孫策が会稽郡に入ってから、また陣営がにぎやかになった。
武官では全柔、賀斉らの勇猛な武将を、文官では王朗を降伏させた虞翻をはじめ秦松、胡綜らを登用し、いろいろな意味で作戦の展開がしやすくなったのだ。
その中に、ひときわ背の高い武官がいた。
董襲、字を元代という。
賀斉と同じく会稽出身で、陣営に参加してから間もなく賊の討伐などでめざましい戦果をあげ、校尉に任命されていた。
逃げ出した厳白虎を追ってその首級を上げたのは誰であろう、この董襲であった。
周瑜は、彼が船の扱いにも慣れていると聞くと、すぐさま呼んだ。
周瑜の陣舎に入ってくるときも、背の高い彼は入り口で頭を縮めなければならなかった。
陳武もかなり大きいが今のところ、おそらく孫軍で一番背が高いのではないだろうか、と周瑜は思った。
体格もかなりいい。
「お呼びでしょうか、周中郎将殿」
周瑜のはるか頭上から低い声が響く。
「董元代、おぬしに水軍の訓練を任せたいが、どうか」
董襲は少し驚いたような顔をして周瑜を見つめた。
「は・・・水軍ですか」
「そうだ。その身体で泳げないとはいわせんぞ」
周瑜は面白そうに言った。
「は、いえ、大丈夫であります」
董襲は緊張した面持ちで答えた。
「し、しかしなぜ某が選ばれたのでありますか」
「賀斉は会稽の賊に当たらせているし、全柔は都尉としての任がある。おぬしなら適任だと思ったのだ。無論、指揮は私が取る」
「心得ました」
董襲はまた背をかがめて陣舎を出ていった。
入れ替わりに呂蒙がやってきた。
まだ一軍を任される年ではなかった彼は、今だ孫策の側仕えとして従軍している。それでも戦功をあげ、ひとかどの武将の片鱗を見せ始めていた。
「周中郎将殿、張公がお呼びです」
「張子布殿が?すぐに行くとお伝えしておくれ」
周瑜が呼ばれて出向いた張昭の陣舎には、一人のまだ少年と言っていい容貌の青年がいた。
年はまだ10代だろう、幼さの抜けない表情はいくらか緊張していた。
「公瑾殿、忙しいところを呼び立ててすまなんだ。この者を紹介しておきたくてな」
「は・・」
少年は周瑜を見ると、口をぽかん、と開けたままその視線をはずすことをしなかった。
「これ、そのように見ては失礼であろう」
張昭は苦笑しながら少年を戒めた。
「あ、はい・・・す、すみません!」
周瑜は赤面して慌てて顔を伏せた少年に微笑を返してから張昭を見た。
張昭はこほん、とひとつ咳をしてから話をし始めた。
「この者は亡き廬江太守・陸康殿が一子陸公紀という。会稽を尋ねてこられた一族の者が推挙して参ったのを殿が幕下に招いたのだ。年若い故、儂が預かることになった」
「陸績、字を公紀と申します。若輩ながら微力を惜しまず孫家にお仕えする所存でございます」
「・・・・陸績・・・陸家の者か」
「はい」
陸康の子ということは、陸儁の弟か、と周瑜は思った。
あの戦、自分は参加していない。
だから陸儁がどうなったのかは知らない。ただ孫策からは、姿を見なかった、とだけ聞いている。
逃げ延びてくれたのだろうか。
・・・・この少年に聞いてみたい。
しごく個人的なことを聞くのを、周瑜はためらった。
なにかを迷っている、というのを感じ取った張昭は助け船を出した。
「なにか、この者に問いただしたい議でもありますかな?」
「・・・いえ。良いのです」
周瑜は首を横に振った。
(もう過去のことだ。今更詮索してどうなる)
ただ、気になることはある。
もし、なにかの間違いで陸儁が孫家に仕えることになったとしたら?
自分の正体に気付くのではないだろうか。
・・・いや、その前に孫策に殺されるであろう、間違いなく。
孫策はどういうつもりで陸績を幕僚にしたのであろう。
それを問いただしたい。
燭台に灯ったあかりの下で、周瑜は自分の机に地図を広げて食い入るように見ていた。
指でなんども江水の位置をなぞってみた。
「豫章に荊州・・・いや、やはり荊州を押さえねば五分には持っていけないな・・・」
先日帰還した太史慈の持ってきた豫章の情報はありがたかった。
「公瑾、いるか」
陣舎の外から声がかかる。
孫策だ。
周瑜は返事を返し、立ち上がって孫策を迎えた。
「先日の件・・・おまえが気を悪くしてるのではないかと思ってな」
周瑜は孫策に座るよう、胡床を勧めた。
「いえ。伯符さまのお決めになったことです。私ごときが何を言うこともございません」
孫策は胡床に腰掛け、立ったままの周瑜に向かい合った。
「どうも、後味がわるくてな」
「・・・もう済んでしまったことです。お気になさいますな」
「・・・おまえを怒らせた後、ひどく嫌な気分になった。俺はおまえと喧嘩したくない」
孫策の眉がひそめられたのを見て、周瑜は微笑を返した。
「・・・昔から喧嘩になりそうなときには伯符さまがいつも折れてくださいましたね」
孫策はぶすっとした表情でその周瑜を見た。
「おまえが頑固だからだろう」
周瑜はまたくす、と笑った。
「・・・謝りにいらしただけですか?」
「ああ、そうだ。悪いか」
孫策の顔が少年のようなふくれっつらになった。
「ぷっ」
それを見て思わず周瑜は吹き出してしまった。
「あはっ・・はははは」
「なんだよ、そんなに笑うなよ」
孫策は胡床に腰掛けたまま腕組みして更に膨れた。
「す、すみません・・・でも伯符さまがそんなに気にしてらしたんだなって・・・わざわざ謝りにこられるなんて」
「おまえにそんなに大笑いされるとわかっていたら来るんじゃなかった」
孫策はぶすっとして言った。
「あは、は・・すみません、そういうつもりじゃなかったんですけど・・」
周瑜は笑いすぎで目に溜まった涙を拭った。
孫策はじろ、と睨んで口を開いた。
「おまえ、そんな甲高い声で人前で笑うなよ。普段の声は低いくせに、笑うときは女の声に戻るな」
「申し訳有りません・・・気をつけます」思わず周瑜は己の唇を隠すように手を当てた。
「・・・だが俺の前でだけは許す。笑っていいぞ」
「・・・怒られてからそんなことを言われたって、笑えませんよ」
お互いに冗談だとわかってひとしきり笑い合った。
孫策は立ちあがって周瑜の後ろの机の上に広げられた地図を見た。
「何をしていた?」
「伯符様の進むべき道をたどっておりました」
「豫章郡はだいぶ治安が悪化しているらしいな。華キンだけでは抑えられまい」
「子義の話では、各地に反抗勢力があり、それぞれが牽制しあっているということでした。有力な参謀や太守がおらねば一人の刺史の力では無理でございましょう。いっそ分割されてはどうかと考えます」
「おまえもそう言う考えか。ニ張ともそういう話になった」
「二張にご相談なされたのであれば、私の言う事はございません」
「・・・・なあ、公瑾。俺は、天下を取れると思うか?」
孫策は自分の肩口あたりにある周瑜の白い容貌を振り返った。
「なにを今更おっしゃいます。伯符さま以外にどなたにそれが叶いましょうか」
濁すことなくはっきりとそう言ってのける唇を見つめた。
「・・・そうだな。俺のためにおまえが払った犠牲を無駄にはできんな」
「そのようなことは良いのです。伯符さまは伯符さまの思うとおりに覇道をお進みください。私の役目はその道の前と後ろに障害があれば取り除くことでございます」
周瑜の双眸がまっすぐに孫策を射る。
その視線を受け止めて、微笑する。
「・・・俺は急ぎすぎているだろうか・・・?」
周瑜は思わず孫策の袖を掴みそうになった。
「急ぎすぎとは思いません。我が軍には勢いがあります。この勢いにのったまま暴れ回れば良いのです。事実、曹操は伯符さまを恐れている。伯符さまの力を、勢いを、若さを恐れているのです」
黒く濡れたような瞳が一層輝いている。
これは、男の目だ。
この目は戦をしたがっている。
自分を戦場に連れて行けと、あの人馬と土煙と血の匂いの充満する場所へと誘っている。
美しい顔をした、血の女神なのだ。
孫策は密かにそう思った。
そして不敵に笑った。
「ああ・・・暴れ回りたいな。まだまだ足りない」
周瑜はそれを聞いて唇だけを歪めて笑った。
「おまえが敵でなくて、良かった」
「・・・この世のすべてが敵になっても、私は伯符さまと共におります」
周瑜の唇の朱さが目に焼き付いた。
「今日、陸績という若者に会いました」
周瑜は唐突に切り出した。
孫策は瞳だけを動かして周瑜を見た。
「伯符さまが揚州を治められるために陸家を取りこもうというのはわかります。だからといってあのような子供を・・」
「子供だからさ」
孫策は周瑜の言葉を遮って言った。
「子供だから引き込みやすい。それにあれはなかなか優秀な子だ。良い師につけば頭角を現すだろう」
「・・・それで張公にお預けになったのですか」
「文官も数いればいいというものでもない。有能な者が必要な数だけいればいい」
「・・・・」
「おまえ、陸公紀に昔の婚約者のことを尋ねたか?」
周瑜は自分の心を見透かされて驚きを隠せなかった。
「いいえ」
「そうか。俺は聞いているぞ。教えてやろうか?」
「・・・・・」
周瑜は孫策の瞳のなかに青白い炎が燃えるのを見た。
その炎は更に燃え広がり、今にも周瑜を妬き尽くそうとしていた。
「知りたいんだろう?」
孫策が1歩踏み出す。
周瑜が1歩下がる。
「何とか言え」
口調そのものは怒っていないが、孫策が静かに怒っているのは明らかだった。
「いえ・・・」
また1歩踏み出す。
今度は下がらないように腕を掴まれた。
強い力だった。
「・・・もう、過去のことですから・・・」
そう言うのがせいいっぱいだった。
孫策は周瑜の過去に嫉妬しているのだ。それを自分が思い出させてしまったことを周瑜は悔やんだ。
その強い腕で引き寄せられ、間近に孫策の顔を見ることになった。
引き締まった少し薄い唇が、今にも呪詛の言葉を吐くのではないかと周瑜は恐れた。
「・・・・あの男に抱かれたりはしていないだろうな?」
「・・・は?」
少し、間の抜けた声を出した、と周瑜は自覚した。
「おまえの婚約者だったあの男だ」
「・・・伯符さま」
周瑜はあまりのことに呆然となった。
「・・・そんな心配をしていらしたのですか・・・」
「あたりまえだろう」
「そんなこと・・・・」
周瑜は吹き出した。と、同時に緊張していた面が一気に崩れた。
「私に触れることができるのは伯符さまだけです」
「・・・・本当か?」
「嘘をついてどうなるんです。別に私はあの方の妻になった憶えはありませんよ」
孫策は周瑜を引き寄せていた腕の力を抜いた。
「・・・ならいい。ずっと気になっていただけだ」
「伯符さまは余計なことを気にし過ぎです」
周瑜は苦笑した。
孫策は少し苛立ちを覚えた。
女の姿をした周瑜のあの美しさ。自覚がないのだろうか。
あれを見て放って置ける男などいはしない。心配して当然ではないか。
いろいろいいたい事をぐっと呑みこんで、孫策は自分の胸に周瑜を抱き寄せた。
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