呉城を占拠した孫策の元に厳白虎の弟・厳輿が使者として訪れた。
広い謁見の間に通された厳輿は、周囲を孫策麾下の猛将たちに囲まれ、緊張した面もちでいた。
一段と高くなっている上座には兜は取っていたが、鎧姿のままの孫策が座っていた。
ついこの前までそこには兄が座っていたのだった。
厳輿が自分の身分を名乗り、孫策に挨拶の言葉を述べたところまでは良かった。
そのあとの会話は唐突に始まった。
「厳輿、と言ったな。おまえは兄より強いのか」
「は・・何をおっしゃるかと思えばそのようなこと。私は兄を守る役を仰せつかっておりますのでそれなりに腕には自信がありますが、我が兄とそれを比べようなどとは夢にも思ったことはございません」
「ふうん。そういや、おぬしのことは聞いたことがあるぞ。戦に出ても傷を負ったことがないとか。本当か?」
孫策の言葉に厳輿は気をよくしたようで、強張っていた表情が一瞬緩んだ。
「はは、それは私の身のこなしが素早いからです。矢など敵の攻撃の方がよけていきますよ」
「ほう。それはすごいな。敵の攻撃がよけていくと?」
「はい。私には敵の攻撃が見えるのです」
「そうか」
孫策は方頬に笑みを浮かべながら腰の後ろに手を回した。
「それではこれはどうだ?」
言葉と共に、孫策の手は手戟を厳輿に向けて放っていた。
そこにいた幕僚たちは驚き、「あっ」と一瞬声をあげた者もいた。
孫策の放った手戟は厳輿の額を割って突き刺さっていた。
額からおびただしい血を吹き出し、厳輿は一言も発しないままその場に崩れ落ちた。
それを見てから、孫策は
「なんだ、よけられると思ったのにな。嘘はいかんぞ、嘘は」
そう言って笑った。
脇に控えていた周瑜が手で合図すると、すぐに兵がやってきた。
「この者、殿を侮辱した罪により殿自ら成敗なされた。その首を厳白虎のもとへ送りつけてやれ」
周瑜は立ち上がって苛烈にそう言った。
宿将たちは呆気にとられていたが、孫策だけは笑っていた。
広間を後にした周瑜を孫策は部屋に呼びつけた。
「あんまりおまえが厳しいので皆驚いていたようだったな。呂蒙などは怯えていたように見えたぞ」
孫策は笑う。
「・・・笑わないでください。ああでもしなければ文官どもが黙っていませんよ。なにも殺さなくても、と影では言っているでしょうから」
「厳白虎ごときに何を交渉することがあるというのだ。そんなやつは俺の幕僚にはいらん」
「・・・だと良いのですが。ところでなにかお話があるのですか?」
「なんだ。用がなければおまえを呼ぶこともできんのか?」
「いえ・・そうではありませんが」
「なら少しつきあえ」
「はい」
孫策は卓の上に用意していた酒瓶を手に取って周瑜の器に注ぐ。
「いただきます」
周瑜は酒に口をつける。
「補給はどうだ?」
「今のところ問題ありません。揚州を縦断しても足りるくらいは準備させています」
「そうか。さすがだな。だが、次はその仕事は他に回せ。おまえには一軍を任せたい」
「はい」
「できるだけすみやかに江東を平定しなければ、時代の潮流に乗り損ねる」
孫策は卓を挟んで周瑜の目を見つめながら言った。
「曹操ですか」
周瑜の口がその名を放つと、孫策は頷いた。
「帝を擁している以上、曹操には大義名分がある。袁紹とどちらが勝つにしろ俺の前に立ちふさがる大きな壁となるにちがいない」
「漢王室を逆臣の手から取り戻す。これが我らの大義名分になりましょう」
「父もそう言っていた。あの頃の敵は董卓と宦官だったがな」
「もう遠い昔のことのようですね」
周瑜が感慨深げに言った。
「あの頃は俺もおまえもまだ子供だった」
孫策は父が挙兵した時のことを思い出していた。
「・・・おまえが、初めて秘密を俺に打ち明けたときのこと、覚えているか?」
「ええ」
初めて、自分が女だと孫策に告白した日のことは、周瑜はおそらく一生忘れられないだろう、と思った。
「あのときは本当に驚いたぞ」
「そうでしょうね」
周瑜はくすり、と笑った。
「あのときの伯符さまの呆けたようなお顔は忘れられませんよ」
「言ったな。おまえだってあのときは泣きそうな顔をしていたじゃないか」
孫策も笑いながら言った。
「あのときは・・・これが今生の別れかと思ったんですよ」
「おまえ、あのとき、俺に帰って二度と来るな、と言ったものな」
「そりゃあ、そうですよ。・・・もう口もきいて貰えないかと思っていましたから」
孫策は再び周瑜の手にある器に酒を注いだ。
「あのときは少し腹が立ったな。そんなに狭量な男に思われていたのかと」
「常識的なことを言ったまでです。・・・でも・・・あのときは本当に嬉しかった」
周瑜は器のなかの水面を夢でもみるかのように遠い目で見ていた。
「伯符さまはこの酒のように心地よく酔わせてくださるお方です」
孫策は少し赤くなった白い頬をうっとりと見つめた。
「俺は正直、少し後悔している。あのときおまえを親友として認めてしまったことに・・・だ」
「・・・なぜです?」
意外な言葉を放たれて、周瑜は首を傾げた。
「あのときそのまま嫁に貰う約束をしていれば良かったと、今更ながらに口惜しいんだ」
孫策の言葉を、周瑜は冗談と受け取った様子で、とたんに笑い出した。
「それは惜しいことをしました。私は覇王の妻になり損ねたということですね」
お互いの言葉のなかにそれぞれ真実があったことを、二人とも知っていた。
だが口にはしなかった。
「・・・最近、二張が口をそろえて俺に妻を娶れと言ってくるんだ」
笑いがおさまると、孫策は真顔になった。
「それはそうでしょう。・・伯符さまは覇業に向かわれるのです。妻を持って世嗣を残すことは今ですら遅すぎるくらいですから・・・」
「・・・おまえは」
孫策は言葉に詰まった。
「・・・おまえは平気なのか」
周瑜は平然と酒を口に運んでいた。
「おまえは女として俺を好きではないのか?」
孫策は少しイライラして問いかけた。
「・・・・お答えできません」
「なぜだ」
「・・・どうしても、できません」
「俺を好きか、と訊いている。なぜ答えられんのだ?」
周瑜は酒の器を卓に置いた。
「伯符さま、私を女とお思いくださいますな。ここにいる周瑜は伯符さまの忠実な部下なのです」
「おまえには王佐の才があると思う。その才は俺にとって必要である。おまえはその才を持った女だ。だからこそ手に入れたい」
周瑜は目を閉じて首を横に振った。
「・・・いけません。伯符さまにはもっとふさわしい美姫がおりましょう」
周瑜の言葉が終わるか終わらないかの時、孫策は急に立ち上がった。
「なぜだ・・・。なぜ、拒む?俺は・・・!!」
孫策はぎゅ、と拳を握った。
今目の前の女を力づくで犯すことは簡単だ。
だがそれでどうする?
身体だけを奪ったところでどうなる?周瑜は心を閉ざしてしまうだろう。
そして二度と自分を受け入れることはないにちがいない。そういう女だ。
孫策を見つめる周瑜の双眸には不安が見え隠れしていた。
「以前もそうだった・・・おまえは俺が望むときには必ず拒むんだ」
周瑜は目を逸らせた。
「俺にはおまえの本心がわからない。俺がおまえを望むことはいけないことなのか?・・・陸家の男には許しても、俺にはダメなのか?」
「伯符さま・・・!」
孫策の口から陸儁のことが出て驚きを隠せない周瑜であった。
「だってそうじゃないか!あんな軟弱そうな男に肩を抱かれて嬉しそうにしていただろう?!」
孫策は今更昔のことを引っ張り出してきて妬いている自分を滑稽だと思う反面止められなかった。
これでは駄々っ子と同じではないか。
周瑜が呆れている。
「すまん・・・どうかしている。今のことは忘れてくれ」
孫策は額を押さえて言った。
余裕がない。
戦をするより難しいことに直面している、と思った。
陣舎を出る孫策を見送って、周瑜はへなへなと座り込んでしまった。
まだ、胸の鼓動が収まらない。
孫策に気付かれないようにするのに必死だった。
・・・抱かれるかと思った。
あの情熱のままに来られたら、孫策の前にすべてが無防備になってしまっただろう。
そうなってしまったとき、自分は溺れてしまうのではないか。
ただの女になったとき、周瑜公瑾という人間は死ぬのだ。
周瑜はそう思っていた。
女に戻れば楽なのだろう。
でもそれは今まで生きてきた自分をすべて否定することになるのだ。
孫策のために、覇業のために全力を尽くすこと。
それが周瑜の愛し方だった。
「金蘭の交わり、か・・・」
そう呟いてみた。先日孫策が言った言葉だった。
陣舎には自分の影だけが心許なそうに揺らめいていた。
厳輿を一撃のもとに抹殺し、厳白虎を追い払った孫策は、更に揚州の反乱分子を平定しようと出立した。
ぐずぐずしていると、後背を曹操に狙われかねない。
事を急ぐ孫策は軍を分け、各個撃破する事に決めた。
まず鳥程に軍を進め、銭銅、嘉興を征伐した。
その中に王晟という者もいた。
地方の豪族で、成り上がりの孫家に対し、服従しない者達を統率していた。
孫策はその一族を皆殺しにした。
王晟は最後まで孫策に屈しなかった。
それに対し、平定を急ぐ孫策が近隣の豪族たちに畏怖させるために行った措置だった。
この処断は周瑜が不在の時に行われた。
呉城に戻ってきた周瑜はすぐさま孫策に謁見を申し入れた。
「伯符さま、なぜあのような処断をなさったのです」
周瑜の言葉には怒りが隠されていた。
孫策はそらきた、と予想していたような表情で周瑜を見た。
「おまえがそういうだろうことはわかっていた」
「・・・だったらなぜ」
「俺は急いでいると言っただろう。不服従民を無血で従わせるにはこれが一番手っ取り早い方法だったんだ」
「・・お気持ちはわかりますが、このようなやり方では占領地の住民の心を失います」
「・・・母上にも同じことを言われたよ」
孫策はやれやれ、といった仕草をした。
「もう済んでしまったことだ。うだうだ言うな」
孫策は少しだけ不機嫌になった様子だった。
周瑜は座った膝に拳をおいたまま俯いた。
「・・わかりました」
周瑜はそう言うと立ち上がった。
「公瑾。せっかく戻ってきたのに、俺に言うことはそれだけか?」
立ち上がって背を見せようとする周瑜に孫策の言葉が追い掛ける。
「・・・もうしわけありません。これから徴兵の成果を検分にいかねばなりません」
周瑜は振り向きもせずそれだけ言い、「失礼します」と言って部屋を辞した。
出兵に際して、周瑜や韓当、朱治らは江東での募兵を行った。
数万の兵にはなったが、やはり素人の集まりである。
調練を毎日させていたが、一向に効果はあがらなかった。
事態を憂えた主な宿将たちは集まって軍議を行っていた。
「部隊長を呼んで徹底させましょう。成果のでないものは罰すると」
呂範はそう言う。
「しかし、やりすぎはかえって逆効果になるぞ」黄蓋は老練な声でそう言った。
「部隊同士を戦わせ、勝ち残った部隊に褒美を出すというのはいかがなものか?」
「おお、それはよい考えだ、韓義公殿」
韓当の意見に同意する朱治だったが、それらに周瑜は首を振った。
「よい考えだとは思いますが、とてもそのような時間はありません」
「ではどうする」
「兵が弱いので有れば謀略を用いるしかないでしょう。それで戦況をこちらに有利にもってくれば、個人の力量の差など問題ではありますまい」
周瑜はそう言って、周りを見渡す。
「それに呉はやはり長江を制する戦いをしなければなりません。地の利を生かした戦いで有れば自ずと勝機は見えてきます」
「水軍か」
黄蓋が言った。
「そうです」
「しかし江東の平定をしながら水軍を組織し、訓練するというのはなかなかに大変だぞ」
朱治は顎を撫でながら言った。
「しかしやらねば。曹操が南下してきたときに打つ手がなくなります」
「曹操か・・・やつは袁紹とにらみ合っているではないか。戦になったところで今の曹操に勝ち目があるかどうか、わからぬぞ」程普が口を挟む。
「曹操が勝ちます。それはいづれわかることでしょう・・話を戻しましょう。兵力では我が軍は袁術軍をも凌駕しています。数での有利を誇示すれば、敵を圧倒することも可能です」
冷静な周瑜の口調に全員押し黙った。
「袁術軍か」
程普が呟く。
つい先日、皇帝を勝手に僭称していた袁術が曹操らに追われて死んだ。
その強大な兵力を曹操らも狙っているはずであった。
「劉勲がその兵と家族をかくまっているようですな。元々袁術のところの部下だったはずだが・・」孫河が思い出すように言った。
「他を出し抜いてあの袁術軍の兵力は欲しいところだな」
「義公、それは殿もお考えになっておられることだ」程普は韓当に頷いて言った。
周瑜もそれに頷いた。
競争せねばならぬ相手はまだまだ多い。
どの敵と結び、どの敵と戦うか、見定めねばならなかった。