを言ってのけた。
その場にいた全員が意外な顔をした。
「・・・珍しいな。おまえがそんなことを言い出すなんて」
孫策は思わずそう口走った。
「そうですか?」
「ああ、おまえのことだからまたなにか謀略を考えているのかと思ったが」
「謀略もなにも、伯符さまに対する無礼を許すわけには参りません」
白皙の面でそう言われて、孫策は少し考え、納得したように言った。
「そうか、そういうことか」
にこりともしない周瑜を見て、孫策は笑った。
「俺も無礼はゆるせんタチだからな」
そして皆の前で立ち上がった。
「俺に逆らうとどんな目に合うか、思い知らせてやる」そう言って広間から出ていった。
残された韓当らも腰を上げた。
そして。
「・・・周中郎将殿」
陳武はやっと声を出した。
呼びかけに周瑜は振り向いた。
「なんだ?」
呼び止められた周瑜をおいて、韓当と蒋欽は出ていった。
「・・・あの、あの時はご無礼を致しました・・・ずっとお許しを願おうと思っておりましたが、なかなか勇気が出ず、あのような竹簡を届けましたことをお許し下さい」
広間はいつしか二人きりになっていた。
(あまり傍に男を近づけるな)
孫策の言葉が蘇り、思わず苦笑する。
「はて・・・あの時のことと竹簡にもあったが、とんと思い出せないのだよ。酒が回っていた故記憶も曖昧でね。なにか、あったかな?」
周瑜はとぼけるように言った。
この返答には陳武もしばし呆然としていた。だがやがてそれが周瑜が自分のしでかしたことを暗に許してくれていると分かって、頭を下げた。
ちょうどそこへ孫策が戻ってきた。
「公瑾、話がある・・・なんだ子烈」
陳武はもう一度深々と頭を下げてその場を立ち去った。
それを見送って、周瑜に向き直る。
「あやつ、何か言っていたか?」
「いえ。あのように謝るので許してやりました。何か?」
「ああ・・・ここでは何だ、俺の室へ行こう」
「おまえ、俺が厳輿を問答無用に斬れば、弟を頼りに思う厳白虎が逃げると思っているのだろう?」
「ご明察でございます」
「兵糧の調達に手間取るからだな?」
「今すぐ戦にならなければよいとは思っております」
「だが、おれは会稽の平定にそれほど時間をかけようとは思ってはおらん。厳白虎だけでなく江東の不服従民を討伐せねばならん。揚州は広い」
「心得ております。それゆえの補給です」
「・・俺がなぜ急ぐのか、わかるか?」
「伯符さまのお心は揚州のみにはないと察します」
「ほう。なぜそう思う」
「お父上の仇を取りたいのでしょう」
孫策は周瑜の表情を押し殺したような顔を見た。
「・・・おまえは本当に俺の心を読むのが上手いな」
そう言って周瑜の肩を抱き寄せた。
「俺とおまえは一心同体のようなものだ。・・・父が亡くなったとき、おまえだけが黙って傍についていてくれた」
周瑜は黙って抱き寄せられた肩のぬくもりを感じていた。
「子供の頃、断金の誓いによって俺とおまえは義兄弟となった」
「はい」
「今もその気持ちには変わりがない。・・・だが時々思うことがある」
孫策は両手で周瑜の両肩を掴んだ。
「おまえはなぜ女なのだ」
「伯符さま・・・!」
面と向かって今更何を、と周瑜は思わずにはいられなかった。
「なぜ、男に生まれなかった」
孫策は真剣そのものだった。
「そんな綺麗な顔をして、俺を拒み続けるのなら、なぜ女などに生まれた?」
孫策の瞳を受け止めかねて、周瑜は顔を背けた。
「・・・・俺はおまえが好きだ。できれば宮の奥深くにしまいこんで誰の目にも触れさせたくない」
周瑜は顔をそむけたまま唇を噛みしめた。
「だがおまえは男として生きる道を選んだ。俺だってできればおまえの意をくんでやりたいと思う。だが・・・時々無性に辛くなる時がある。おまえが他の男といるとわかっているときだ」
周瑜は肩に置かれた孫策の腕に手を触れた。
「伯符さま、落ち着いてください」
「俺は冷静だ」
そう言いながら、孫策は顔を寄せた。
「おまえを友と思うからこそ、我慢しているのだと知れ」
その美しい唇に引き寄せられるように唇を重ねた。
どちらからともなくそっと目を閉じる。
重ねた唇が、熱かった。
再び一つの影が二つに戻ったとき、孫策は静かに口を開いた。
「・・・二人、心を同じくすればその利、金を断つ」
孫策の手が細い顎を持ち上げた。
「同心の言は、その香り蘭の如し、というが、まさにそうだ。おまえといると華の香がする」
たしか易経の一節にあった言葉だったな、と周瑜は思う。
「金蘭の交わり、という言葉がある」
周瑜はうっとりとしばし孫策を見つめた。
「どうだ?断金の誓い、というよりこちらの方が俺達には似合いだと思わないか?」
金蘭の交わり、とは断金の交わりと似たような意味だ。その強い結びつきの二人が言葉を交わす時には蘭の香りが漂うという。
周瑜はそれにこくんと頷いた。
孫策はもう一度唇を重ねた。