輝星・序章


南郡の攻防戦の最中に周瑜が負傷したと聞いたとき、孫権は持っていた扇を取り落とした。


使者を下がらせ、側仕えの者も下がらせ、一人になると、孫権は立ち上がった。
そのまま部屋の中を手持無沙汰にうろうろする。

傷の具合はどうなのだろうか。
重症だという話だが、大丈夫だろうか。
周瑜のことだから、また無理をしているのではないだろうか。

こんなことになるのなら、夷陵から脱出してきた時点で無理にでも呼び戻していればよかった。
それにしても、あれだけの武将が揃っていて、誰も周瑜を護れないとは口惜しい。
仕方が無いが、とにかく撤収させるしかあるまい。
無理をして、取り返しの付かないことにさせたくない。

「あいつは怒るだろうな・・・」
形の良い唇を噛み締める白い貌が浮かんだ。
「だが、俺の気持ちも少しくらい、わかってくれてもよさそうなものではないか」
心配しているのだ。
男と偽って戦の矢面に立つ気丈なあの美しい人を。

初めて周瑜に会った時から、あの美貌はまったく色褪せていない、と孫権は思う。


あれは、まだ15の年だった。
兄について江南の各地を転戦していた頃だ。
兄の孫策は江東を平定し、一旦呉郡に戻った。
それに付いて、呉県に帰還したときに、その人に会った。
「仲謀、周公瑾だ。おまえは小さかったからあんまり憶えていないかもしれんが、俺たち舒で一緒に暮らしていたんだぞ」
小さい時分に、周瑜の家の離れに住んでいたこともあったのだが、流石にその頃の記憶は疎い。
かすかに憶えているといっても、いつも兄と一緒にいるところを遠巻きに見ていたことくらいである。
それにしても-。
なにをどのようにしたら、このような美しい顔になるのだろう。
「仲謀殿、お久しぶりです。すっかり大きくなられて、見違えましたよ」
そう言って綺麗に笑う。
おそらく、そのときの自分は阿呆みたいに口をぽかん、と開けて周瑜の顔に見とれていたのだろう。
兄が視界の隅でニヤニヤ笑っていたのを憶えている。

その兄の言葉で我に返った。
「おまえももうじき16だ。そろそろ自立していい頃合だと思っている」
そう言いながら兄は突然、自分を陽羨県の長に任じた。
陽羨県は呉県からも近い。
何かあれば、兄が駆けつけてくれるという安心感もあった。
なにより、兄が自分を一人前と認めてくれたことが何より嬉しかった。

陽羨県に赴く際にも、周瑜は何かと気に掛けてくれていた。
必要なものがあれば準備するから、と言ってくれた。
この頃はいろいろ書物を読んだり勉学に励んでいたので、周瑜を相手に話をしたり聞いたりすることがあった。
戦術についても話す機会があったが、まだ戦にでたことがない自分にはあまり実感がわかないことが多かった。
この美しい人と会話ができる、それだけで嬉しかった。
だが、その人は兄と共に戦場を駆け巡るために行ってしまう。
そんな兄を羨ましいとも思った。
弟の贔屓目無しでも、兄は立派な風貌で、男らしい顔立ちをしている。
その隣に美しい周瑜が並ぶと、誰であろうと見るものを惹き付ける。
あまりにも似合いすぎて遠い存在にすら感じられた。

自分だけを見て欲しい。
側にいて、その声を聞かせて欲しい。
それはまるで、初恋のようでもあった、と彼は思う。
自分は昔のその気持ちをまだ、忘れられないでいるのだ、と思う。
あの頃は、周瑜が女であることなど知らなかった故に、自分の感情に対して複雑に思うこともあったのだが。


兄が亡くなった時、その思いは叶ったように感じた。
だがそれは錯覚であったと思い知らされた。
兄が亡くなっても、周瑜の中には兄が存在している。
それでも良かった。
自分に仕えてくれるようになって、忠誠を誓ってくれたことで、少なくとも自分の側にいてくれることに、満足したのだ。

あの赤壁の戦いの前、わざと周瑜を呼び戻さなかったのは、戦をさせないためであった。
たくさんの人材を登用した。
周瑜が戦をしなければ、いや、女に戻れる日がくるのであればいいと思った。
だが、誰も周瑜の代わりをできる者はいなかった。
この呉の地を護るためには周瑜の力が必要だった。
・・・そんな自分を情けないとも思う。

兄であれば。

自分が兄のようであれば。

何度そう思ったことか。

そんな心のうちを見透かされたのか、あるとき、周瑜が言っていたことがある。
「兄君はたしかに覇王でございました。覇王とは戦で各地を平定し、領土を広げる者。ですが、兄君は昔から、内政は弟君に、とおっしゃっておられました。私が考えまするに、覇王と国を治める王とは別の者となるべきです。かつて覇王と呼ばれた者がその後うまく国を治められた例はそう多くございません。兄君は別格だったかもしれませんが、それ以上に殿の王となるべき資質を見抜いておられたのでしょう」
周瑜の言うこともわかる。
ああ言ってくれなければ、兄についてきた臣下たちを納得させることはできなかっただろう。
だが、小さい頃からずっと兄をみてきた自分にとって、兄は憧れの存在であった。
兄のようになりたい、と思ってきた。
それが、おまえには無理だ、と言われているようにも思えて少し腹が立った。
だからわざと戦の陣頭に立っていくようなことをして張昭に止められたりもした。
そしてこう言われた。
「殿が後ろにどん、と据わっていてくださるからこそ、兵は安心して戦えるのでございます。何も先陣を行くことばかりが王ではございませぬ」
そうして諌められながら、兄の跡を継いで十年が過ぎ、ようやく自分の本質というものがわかってきたように思う。

俺は兄のようにはなれないのだ。
だから、俺には俺にしかできないことをしようと思う。


それにしても。
なぜ周瑜は戦うことを止めないのだろう。
この世に戦の好きな女などいるものだろうか。
それとも・・・
戦の中で果てることを願っているのだろうか。
死に場所を、探しているのだろうか。
だとしたら、止めなければ。
だが、自分に止められるのだろうか。
兄にもできなかったことが、この俺に-。



とにかく、一度呼び戻そう。
こうなっては決着が着こうが着くまいが、周瑜の顔を見ておかなければ、気がすまない。
・・・何だか胸騒ぎがする。
何事もなければよいのだが。


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