「これは美しい」
寿春の城の大広間で謁見に臨んだ袁術は、脇に愛妾を侍らせながら目を見開いた。
周瑜は袁術とはこれまで面識がなかったが、あまり顔を上げないよう俯いていた。
袁術は髑髏を思わせるような痩せた容貌であった。
50になるかならずのはずであるが、そのせいで年齢より年上に見えた。
度を越した華美な衣裳が鼻についた。
「袁将軍様、これは私の姪で邑と申します。すでに陸家に輿入れが決まっておりますれば・・」
「ああ、わかっておる。しかし・・・これほどの美貌の姫がおって今まで人の口の端にものらなんだというのが解せぬのう」
袁術の言葉に周忠も慎重に答えた。
「身体が弱く、ずっと山奥にて育ちました故・・・」
「時に、周瑜という名も聞いたことがあるのだが、それはおぬしの甥か?」
突然の質問に周忠は度肝を抜かれた。
まさかここで周瑜の名がでるとは。
「・・は。恐れ入ります。周瑜というのはこの邑の兄でして・・・亡き孫長沙太守殿の軍に一時従軍しておりました」
「聞くところによるとその甥もたいそう賢くて美しいとか。どうかな?儂のところに出仕せぬかと聞いてみてはくれぬか?」
「ありがたい仰せなれど、この邑ともども先日母親を亡くしたばかりで、喪中でございますればしばらくは表に出ることが叶いませぬ」
「そうか。では喪があけたらさっそく来るようにと伝えてくれ」
「は」
周忠は内心ほっとした。
まさか邑と周瑜が同一人物だとはこの期に及んでは言えない。
そんなことが知れたら、邑としての周瑜の縁談など二度とないであろう。
「では長旅で疲れておるであろう。しばらく滞在してゆっくりされるがよい。既に部屋を用意してある」
予想通り袁術は邑を引き留めた。
「いいえ、陸家の者も一緒に参っております故、早々に引き上げる所存でございます」
周忠はそう言ってなんとかその場を凌ごうと思った。
しかし。
「そうか、陸家の、な」
袁術はそう言ってニヤリと笑った。
「廬江太守の一族であろう?陸康殿の兵力では心許ないであろうな」
「・・・・」
周瑜はだまってこれを聞いていた。
袁術は隙あらばと、廬江をも狙っているのだ。
暗に、周瑜が陸家に輿入れしても安全ではない、と言いたいのだろう。
周忠もそれを察したようだった。
「誠に良い江酒が手に入ってな、是非周家の方にも振る舞いたいと思っておるのだ。今宵は宴を催す故是非に出席なされるよう」
「・・は。わかりました。それではお言葉に甘えまして・・・」
「うむ」
与えられた部屋に下がった周瑜の元に周忠と陸儁がやってきた。
「今宵の宴の後には気をつけねばなりませんね。私がお迎えに上がりますので宴席でお待ちください」
陸儁はそう言って周瑜の手を取った。
「必ずあなたを御護り致します。ご安心ください」
陸儁殿は良いお方だ・・・・この方とならうまくやっていけるかもしれない、と周瑜は思った。
「なんだってこんなに待たされんだ!」
「まあ、落ち着け。どうやら名家のお姫様が謁見しているらしくてな。少し待てということらしい」
呉景は怒る孫策をなだめつつそう言った。
「くそっ、名家のお姫様がなんだっていうんだ。女より後ってのが気にくわねえ!」
そう怒りまくっているところへ、袁術からお呼びがかかった。
袁術の前で、孫策は彼にしてはこれまでで一番しおらしくしてみせた。
「亡き父の意志を継ぎ、袁将軍殿の御為に尽くしたいと思う所存です。ですが、私はまだ若輩、思うようにいかぬことも多々あります」
孫策は我ながらクサイ芝居だな、と思うくらいに人情に訴えるようなやり方で不幸な少年を演じてみせた。
父の部曲はさすがに返してはくれなかったが、その麾下にいた主将たちを呼び戻すことには成功した。
これで今よりはかなり有利になる。
「今宵は酒宴を催す故、叔父共々来られるがよかろう」
と、袁術から誘いを受けた。
断る理由もなく、呉景と孫策は与えられた控えの間で待つことになった。
そして、夜。
楽師隊が楽器を準備し、女給がせわしなく宴席の準備をしていた。
袁術麾下の武将や宦官らが続々と集まってきた。
孫策と呉景もやってきて、おのおの席についた。
やがて楽がなり始め、宴会が始まった。
宴席の前では踊り子の女が舞い始めた。
孫策はその踊り子を興味がなさそうに見ていたが、その向こうに宴会の広間に入ってこようとしている女を見つけた。
持っている酒の器を止めて孫策は女を見つめた。
女はまっすぐ袁術の傍の席に向かっていた。
彼女を見つめていたのはなにも孫策ばかりではなかった。
となりにいた呉景が肘で孫策の脇腹をこづいた。
「おまえがそんなに見とれるなんて珍しいが・・・あれがおまえの好みなのだとしたら、なかなか理想が高いと言わざるをえんな」
それでも孫策は凍り付いたように女から目を離さなかった。
「・・やれやれ。頼むから騒ぎだけは起こさないでくれよ?」
呉景は呆れて酒の器をまた酒で満たしていた。
女は美しかった。
袁術に話しかけられては微笑むだけで、あまり酒は呑んでいないようだった。
孫策はじっとそちらを見つめていたが、舞女が真ん中でひっきりなしに踊っているのに邪魔されて、女は気付かないようであった。
宴もたけなわになり、そろそろ皆が眠るために退出しようとしていく頃。
「・・おい、策、そろそろ行くぞ」
呉景に促されても孫策はさきほどの女から目を離せずにいた。
呉景は両肩をすくめて、溜息をついた。
「・・・・先に行ってるからな」といって先に席を立っていった。
孫策は無言のまま呉景を見送った。
袁術は女の腕を取って立ち上がろうとしたが、酔ってよろけて従者に支えられてそのまま退出していった。
それを席にすわったまま見送っている女のそばへ、孫策は立ち上がって歩み寄った。
宴席にはもう数人しかいなかったが、皆酔って横になったりしている。
女は自分の傍に歩いてくる男にそのときようやく気がついた。
そして、その顔を見上げた。
「・・・・・・!」
驚きの顔。
どんなに美しく化粧をしていようと、間違うはずがない。
「公瑾・・・・か?」
孫策が意にせず口にした、名前。
なつかしい声。
どんなにこの声で自分の名を呼んで欲しいと思ったことだろう。
「・・・・伯・・」
言いかけて、すぐにはっと気づき、口をつぐんだ。
「やっぱりそうか、おまえなんだな!」
孫策は周瑜の前に片膝をついてその顔を見た。
「・・・驚いた。まさか、こんなところで会えるとは思わなかった。おまえ、なんだってそんな格好でここに・・・まさか袁術に言い寄られてるんじゃないだろうな?!」
周瑜は興奮する孫策を懐かしそうに見つめていたがすぐに目をそらし、無言のまま首を振った。
「どうして黙っているんだ。何とか言え」
孫策の顔が、息がかかるほど近くにある。
だが、周瑜はそれを見ることができなかった。
今そうしたら、その胸に飛び込んでしまいそうで。
俯いていると、ふいに孫策の手が頬に触れるのを感じた。
「・・・よく、顔を見せろ」
孫策の手がゆっくりと周瑜の顔をあげさせる。
「・・・しばらく見ない間にまた一段と美しくなったな、おまえ」
そのとき横合いから怒鳴る声が聞こえた。
「その手を放せ!下郎!」
下郎、とののしられて孫策はそれが自分のことだと声の主の方を見て初めて気付いた。
広間に入ってきた男は、周瑜を立たせて孫策から奪い取り、自分の背に隠すようにした。
その態度が気に入らない孫策は男をぎろり、とねめつけた。
「なんだ、貴様」
孫策はすごみのきいた声で問う。
「おぬしこそ、誰だ」
周瑜を背に庇いながら孫策に対峙するのは陸儁であった。
「俺は孫家の亡き長沙太守孫文台が一子、孫伯符だ」
「ふん・・・成り上がりの孫家か。私は揚州陸家の長子、陸伯董だ。この方は我が婚約者である周家の息女である。おぬしごときが気安く触れてはならぬ方と心得よ」
陸儁は少しあざけったように言った。
周瑜は陸儁の背でこれを聞きながら、どんなにか孫策がいま不機嫌になっているだろうと思った。
そして、陸儁の背から声をかけた。
「陸儁様、私気分が悪うございます。早く部屋に連れて行ってくださいませぬか」
孫策に向かい合っていた陸儁であったが、それを聞いてすぐさま振り返り、
「おお、申し訳ありません。このような者に構っているよりあなたのことを第一に考えるべきでした」
と言って孫策などにはもう取り合わず、周瑜の肩を抱いて広間を出ていこうとした。
周瑜はそっと後ろを振り返った。
そこには呆然と立ちつくす愛しい人の姿があった。
「・・・・婚約者だって・・・・?あの男が・・・?何を言ってるんだ・・・婚約・・・そんなことが、あるはずがない・・・」
周瑜たちが去ったあと、一人口の中でその意味を理解できぬ、といったふうに繰り返し呟いていた。