(35)永遠


「文嚮、しばらくの別れだな」

出立の準備をしていた徐盛のもとへ呂蒙がねぎらいに訪れた。
「子明殿もお達者で」
にこりともせず、そう言う。
・・・相変わらず愛想のないやつだ、と思ったが口にはしなかった。

「子衡殿は先発でもう呉へと戻ったけど・・・公瑾殿のこと、頼むよ」
徐盛は頷いた。
「・・なあ、聞いても良いか?」
徐盛は振り返って呂蒙を見た。
「おまえ、やっぱり驚いただろ?アレを知ったとき・・・」
「いいえ」
「いいえって・・・」
「このようなところで話をするわけには参りませんが」
「あ、ああ・・・」
呂蒙は徐盛が荷をまとめているのを立ちつくして見つめていた。
「でもな・・・。俺はやっぱり衝撃を受けたよ」
徐盛はチラとだけ呂蒙に目をやってすぐに自分の仕事に集中した。
「某にとって中郎将殿は中郎将殿です」
「・・・」
「某はあの方を尊敬しているし、護るに値する方だと思うからやっているだけです」
「あっさりしているなあ、おまえは」
「現実は変えられません、子明殿」
「・・・まあな。・・・それに別に俺だって嫌なワケじゃないし・・・できれば俺が代わりたいくらいだ」
徐盛はそう言う呂蒙をじろっと見た。
「・・・このお役目は譲れません」
「わかってるって・・・睨むなよ。第一、殿の勅命なんだろ」
徐盛がすごむので、呂蒙はなんとなく気後れしてしまった。
徐盛はこの数日間ですっかり周瑜の信奉者になってしまっていたらしい。
これで誰かが周瑜の悪口でも言おうものなら何をするかわからない。
事実、周瑜が怪我を負い、それが元で病になったと軍内で噂になったとき、見舞いに訪れた武官や部下たちをことごとく詰問し、追い返したのだ。
噂に寄れば、周瑜の愛馬の世話まで自分の手でやっているという。
やれやれ、と呂蒙は半分呆れ顔になった。

これが自分だったら、とも呂蒙は思う。
あの人を女性と知ってずっと側にいたら、好きになってしまうかも知れない。
そんな気持ちを抱えたまま、ずっといられるだろうか。
そんなことにはなりたくない。
自分は殿に命とすべてを捧げたい。
余所見をしている余裕はないのだ。
呂蒙は首を横に振った。

「俺には無理だ」

無意識にそう、口走った。

徐盛は瞳だけを動かして彼を見ただけで、何も言わなかった。






「眩しいな・・・」
周瑜は少し強い日差しに手をかざした。
初夏の日差しは春の心地よさと夏の力強さとの両方を兼ね備えている。
「東屋へお入りになりませんか」
周瑜の後ろに立つ徐盛がそう進言した。
「ああ・・・そうだね」

江夏の城に留まって一月が経った。
周瑜の体調も良くなって、ようやく出発の準備を整え始めることになった。

中庭に流れる小川にかかる橋を渡って石で作られた東屋に入る。
東屋の石の壁に触れると冷んやりしていて心地よかった。
石でできた椅子に腰掛け、丸くくりぬかれた窓から庭一帯を見回す。
その一角からこちらを見つけて手を振る人の姿をみとめた。

「公瑾」
孫策だった。

「ここにいたのか。探したぞ」
「申し訳有りません。少し表の空気を吸いたくて。何か御用だったでしょうか」
東屋に入ってきた孫策を周瑜は立って迎えた。
「徐文嚮、おまえはいい。下がっておれ。だれも来ないように見張っていろ」
「は」
孫策は徐盛をそう言って下がらせ、石の台を挟んで周瑜と対極の椅子に座った。

「豫章から報告があった。賊の討伐はうまくいっているそうだから心配はない」
「そうですか。それは何より」
周瑜は春風のように微笑んだ。
その笑みにつられて笑いそうになったが、孫策は面を引き締めて言った。
「黄祖にとどめを刺せなかったのは悔しいが・・・呉の子綱が早く戻ってこいと書簡を寄越してな」
孫策はそう言ってはいるが、もはや彼は父の敵討ちなどという狭い視野ではものを考えていないことは明らかだった。
(伯符さまはご立派になられた)
周瑜は心底そう思う。

「陸績の従兄弟とやらが呉で山越討伐に参加しているらしい」
「従兄弟・・・ですか」
「まだ十代だ。若いが頭が切れるらしいぞ」
陸家は孫策にとってはなにかしら思うところがあるのだろう。
周瑜はそれを苦い気持ちで聞いていた。
負い目がある、ということではない。
だが騙していたという罪悪感はある。
陸儁。
この先、彼のことを思い出す度、苦い気持ちになるのだろうか。思い出さないくらい忙しく国と孫策のことを考えていたい、とも思う。


「どうした?気分でも悪いのか?」
孫策は椅子から立ち上がり、周瑜を覗き込むように身をかがめた。
「あ、いえ。そうではありません」
慌てて否定するが、心配そうな表情もさまになる、と周瑜はひそかに思った。
「巴丘に行っても、無理はするなよ」
「はい」
「いつ発つ?」
「準備が整い次第、発ちます。あと数日のうちには」
「・・・そうか。体調はいいのか?」
「今のところ平気です。これから戦に行けと言われたら辛いところですが」
「そんなことはさせん」
「子明から聞いたのですが、だいぶ私の具合が悪いことになっているようですね」
周瑜は苦笑した。
「ん?ああ・・・徐盛だろう。あいつがおまえの側に人を寄せつけんからな」
「・・・まったく、極端ですよ、あれは」
「まあ、良いではないか。それだからこそ安心しておまえの身辺を任せられるというものだ」
「・・・伯符さまは安心なさっておいでなのですか」
「ああ」
「子烈の時とは随分違いますね」
「あれはおまえに惚れていたからな」
「今度もどうしてそうでないと、言い切れるのです?」
周瑜は挑発するような目で孫策を見た。
「・・・俺にはわかる。あれは決しておまえに手を出したりはせん」
「根拠のない信頼ですね」
「おまえを女だと知っているからだ」
「・・・どういう意味です?」
「おまえを女と知って、護ろうとしている。それはおまえが俺の大事な参軍だと思うからだ。女と知っていながら武将として生かそうとしている。そういう考え方のできるヤツは珍しい」
周瑜は眉をひそめた。
「・・・つまりあれは私をそうと知りつつ女と思っていないとおっしゃるのですか?」
「それはわからんが、おまえを武官として尊敬していることは確かだ」
「・・・」
周瑜は複雑な表情をした。
「先日もな、呼んで話をしたところ、あやつ、何と言ったと思う?」
孫策はははは、と半分笑いながら訊いた。
「さて」
「次に呉で俺と会ったときおまえの身体に傷ひとつでもついていたら自分の首を献上するとさ」
「・・・・」
周瑜はしかしそれを笑えなかった。
徐盛は本当にそのくらい一生懸命なのだった。

「しかし、これも怪我の功名というやつだな。俺のいない間おまえを護る者がいてくれて良かった」
「・・・徐文嚮にとっては迷惑かもしれませんよ」
「そうかな?あいつにとってそのうちそれが生き甲斐になるかもしれんぞ?」
そう言って孫策は笑った。
その言い方が気にくわなくて周瑜はちょっと意地悪をしてみたくなった。
「逆に私があれに惹かれたらどうします?」
「ふん?おまえが?・・・・ありえんことだとは思うが・・・そうだな、まずあいつをおまえから引き離して・・・」
「引き離して?斬らないんですか?いつも言っているみたいに?」
「斬ったらおまえが泣くだろう」
「・・・・」
周瑜は無言で孫策を見つめた。

孫策はいつのまにこのような男になったのだろう。
いつも一緒に遊びまわっていたあの悪戯小僧はもうどこにもいない。
目の前にいるのは周瑜が見慣れた見知らぬ男であった。

孫策は構わず続けた。
「あいつのどこが良かったのかを問いただす。その上でおまえを奪い返すさ」
その間も周瑜はじっと孫策を見つめていた。
「何だ?どうかしたか」
「いえ・・・ありえない話です、伯符さま」
周瑜はにっこりと笑った。
「伯符さま以上に私の気を惹く殿方など他におりません。今もこれからも」
己の胸にも響く言葉だった。
孫策はそれに笑って応えた。
その笑みは初夏の日差しと重なって眩しかった。
ずっとその笑顔を見ていたいと、周瑜は思った。

ここを出発すればまたしばらくは会えなくなるだろう。
孫策の手が、いつの間にか自分の手を取っていた。
なにか話しているのだろうが、周瑜は孫策の姿を少しでも記憶に留めておこうと見つめているのみで上の空だった。
薄く引き締まった唇の動きを目で追っていた。
男らしい太い眉と、切れるような鋭い目だが、自分を見つめるときの優しげな瞳をみつめた。
このまま、時が止まればいい。
この時が永遠になればいい。
しかし願いはかなわず指の間から滑り落ちていく砂のごとく、時は無情に流れていく。

(離れたくない)

はじめてそう思った。
何かの予感があったのかもしれない。
自分が愛する男の子を産むということに感傷的になっているのかもしれない、とも思って自嘲した。


「金蘭の交わり、だ。俺たちは」

その言葉だけが耳の奥にいつまでも残った。








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