(33)横臥



周瑜達が豫章にいた頃、孫策の本隊は黄祖のいる夏口を強襲していた。
報せを受けた周瑜は、孫賁達を豫章の備えに残し、直ちに兵を率いて本隊に合流すべく兵を走らせた。

「中郎将殿、殿の本隊は沙羨城まで攻め上るとのことです。こちらも向かいましょう」
横に馬を並べて走る呂蒙が大声で叫んでいた。
「劉表の援軍が到着する前に合流せねばならん。急ぐぞ!」
呂蒙の声を受けて周瑜は馬の腹を蹴り上げる。



手綱を持ちながら、その手がだんだん痺れてくることに気付いたのは、馬を走らせてから半日経ったときのことだ。
馬を潰さないようにと小休止を取りつつ進んできたが、ついに夜になったため、野営をすることとなった。

気分がひどく悪い。
・・・・吐きそうだ。
行軍の途上から、悪寒に襲われた。
それを必死で我慢していた。
何なのか、これは。
周瑜は兵が天幕を張っている間、林の中に脚を踏み入れた。
月あかりを頼りに、林の奥へと歩いていくと、小川が流れていた。
「うっ・・・」
たまらず草むらの蔭で吐いた。
小休止するたびに悪寒と吐き気が襲ってきていた。
そのあとよろよろと歩いていって小川の水で口をすすいだ。
すっと、気分が良くなった。
「ふう」
さっきまで立っていることすら苦痛だった。
自分の身体の変調に、周瑜はなんとなく違和感があった。
そして漠然とした不安。

・・・・・こんな身体、捨ててしまえたら。
頑丈な男の身体でさえあったなら。
今更言っても詮無いことを恨むようにつらつらと考えてしまう。
周瑜は唇を噛みしめながら、満ちるにはまだ幾夜かが必要な形をした月を睨んだ。

「公瑾殿!」
呂蒙の声が飛んだ。
ゆっくりと振り返って足音のする方向を見た。
血相を変えて走ってくる青年の姿があった。
「どうしたんですかっ!?」
川縁に座り込んでいる周瑜の前に駆け寄って、片膝をつく。
「ご気分でも悪いんですか?」
月明かりに照らされて、呂蒙の顔は青白く見えた。
「大丈夫、なんでもないよ。少し月を見ていただけだ」
「・・・・本当ですか?」
「ああ」
「・・・あまり大丈夫そうには見えません」
「少し、疲れただけだ。一晩眠れば楽になる」
「では天幕にお入り下さい。夜露は身体を冷やします」
呂蒙はそう言って、半ば強引に周瑜の肩を担いで立ち上がらせた。
「・・・・・」
しなやかな身体だ、と思った。
周瑜のたおやかな身体を支えながら、呂蒙は孫策が言っていたことを思い出していた。

「あいつは身体が弱いから、気を付けていてやってくれ。ああ見えて強情だからな、絶対弱音を吐かないんだ。だから知らない間に無理をしてひっそりと倒れていたりする」
いつもは野生の獣を思わせるような目を、優しげに細めて言っていた。


今もおそらくどこか具合が悪いのだろう。
なのに平然を装っている。
こういうときは強引にでも寝かせた方がいいんだ、と彼は思っていた。
そっと周瑜の面を覗き見ると、長い睫毛が今にも露を含みそうにして揺れていた。
辛いのだろうか。
こんな華奢で綺麗な人に無理をさせてはいけない。こういう人は後方で指揮しているだけでいいのに。
「子明」
「あ、はい」
ふいに字を呼ばれて我に返る。
射るような眼差しと目があった。
考えていることを見透かされたような気がして、呂蒙は瞬間かっと赤くなった。
「もういいよ。自分で歩けるから。肩を・・・皆が心配するといけない」
「あっ・・・すみません」
呂蒙は担いでいた腕を降ろした。
周瑜はくす、と笑った。



天幕に戻って牀台に横になる。
具合が悪くても横になっている間は少しマシになる。
しかし、行軍は沙羨に到着するまでずっと続くのだ。それについたらついたで戦になる。
とても休んでなぞいられはしない。
持つのだろうか。
男と偽っていても所詮は女なのだ。
自分では気付いていても、他人にそう気付かれるのには耐えられない。
それが周瑜のプライドだった。
困った性格だ、と苦笑する。
いつかこの性格が災いして、命を落とすことになるやもしれない、と思う。
「それはそれでいいかな。この性格は直せそうに無い・・」
うっそりとつぶやいて目を閉じた。





沙羨では孫策と合流する前に戦に突入した。
既に味方が混戦状態にあったのだ。
劉表の援軍として劉虎らが参戦するのを追い掛けてきた形になった。
指揮をする周瑜は自ら兵を鼓舞し、敵の陣を崩し始めた。

その、最中であった。
またしても周瑜の気分が悪くなったのは。
呂蒙が心配そうな顔を向ける。
視界がだんだんと狭まってくる。
それでも半分痺れかけた腕で矛を振るう。
脇腹に一撃が掠った。
それをかろうじて防いで、薙払う。
周りに敵の姿を目視できなくなると、周瑜は自ら馬を降りた。
これ以上騎乗していたら落ちてしまっていただろう。意識のないまま落馬すれば命にかかわる。
ふと、殺気を感じて右後方に矛を投げつける。
悲鳴が起こって、鈍い音がした。
それが最後の力だった。
城壁を背にしてそのままうずくまる。
目の前が真っ暗になり、すべての音が遠ざかっていく。
戦場で死ぬときはこんな感じなのだろうか、などと遠のく意識のもと、虚ろに思っていた。







「お気が付かれましたか」

意識を取り戻したとき、耳に入ってきたのは穏やかな軍医の言葉だった。
視線をそちらにやると、白くなった口ひげを蓄えた軍医はにこりと微笑んだ。

「吐き気がしませんでしたか?」
「・・・ああ。ひどかった」
軍医は周瑜といくつか問答をした後で、濡らした手布を額に乗せた。

そして軍医はある事実を告げた。


(・・・やっぱり・・・そうか)
薄々わかってはいた。

この軍医は周瑜の秘密を知っている。
何かあれば駆けつけてきて必ず側にいることになっていた。
「将軍様にはこのこと、お伝えしてもよろしいのですかな?」
「・・・構いません。もうどうせ、隠しておくことなどできはしないのです」
「わかりました」


しばらくすると、孫策がやってきた。
どうやら、ここは沙羨城の一室らしい。
優しげに言葉を掛けてくれる彼の気遣いが嬉しかった。

軍医はあらたまって孫策に「お話しがあります」と言った。




「身篭もっておられます」

孫策の目が大きく見開かれた。

「これでは行軍に同行するのはさぞきつかったでしょう」

やけに軍医の言葉が胸に滲みる。

周瑜は横になりながら、孫策の驚く顔を眺めていた。
まったく予想していなかった、という表情だった。
そして軍医と周瑜の顔をかわるがわる見つめた。

だが周瑜は行軍の最中も、いやその前からもしもの時のことをずっと考えていた。
そしていまやそれは現実のものとなって、周瑜を悩ませているのだった。

孫策がどう出るのか、有る程度は予想がついた。
だが、どのような申し出も受けるわけにはいかなかった。
どんなに孫策が怒って愛想を尽かそうと、譲れない大切な部分だった。
それが周瑜の生き様でもあったからだ。

だが−
それとは別の感情もあった。
孫策の子を授かったということ。
愛する男の子供を産みたいという気持ちは武将の周瑜のものではなかった。
それは周瑜がいままで築いてきたことを揺るがす大事でもあったのだが、それ故に周瑜は一つの結論を出した。

あらゆる感情が顔に出ている孫策と違って、周瑜は今、そこに静かに横たわっていた。






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