(30) 嘆息


 

自分は、何の為にここにいるのだろう?

陸遜は広間へと行く回廊の途中で考えていた。
となりを歩く呂蒙がなにか武具のことで話しをしているが、陸遜はそれを聞いている風で軽く受け流していた。
 

広間に行ったとき、すでに酒宴は始まっていた。楽隊が演奏を始めており、主な武将がそこに集まって談笑していた。
大きな酒樽がひとつ空になって、新しい樽が運び込まれてきていたところだった。

少し、空気がよどんでいる、と陸遜は思った。
立ちのぼる酒の匂い。酒の飲めぬ武将は殆どいない。いたら、この匂いだけで酔ってしまうかもしれない。
座の末席に座ると、将兵が酒と器を運んできた。
上座を見ると、周瑜がいた。
本当に飲んでいるのだろうかと思うくらい、顔が白かった。
酒を飲む仕草が上品だった。
周瑜は決して大声で笑ったりしない。そういうところを、少なくとも陸遜は一度も見ていない。

「・・・まただ」
「?なにが?」
呂蒙はふいに陸遜が口走ったことの意味がわからずに訊いた。
「・・あ、いえ。・・・・周都督のことです」
陸遜は杯を口に運ぶ仕種を途中でとめて前方の周瑜を見ていた。
「どうした?」
呂蒙がそちらへと視線を走らせる。

「都督が・・・どうかしたか?」
「さっきからああして時々、遠い目をされるんです。・・このまえ、話をしてくださった時もそうだった・・・」
「・・・ああ」
呂蒙は少し、哀しそうな表情になった。
陸遜は呂蒙を見つめた。
呂蒙という人は自分を推挙してくれた人で、その実直な人柄で孫権にも好かれている。
裏表がなく、性格もまっすぐで信頼に値する人物だと思う。
その呂蒙がこんな表情をするのは滅多にない。なにか心当たりがあるのだ。
「・・・・なにかご存知なんですか?」
陸遜は多少不安になりながら訊いた。

呂蒙はそれには答えずに酒の杯を呷った。

聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。
まだ、それほど気を許してもらっていないのだろうか、とも思い、少しだけ寂しく思った。

周瑜の周りにはなにかいつも張りつめた緊張感が存在する。
その正体が何なのか、陸遜には見当もつかなかった。

そのうちに、誰かが烏林での曹操軍との戦いの話をし出した。
あのとき周瑜が烏林の南岸の絶壁を見て赤壁、と言ったのを誰かが聞いていて、孫軍ではそれ以来あの場所を赤壁と呼んでいた。
陸遜もあの戦いには陸軍章威校尉として参加していた。
水軍ではなかったので直接周瑜から指揮を受けることはなかった。
だが、端で見ていてもあの戦いは凄かった。
すべての動きを見、読み、そして勝利した。天の理、地の利を味方につけるとはあのことを言うのだろう。
曹操軍を追ったあの時、手が震える気がした。だれも予想し得なかった勝利を、自らの手でもぎ取ったのだ。
あの勝利は歴史的なものになるであろう。

赤壁でみた周瑜の采配と手腕は見事だった。
あんな大きな戦で勝ちをあげてみたい。
陸家とは別に、一人の武人として、戦果をあげたい。
陸遜はそう思った。
まだ年の若い、たかだか地方の山越討伐で名をあげたにすぎない自分を取りたててくれた孫権には感謝し
ている。
だが、陸遜はその裏には揚州の豪族である己の一門の陸家への「媚び」を痛烈に感じていた。
だからこそ、だ。

実力で認められたい。
孫家に媚びないために。
考える度、陸遜は自分のなかに流れる武人としての血が騒ぎ出すのを感じた。
目が離せなかった。
なぜか、その仕草、表情、話すこと、すべてを今心に刻んでおかなければならない、と思った。

まだ医師にかかっている。
毒を盛られたのは完治したが、体調が思わしくない、とは聞いている。南郡での戦いで負傷したことも遠因かもしれなかった。
今日の酒宴はそれを払拭するために周瑜が開いたという感じに受け取れた。

「あっ・・・」
思わず陸遜が声をあげた。
呂蒙が振り返る。
誰かの酒の器が床に落ちた音がする。

「都督!」
そこにいた武将達が立ち上がる。
すぐ側に控えていた徐盛が、周瑜の身体を受け止めていた。

「ああ・・すまない。少し酔ったようだ。気にしないでおまえたちは続けてくれ」
「大丈夫ですか?」
あっという間に周瑜のまわりに人が集まった。
今外からこの場に矢を射かける者がいたとして、その矢は絶対に周瑜には当たらないだろう強固な人の壁が出来ていた。

周瑜は酔ったからという理由で席を立つと徐盛が後を追うようにして出ていった。
残った者達は一様に周瑜を心配していたが、呂蒙が声を出すと、元通りに皆また飲み始めた。
呂蒙は皆に信頼される武将に成長していたのだ。

「大丈夫でしょうか」
「・・・酔っただけだろう。文嚮がついて行ったし、大丈夫だ」
「酔っているようには見えませんでした」
「・・・お疲れなのだろう、きっと。まあ、いいじゃないか都督もああ言ってくださったんだし。飲もう」
「はい・・」

やはり、悪いのだろうか。
しかし今あの人に倒れられたら、孫軍はガタガタになる。
陸遜の心配を読みとったようで、呂蒙が声をかけた。
「心配するな」
「・・・・はい」

酒の味がわからない。
なにかが不安をかき立てる。
劉備軍とは今事を構えてはいないし、曹操も国境の小競り合いを覗いては今しばらくはおとなしくしているだろう。
周瑜が病を癒していられるのも今のうちなのだ。
だが一端戦が始まればそうはいっていられない。
必ず前線に出ていこうとするに違いない。そうなると誰ももう止められない。

陸遜は救いを求めるように呂蒙を見た。
呂蒙は何事もなかったように酒を飲んで、隣りの武将と談笑していた。

ここへ来て、周瑜はよく自分と話をしてくれた。
知れば知るほど、話せば話すほど、魅力的な人物だと思った。
密かに陸遜は周瑜と二人きりでいると、その美しさ故に時々錯覚することもあった。
女性と見まごうほどに美しい人だと常々思う。

従兄弟の陸績は孫権の幕僚として実力を発揮している。
後見人として張昭がついていたおかげもある。
その陸績が言っていたことをふと思い出した。
 
 
 

「本当に天からいくつもの才能を恵まれる人というのは存在するのですね」
 

張昭の陣舎にいた陸績は臆面もなくそう言った。

それを聞いた周瑜は苦笑した。
「まだ子供の言うことだ。不躾を許してやってくれ」
張昭がそう取りなすと、陸績はまた恥じ入った。
「陸公紀はどうやらおぬしに一目惚れをしたようだな」
そう言って笑うと、陸績は必死になってそれを否定する。
その顔もほのかに赤らんでいる。

微笑ひとつを残してやって、周瑜は張昭に真顔で向き直った。
「豫章の華キンの件でご意見を伺いたく参りました」
張昭は胡床に座り直した。
「実はな、王朗のところにいた虞翻をやろうと思っておる」
虞翻、字を仲翔。先だって王朗を追い掛けたとき、降伏を勧めた幕僚の一人だ。
「華キンに降伏を勧めるのですか」
「こちらも戦力が充実してきたとはいえ、そうそう力を分散させるのは得策ではなかろう?」
「おっしゃるとおりです」
「虞翻という男は屁理屈を言わせたら右に出る者はおらん」
張昭は真顔で言った。
周瑜はクス、と笑った。
「わかりました。では護衛をつけさせましょう」
「頼む」
「時に伯符さまはどちらにおいででしょうか?」
「その虞翻と部屋で碁を打っておるよ。のんきなものだ。おぬしからも言ってくれ。いい加減正室を持つように、と」
張昭の言葉に、一瞬胸がつまった。が、顔では笑っていた。
 

孫策の部屋へ行く途中、周瑜は魯粛に呼び止められた。
魯粛は母の葬儀を済ませ、先日やっと孫策に目通りしたばかりであった。
「子敬殿。殿のところへ行かれていたのですか?」
「今し方まで。今後のことをいろいろとお話させていただいた。・・・少し時間はあるか?」
「ええ」
魯粛と周瑜は回廊に面した部屋へと入った。

「ここへ来る前に劉曄がまた会いにきたよ」
「・・・説得に、ですか?」
「そうだ。劉曄は廬江へ行くと言っていた」
「廬江へ・・・?」
「劉勲のところへだ」
「・・・・!」
劉勲は亡くなった袁術の部下で、袁術の残した大軍を引き継いでいる。
皆、その軍が欲しくて劉勲に誘いを掛けているのだ。
「劉曄は自分の軍も劉勲に預けていると聞きました。もしかしてそれをエサに誘いを掛けようとしているのでしょうか」
「劉曄の後ろには曹操がいる」
「・・・そうでしょうね」
「今曹操に力をつけさせるわけにはいかないだろう」
「そのことを殿に申し上げたのですか」
「ええ。なにかお考えがあるようにみえた。なにをされるのか、楽しみだよ」
そういって微笑む魯粛の帯の袂になにか細工の細かいものがついているのを見た。
「それは・・・?」
「あ、いやこれは・・・ふふ。先ほど呉の城下で職人から買い求めた簪だよ」
「簪?」
「この度こちらへ来るに当たって妻をもらってな。これは妻への手土産にしようかと思い買いもとめたのだよ」
「ほう。それはおめでたい話ですね。私とあなたの仲で水くさい。ひとことおっしゃってくだされば良いものを」
「はは、それもなにやら照れくさくてね。だからもう祝いはいらないよ」
周瑜は恥ずかしそうに笑う魯粛を微笑んで見つめた。
「時に、おぬしは妻を娶らぬのか?」
「はは、急に何を」
「おぬしならばどのような女子でも望みのままであろうに」
「私のことよりも殿の方が先でしょう」
「・・そういえばそうだな」
周瑜は言ってから自分の言葉を胸の中で反芻した。
(妻、か)

「おおそうだ。ユ城に音に聞こえた美女がおるというな。おぬしも聞いたことが有ろう?」
魯粛が言う美女に周瑜も思い当たった。
「江東の二喬、ですか」
「おお、殿にふさわしい美女だとは思う」
周瑜はふ、と薄く笑って言った。
「それとなく殿にも言っておきましょう。劉勲を攻めるならユ城を抜きますから」

魯粛と別れて周瑜は少し足取りが重くなった気がした。
(伯符さまに妻を娶れ、と言わねばならないのか、この私の口から)

怒るだろうか。
自分が望まれていたのを知りながら退けた。
その自分が他の女を妻にしろと言う。
言い訳を考えねばならない。
しかし、いつかはそうせねばならないのだ。自分は妻になれないのだから。
それ相応の美女ならば、あきらめがつく。
周瑜とて同じ女であれば、孫策の妻になる女の容姿が多少は気になるのである。

自分に嘘をついて知らないふりをしてきたが、今こうしてまだ見も知らぬ女に嫉妬している自分がいることに気付いた。
「なんという運命なのか」
思わずひとりごちた。
恋など知らなかった昔に戻れたらどんなに楽だろう。
だが、好きなのだ。
女として。
 

もう日が落ちかかっている。
酒でも飲めばいくらかマシだろう。
周瑜はそう思いながらも深いため息をついて孫策の部屋へと向かった。
 
 
 
 

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