その少し前。
孫策に呼ばれた呂範、呂蒙、徐盛の三名は先ほど見たことの真相をうち明けられた。
「・・・・すると、初陣の時から殿はご存知だったというのですね」
呂範は少し呆れたように言った。
孫策は彼から視線をわずかに逸らせながら頷いた。
「そもそも、一体なぜ、どうしてそのことを隠してまで戦に参加することになったのでしょう」
「そんなことは知らぬ。公瑾に訊け。俺だって何度も止めたんだ」
孫策は腕組みしながら返答した。
「この目で見ておきながら、まだ信じられません」
さっきから問いかけをしているのは呂範ばかりで、あとの二人は黙ったままだった。
「おまえたちはどう思っているんだ?」
急に矛先を向けられて、二人とも顔を上げた。
呂蒙は孫策の表情を伺うかのように口を開いた。
「・・・あ、その・・・自分は殿がなぜ、公瑾殿を奥方にしようとなさらなかったのか、不思議で仕方がありません」
「したさ」
孫策の表情は憮然としたものになった。
「何度も求婚して、断られている」
「まさか」
三人が異口同音に言った。
「こんなこと冗談でいうものか」
孫策は右側に置いた肘掛けに頬杖をついたままぶすっとした表情と口調で言う。
「妻にと望んで迎えにも行った。だがあいつは決してうんとは言わなかった」
三人はお互いに顔を見合わせた。
「あいつは男でいたいからだと言った。俺の覇業のために力を尽くしたいと。そのためには妻という立場にはなれないのだと言った」
「それは・・・何といって言ってよいか・・・。実際公瑾殿の知略には何度も助けられておりますし・・・」
呂範の言葉の語尾が口ごもって聞こえなかった。
「・・・・まったくだ。だから俺もあいつを軍からはずせなかった」
「おっしゃるとおり殿を除いては公瑾殿の知謀をも凌駕するような知将が、我が軍にはまだまだ足りませぬな」
「・・・そうであろう。だから公瑾のことは誰にもしゃべるな。今のままの周公瑾でいさせてやってくれ」
呂蒙も徐盛もそれまでは黙って聞いていた。
だが、ここで初めて徐盛が口を開いた。
「おそれながら殿。某は反対でござる」
呂範も呂蒙も驚いて徐盛を見た。
「知らなかった今までならいざ知らず、女性と知って今まで通りにお仕えすることは某には難しいことです」
「ほう。徐文嚮よ。おまえは女には仕えられぬと申すか」
「・・・・」
「文嚮!おぬし、無礼がすぎるぞ!」
徐盛の方を向き直って大声を出したのは呂蒙だった。
「女であろうとなかろうと、公瑾殿が今まで頑張ってこられたことに変わりはないじゃないか!おぬし公瑾殿を愚弄するか!?」
孫策は自分が言おうと思っていたことを先に呂蒙に言われて、唖然とした。
いきり立った呂蒙に徐盛は視線を向けた。
「そうではありません。某は、あの方を戦の矢面に立たせることが苦痛だと言っておるのです」
「・・・それは・・・そうだが・・・」
呂蒙が口ごもっていると、呂範が助け船を出した。
「文嚮、公瑾殿はおぬしよりはるかに戦が上手だ。それはおぬしのうぬぼれであり、公瑾殿を侮辱することになる」
徐盛は無言だった。
「徐文嚮、おまえの言いたいことはわかる。公瑾に戦をさせることを俺が今まで平気だったと思うのか」
「・・・・・」
徐盛は俯いて孫策の前に低頭した。
「至らぬことを申しました。お許し下さい」
呂範はくっく、と笑った。
「これで今まで以上に公瑾殿をお守りする事情が出来たと思えますな」
「子衡、そう思ってくれるか」
「もちろんです。なあ、子明、文嚮」
「はい!」呂蒙が元気良く答えた。
一人口を開かなかった徐盛に、孫策は問うた。
「文嚮、おまえはどうだ」
「・・・某も子明殿や子衡殿と同じです。この件に関して敢えて口止めする必要もございません」
「そうか、皆、わかってくれるか!」
孫策は手を打った。
「公瑾に力を貸してやってくれ。ひいては俺のためだ。皆、頼むぞ」
「・・・・というわけだ」
臥床にある周瑜の側に孫策は立ち、呂範たちのことを話した。
「これからもおまえにはいろいろとあるだろう。協力者がいたほうが、なにかとやりやすい」
「お心遣い、感謝致します」
「しばらくは休め。江夏を取った以上、しばらくはここで豫章の様子を見る。おまえには徐文嚮をつける」
「はい。ありがとうございます」
「礼などいい。・・・俺は楽しみなんだ。おまえの子が」
周瑜は江夏に残ると言った。
身体がもう少し安定したら巴丘というところに移ることになっている。
そうしたら孫策たちは呉に引き上げる。
周瑜は巴丘で子を産みたいと言った。
そしてその子は周家の子として育てたいとも。
孫策はそれを了承した。そうでなければ周瑜は子を産むどころか孫策の前から姿を消すとも言うのだった。
「この俺にここまでさせる女はおまえしかいない」
孫策はそう言って苦笑する。
「申し訳有りません」
「仕方がない。惚れた弱みでもあるしな」
そう言うが、周瑜が巴丘で子をひそかに産みたいと言ったとき、正直安堵していた。
孫策には呉都に戻れば妻も子もいる。大喬と呼ばれる美女を妻にしたが、彼女は周瑜が女であることは知らないはずである。
彼なりに、美しく貞節な妻を愛していたし、自分が周瑜と関係を持っていることにうしろめたさもあった。
だが、男とは近場の綺麗な花よりも、より手に入りにくい高嶺の花を求める傾向がある、と彼は思う。
周瑜は一番近くにいても決して手折られることのない花だった。
距離は近くても、その心の所在は遙か彼方にある。
手に入れたようでそうではない。
手に入れたと思ったときもあったが、それはどこかつかみ所のない幸せのような気がしていた。
周瑜はすべてを承知している。
孫策はそう思った。
そういう賢さが愛しかった。
ふっ、と破顔して孫策は周瑜の傍らに膝をついた。
「黄祖を追いつめて誅つ。だがその前に豫章だ。すでに伯陽らが任についている」
「豫章の反乱勢力はどうなっています?」
「韓義公らを県令に任用して鎮圧にあたらせる。おまえは心配することはない」
「それなら大丈夫ですね」
「ただひとつ気がかりなのは劉盤が何度か攻撃の構えを見せていることだな」
「劉盤・・・劉表の甥ですね。我々がこのまま荊州へ進行してくると思っているのでしょう。豫章西部都尉を置いて守りを固めさせた方がよろしいですね」
「そうだな。誰が適任か」
「名の知れた猛将が良いですね。置くだけで脅威になるような」
「太史慈か」
「そのあたりが適任でしょう」
「よし」
孫策はうなづいて立ち上がった。
「見ていろよ?おまえが起きあがって巴丘に出発するころには後顧の憂いはすべて取り払われているぞ」
周瑜はそう言いながら室を出ていこうとする孫策の背を頼もしく思った。
夜中にふと、目が醒めた。
気分は悪くなかった。
起きあがって室を出ようと扉を開けた。
そのとき、金属の音がした。剣のこすれ合うような音だった。
「・・・?」
薄明かりの中、扉のたもとに人影がうずくまっているのを見た。
「誰だ」
誰何の声に人型が立ち上がった。
周瑜は目を凝らしてその影を見つめた。
「伯・・いや、徐・・文嚮・・・か?」
「御意」
「何をしている」
周瑜の室の扉の前で剣を抱え込んで座っていたのは徐盛だった。
「警護を」
「・・・警護だと?誰の命令だ」
「殿に命を受けました。あなたをお守りするようにと」
周瑜はふん、と溜息をついた。
「余計なことだ。いいから自分の室に戻って休め」
「それではお役目になりません故ここで休むことをお許しください」
「・・・・強情なヤツめ」
周瑜は徐盛をチラと見て、回廊へ出た。
「どちらへ」
「どこでもいいだろう」
「お供してもよろしいでしょうか」
周瑜はじろ、と徐盛を睨んだ。
「厠だ。ついてくるな」
そう言われてついていくのをためらい、徐盛は無言で周瑜を見送った。
明くる日も、その次の日も徐盛は周瑜の室の扉の前で剣を抱えたまま座り込んでいた。
「あれは一体何なのです?」
周瑜は孫策の室で文句を言っていた。
孫策は苦笑した。
「確かにおまえを守れと命じたのは俺だが・・・まあ、良いではないか。やりたいようにさせておけ」
「あれでは従者です。側仕えならともかく、武将のすることではありません」
周瑜はあきれたように言った。
「そういう真面目な男だからおまえにつけた。巴丘まで連れてゆけ」
「真面目にすぎます。子明の方が良かった」
「そう言うな。子明はまだ若い。おまえとおまえの秘密の両方は守れない」
「・・・・」
憮然とした周瑜の肩を叩いて孫策は笑った。
「あれは堅実な男だ。派手さはないが役には立つぞ」
周瑜はまた嘆息をついた。
そういう地味なところが良くて、周瑜の側に置こうという気にさせたのだろう。
陳武などに比べると孫策の態度の違いは明らかだった。
「気に入らないか?」
「・・・背姿が」
「はあ?なんだそれは」
「・・・いえ、なんでもありません」
周瑜はそのまま室を辞去した。
回廊に出ると徐盛が立っていた。
周瑜は彼を見ずにその前を声もかけずに通り過ぎた。
徐盛はそのあとをついていく。
自分の室に戻って、周瑜はその扉の前で一例して下がろうとする徐盛を呼び止めた。
「話がある。お入り」
「は・・・」
徐盛はやや緊張しながら周瑜の室に入った。
「おまえは私の正体を知って、行軍に反対したそうだね」
周瑜は立ったまま話出した。
徐盛はその前に片膝を折って聞いていた。
「女には仕えられない、と思ったか?おまえの本音を聞きたい」
口調は冷たかった。
徐盛はわずかに視線を動かしただけで無言のままであった。
「・・・・どうした。なぜ答えない?」
周瑜は少し苛立った。
徐盛はゆっくりと顔を上げた。
「・・・ご不興を買っていたのはそのせいでしたか」
ここしばらく徐盛に向けられる周瑜の視線は冷たいものだった。
自分がなぜそこまで嫌われるのか、徐盛にはわからなかったのだ。
「おまえを私につけたのは伯符さまだ。私の意志ではない」
「某のお役目でござれば」
「おまえがどういうつもりでいるのかが知りたい。ただ命じられたからそこにいるというのならば不要だ。去れ」
「某はあなたを敬愛しております。他に思うところはありません」
「ではなぜ反対した。私が女だからだろう?」
「戦の矢面に立たせたくない、と申しました」
「同じことだ」
「違います」
「どこがだ」
「たしかに女性だからという思いはありました。しかしあなたをおいて他に知略にたけた将はおりません。それであなたを危険な目に会わせなければ良いのだと思い直したのです」
「・・・戦に出る以上、危険でないことなどないはずだが」
「戦のみならず危険はそこかしこに潜んでおります。あなたの秘密と共にあなたをお守りしようと決めたのです」
周瑜は彼の本音をさぐるかのようにじっと徐盛を見つめた。
徐盛はわずかに頬が熱くなるのを感じたが、その視線を逸らすわけにはいかなかった。
周瑜に信頼されること、それが今彼がせねばならないことであった。
「立て」
不意の命令だった。
徐盛は言われるままに立ち上がった。
「後ろを向け」
それにも従った。
目的がなんなのかわからないまま、周瑜に背を向けた。
彼は周瑜がその背に誰かの面影を重ねていたことは知る由もなかった。
「私は気まぐれだ。おまえがそれでも私を守れると言うのならやってみせろ」
徐盛はその言葉を背中越しに聞いていた。
そして頷いた。
「命を賭して果たしてご覧にいれます」
(35)へ