（３２） 虞翻

�ﾕ城で孫策と周瑜は江東の名花と名高い二人の美女を手に入れた。
それとほぼ同時に、袁術配下の兵も手に入れた。
袁術の家族もそのなかに交じっており、孫策は呉へと家族を引き取ってやることにした。
孫策が周瑜を呼んで、ちょうどそれを話していた時のことだった。

「兄上」
甲冑姿の若武者が、孫策の謁見の間に上がってきた。
「なんだ、権。どうした？」
孫策は弟の孫権を今回の劉勲討伐に参加させていた。
事実上の初陣とも言える。
孫策自身の初陣にくらべるといささか地味な印象ではあった、と脇に控える周瑜はその兄弟を見比べてこっそりとそう思った。
「兄上の保護された袁術の家族のなかに娘がおりましたね」
「ああ」
「あの娘、兄上の後宮にお入れになりますでしょうか」
孫権は真面目な顔でそう訊いた。
孫策は思ってもみないことを言われて、目を丸くした。
周瑜もまったく同じで、二人は目を見合わせた。
第一孫策は後宮など持ってもいなかった。
やがて孫策は意をえたりとばかり、笑い出した。
「なんだ、権。あの娘が気に入ったか」
孫権の頬にさっと赤みがさした。
「兄上は先頃江東の名花を手中にされました。あの名花にはかなうべくもありませんが、もし兄上がお望みならば、諦めもつきます。ですがそうでないのなら・・・」
 

孫権が袁術の娘・馨芳を初めて見たのは�ﾕの城の一室であった。
孫策軍の攻勢に、なすすべもなく降伏し、留守を預かっていた李術が開城したため、あっという間に決着がついてしまった。
孫権の軍は後詰めであった。
城の中をくまなく探索しているとき、母親や侍女たちと肩を寄せ合って震えている少女を見つけた。
孫策は一切の略奪行為を禁止していたが、彼女らにそれがわかろうはずもない。
孫権が近づくと、少女はがたがたと震えた。
色の白い、美しい少女だった。
「大丈夫、何もしない」
孫権はできるだけ優しげに言ってやった。
見つめていると、少女の大きな黒曜の瞳から水晶のような涙がぽつり、と流れ落ちた。
孫権は驚いてそれを見つめた。
女性の涙をみたのは物心ついてから初めてのことだった。
そして、その愛らしい唇から発せられたその顔にふさわしい高い声が、かすれるように言葉を紡いだ。
「どうか私達をお助けくださいませ」
「大丈夫、悪いようにはしない。私は孫仲謀と申す。あなた方は孫将軍が保護してくれる。安心されよ」
安心させるためにかけた言葉であったが、孫権を見つめるその大きな瞳に、彼はある決心をしたのだった。
「私は兄に申し出て、あなたを貰い受ける。あなたの生きる最良の道だと思うが、どうか？」
少女は目に涙を溜めたまま、こくん、と頷いた。
少女の意志はどうあれ、彼女にはもはや選択の余地はなかった。自分が目の前の武将に見初められたのだということだけが確かな事実として彼女の意識に刻まれた。
 
 

「わかった。おまえにあの娘を娶せてやろう。好きにするがよい」
「ありがとうございます、兄上」
孫権は孫策に礼を言い、そのまま下がった。

それを見送って、孫策は周瑜を見た。
周瑜も孫権を見送っていた。
「権ももう１７になる。妻を持ってもいい年だ」
孫策がそう言うと周瑜は口の中で笑う。
「そうですね、兄君もようやくご正室を持たれましたことですし」
孫策は苦笑して周瑜を見つめた。
「本当なら俺ももっと早くにしていただろうさ」
「・・・伯符さまのご恩義、私は忘れません」
周瑜は孫策を見返しながらそう言った。
自分を女と知りながらも、以前と変わらぬ態度で接してくれる彼に今更ながら周瑜は感謝していた。
奪おうと思えばいつでもできたはずであった。
彼はいまや江東の一大勢力の君主なのである。
「・・・おまえの苦労もわかるからな。それに優秀な参謀がまだまだ足りない。当分はおまえに頼ることになりそうだ」
「命あるかぎり、お役に立つつもりです」
「おう。正室という立場ではできぬことをやってみせろ」
周瑜は、含みのある言い方だと思ったが何も言わなかった。
 
 

誘導作戦に成功し、�ﾕを抜いた孫策によって劉勲は西塞山へと敗走した。

「伯符さま、劉勲は西塞山に陣を置き、黄祖に援軍を要請した模様です」
周瑜の放った密偵によりその報告はもたらされた。
「よし、援軍がくるまえに劉勲をたたく！出陣するぞ！」
程普、黄蓋、韓当、朱治らを先陣に孫策は西塞山の劉勲めがけて進軍した。

このとき、周瑜は孫策と別行動を取っていた。
孫賁、孫輔と共に豫章郡に向かっていた。
張昭が送り込んだ虞翻が豫章太守・華キンの元へと降伏を勧めに出かけていったのを護衛するためでもあった。
その日の朝華キンに会って話をした虞翻だったが、昼過ぎには決着がついていた。

「降伏するそうですよ」
虞翻は陣に戻ってきて周瑜にそう言った。
孫賁と孫輔も同席していた。
「ごくろうさまでした」
周瑜はねぎらいの言葉を掛けながら、胡床に座るよう虞翻に勧めた。
虞翻は腰を落ち着けると、三人の顔を見ながら言った。
「その代わりひとつだけ約束をしました。盧陵太守を勝手に名乗って居座っている僮芝という賊を退治してやると」
虞翻は平然とそう言ってのけた。
盧陵というのは、豫章郡の南に位置する場所のことである。
「殿に黙ってそのような勝手なことを！」
孫賁は虞翻を睨んで言った。
「この交渉は私が一任されているんですよ。それに素早く交渉するにはなにか条件が必ず必要です」
「おぬしはそれで良いだろうが、実戦するのは我らなのだぞ！？」
「まあ、良いではありませんか、伯陽殿」
周瑜は立ち上がって険悪になりそうな二人の会話に入り込んだ。
「豫章は大きい。豫章を盧陵と分割して統治するのがおそらく望ましいでしょう。張公もそうおっしゃられていました。そのためには盧陵を平定するに越したことはありません。機会を待って、僮芝を攻めましょう」
「うう・・・」
周瑜の仲裁に虞翻は笑い、孫賁は複雑な顔をした。
「伯陽殿、華キンが降伏したとなった今、豫章を分割して国儀殿とで太守を務めていただくのがよいかと、ここへ来る前に張公、伯符さまとも話しておりました。仲翔殿にはその報せを持って本陣の伯符さまの元へお戻りください。おそらくすぐにお二方の位階について使いが来ると思います」
「そ、そうか」
孫賁は周瑜の弁を聞いていくらか気持ちを取り直したようだった。
「兄上、そういうことならば、軍をまとめておかねばなりませんね」
孫輔が言う。
「ああ、そうだな。公瑾殿、僮芝とやらの兵はどれくらいであろうか。本営に援軍の要請をしたほうが良いか？」
「兵力だけならほぼ互角かと」
ちょうどそのとき、陣の入り口で伝令兵が周瑜に用事があると言って駆けつけてきた。
「通せ」
周瑜は天幕の中に兵を通した。
「報告せよ」
「は」
周瑜たち四人を前に、兵は盧陵太守を名乗る僮芝が今現在病にかかってふせっている、という報告をした。
「間違いはないのだな？」
「は。城の侍女に金を掴ませてしゃべらせました。それを裏付ける証拠に、僮芝自身が盧陵中の名医を探し出してきてつれてこい、とのふれを町々に出しています。そのせいか城内はやけにざわついておりました」
「よし、わかった。行け」
兵は報告し終わり、低頭して陣を出ていった。
報告を受けてから最初に口を開いたのは孫輔だった。
「今の話が真ならばいまこそ攻める絶好の好機ということですね」
「そうです。すぐ軍議を開きましょう」
周瑜は拳を胸の前につきだして力強く言った。
「おお、ではすぐに部隊長に伝令を出す」
急に慌ただしく孫賁たちは立ち上がり、準備を始めるために出ていった。
周瑜も立ち上がって机に地図を広げて見入っていた。
虞翻だけがまだ座っていた。
「周中郎将殿」
ふいに虞翻が声をかけた。
「はい？」
振り向くと、虞翻はニコニコと笑っていた。
「あなたはこうなることを前から予測していましたな？」
「あらゆる手を考えておくのが軍略の基本ですよ、仲翔殿」
周瑜は花が揺れるような微笑を返した。
「いえ、そうではなく・・・密偵を使って僮芝に毒を盛ったのではないかと私は思うんですよ」
「何をおっしゃいます。私は毒など盛っておりませんよ。普通、毒を盛るなら致死させるとは思いませんか」
「あなたは顔に似合わず大した策略家だ。その頭の中はどうなっているんです？」
周瑜は苦笑して虞翻を見た。
「何をおっしゃりたいのか、私にはわかりません」
「伯陽殿と国儀殿ですよ。あのお二人に手柄を取らせるためにわざと殺さなかった」
周瑜は笑うのをやめて虞翻を睨むように見た。

「・・・・なぜそう思います？」
「殿の為でしょう。もともと伯陽殿と殿はあまり相性がよろしくない。お互いに気を遣っているのがよくわかりますからね。ここであのお二人に手柄を取らせ太守にしてやれば、豫章を治めることにも一生懸命になるでしょうし、なにより殿への忠誠心もあがろうというものです」
虞翻の言葉を最後まで聞き、周瑜は笑い出した。
「あなたの考えすぎですよ。だって伯陽殿は孫家の一族の方ですよ？私ごときがどうしてそのような気を回す必要があるのです？」
虞翻は両手を自分の膝の上で組んだ。
「私はね、次男なんですよ。だから長子の考え方が正しいかどうかなんかわかりません。しかし、一族の長子が他の者とは違う扱いを受けるのは当たり前でしょう。殿は亡き父君の後をついだ形になりましたが、その当時は伯陽殿が一族を長子としてまとめていらした。伯陽殿が殿に膝を折るのに抵抗がなかったとは思いません」
「・・・そのような愚かな方ではありませんよ、伯陽殿は」
「私もそう思いますよ。しかし人の心とはそのように単純なものではありませんからね」
周瑜は苦笑した。
「困った方だ。まちがってもそのような妄想を吹聴なさらないでくださいよ」
「もちろん、他愛のない妄想ですからね。しかしこれで確信しましたよ」
「何をです？」
「あなたがいる限りこの軍は負けないでしょう」
周瑜は虞翻を見て目を細めた。
「どうしてそう言い切れます？」
「器量が違いすぎます。皆見とれて落馬してしまうでしょう」
虞翻は笑いながら言った。
「なるほど。張公のおっしゃるとおりの方だ、仲翔殿は」
周瑜はくく、と笑った。
「ほう。一体何と？」
「屁理屈を言わせたらあなたの右に出るものはいない、とね」





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