(1)船上にて
周瑜たちを乗せた船団は長江を上り東へ向かう途中である。
陸口を過ぎ、ちょうど赤壁を通ったところであった。
「もう昨年のことなんだな・・・早いものだ」
船窓から江を見ていた呂蒙はそう独り言を言った。
南郡には陸遜が残っている。
周瑜たちが柴桑へ戻れば、入れ替わりに甘寧が行くことになっている。
呂蒙は以前甘寧と話したことを思い出していた。
「俺は魯子敬殿の考えとは違う意見を持っている。あの人はなぜだか知らぬがやたら劉備のカタを持つ。いいようにあしらわれているのにも気付かないなんてな」
「・・・あの人は文官だから、なるべく戦わなくてもいいような方策を立てたがるのだろう」
「その文官の言うことを黙って聞いていたら、俺たちは赤壁で勝てはしなかっただろうよ」
「・・・まあ、そうだが・・・」
「おまえは?子明、おまえはどっちなんだ?」
「・・・俺は・・・・」
魯粛の言い分もわからないではない。
だが、孫策や周瑜と共に転戦してきた彼は、やはり武人であった。
「俺は、周将軍のお考えに賛同する」
呂蒙がそう言うと、甘寧はフン、と鼻を鳴らした。
「おまえ、自分の意見というものは他人の名前の下にはないんだってこと、よく覚えときな」
(そうだ、俺だってわかっているさ)
自分の意見が、周瑜によって刷り込まれたものであることを。
それを甘寧は指摘しているのだ。
あの口の悪さと横柄な態度から、あまり彼をよく思っていない者は多いのだが、ああみえてなかなかの知恵者である。
だが彼が腹を割って話す相手は、彼自身が選んでいる節がある。
甘寧は自分と意見があわないからといって、その者の意見をまったく聞かないような狭量な男ではない。
逆に自分と違う意見をよく聞こうと、こういう話をよくしてくるのだった。
むしろ、思っていることを言わず陰で愚痴をいうような者をこそ軽蔑している。
だから、本当の呂蒙の意見というものを聞きたい、と彼は思っているのだろう。
(だが、俺は周公瑾殿を尊敬している。あの方の言われることこそが正しいと、俺は思うのだ)
「呂子明殿」
「あ、うん?」
ふいに思考を破られて、呂蒙は窓の外から室内へ目を移した。
声を掛けたのは徐盛だった。
「失礼を。周将軍がお呼びでございます」
「ああ、わかった。すぐ行く」
呂蒙はそのままサロンを出て行った。
徐盛は呂蒙の見ていた窓の外を眺めた。
「赤壁か・・・」
もうずいぶん前のことのように思える。
赤壁での大勝利から一年、戦詰めの毎日ではあったが、徐盛は周瑜とともにいられたことで満足している。
ひとつ気がかりなのは、柴桑へ戻ったあと論功行賞が行われ、自分がもし昇進した際にはもう周瑜の元にはいられないのではないかということであった。
しかし、こればかりは自分ではどうしようもない。
徐盛はひとつ、大きく嘆息をついた。
周瑜の部屋に呼ばれた呂蒙は、先に来ていた韓当や孫瑜にも礼を取った。
「早速だが、急な報せが届いた。・・・といってももう2週間以上も前の情報だが」
周瑜は眉をひそめて言った。
「殿が合肥へ進軍した折、曹操の軍と戦になった」
「なんですと!」
発したのは呂蒙だった。
「甘寧が援軍として向かったそうで、南郡へ来るのは程徳謀殿になるそうだ」
「・・・して、戦況は?」韓当は神妙な表情で訊いた。
「最初こそ小競り合いがあったものの、その後は硬直しているらしい」
「副将はどなたなので?」孫瑜が訊く。
「張子布殿だ。張子綱殿も参軍として同行されておられる」
「二張をお連れになったということか・・・なんと・・・」
「荊州に人を割きすぎたのだろう。山越の叛乱もある」
周瑜は机の上に地図を広げた。
「子明、どう思う?」
呂蒙は周瑜に意見を求められ、地図の上に視線を落とした。
「・・・我々は曹操軍を追って江陵へ入ったんでしたよね。・・・ということは・・・もしかして、陽動でしょうか」
「陽動?」孫瑜が呂蒙に向かって首を傾げた。
「はい。合肥の曹操軍のことです。曹操を逃がすために、江陵から呉軍の追っ手を引かせなければなりません。そのために、我々の眼を合肥へ向けさせる必要があったのではないかと」
「なるほど・・・!筋は通りますな」孫瑜は感心した。
周瑜はその切れ長の目を呂蒙へ向け、目だけで微笑んだ。
「子明の考えを是とするべきだろう。合肥には合肥城がある。曹操は北へ戻った後、軍を建て直し、そこを根城にして孫呉を牽制するつもりなのだろう」
「・・・ということはこの戦は長引かせるのが目的だということですね」
「そういうことになりそうだね」
孫瑜の意見に周瑜は頷いた。
「しかし、それならば斥候を送って早めに撤退させたほうがよいのではありませんか?」
呂蒙が提案した。
それへ、周瑜は表情を変えずに返答した。
「引き時は前線にいる殿自身がお考えになるだろう。張子布殿もいることだしね。なに、我軍が南郡をちゃんと守っていれば問題はないよ」
「・・・そうですね」
呂蒙は密かに奥歯を噛み締めた。
(・・・いつもこうだ。
いつもあと一歩、考えが及ばない。だから俺はダメなんだ・・・)
呂蒙がそんなことを思っているとはついぞ知らぬ孫瑜は、
「では我々は当初の予定どおり、柴桑へ向かえばよろしいのですね」と暢気に言った。
「ええ。ですが少し急ぎましょう」
話が終わって、孫瑜たち将校は出て行った。
「ああ、子明。少しいいか」
周瑜に呼び止められた呂蒙は、慌てて振り向いた。
「あ、はい!」
部屋の中に戻って椅子を勧められ、腰掛ける。
その間に小姓がお茶を持ってきた。
それを受け取って一口すすると、周瑜は茶器を盆に置いて口を開いた。
「病と怪我の治療のために、すっかり遅れてしまったが、おまえに礼を言わねばならないと思っていた」
「は?・・・あの、何のことで?」
「南郡を取り返してくれたことに、だ」
「は・・・しかし、あれは」
「おまえが長江を渡って陣を敷くと提案しなければ曹仁を完全に追い払うことはできなかった」
「・・・自分は・・周将軍ならばどうするか、と考えて行動をしたまでです」
「なるほど」
周瑜は薄く笑った。
その顔を見て、呂蒙は心に閉まっていたことを、いっそぶちまけてしまおうと思った。
「俺・・・自分は、何一つ自立したものを持っていないと思っているんです。いつも誰かの真似であるとか影響を受けているとか・・・」
「それを恥じ入っているというのかね?」
「・・・はい」呂蒙は俯いてしまった。
「誰かの真似をするとか影響を受けることがいけないことなのかな?」
「あ・・・いえ、その俺が、いや自分が言いたいことは、己の意見というものが己の内から出てこないということで・・・」
「そうかい?たとえば、おまえが過去に私の用いた策を見てきて、それから手掛かりを得た献策をしたとして、それがおまえの意見でなくてなんだと言うのかね」
「自分は・・・あなたのようになりたいと、思っているんです。それなのに、俺ときたら、いっつも何か足りなくて浅はかで・・」
周瑜は呂蒙をじっと見つめた。
「子明。人はいつでも自分以外のものにはなれぬのだよ。おまえが私になりたいといっても、それは無理というものだ」
「はい・・・わかっています」
「おまえには私にはない力がある。それは戦の機を見る力だ。加えて己自身の武勇もある。私などにしてみれば羨ましい限りなのだがね」
「そんな・・・!」
「おまえが目指すべきは私を超えたその先にあるはずだ」
「俺には・・・無理です」
「おまえらしくないね」
「俺にはあなたのような才能がないんです。あなたを超えるなんて無理です」
「才能などというものは、大きな努力の上に乗っかってこそ発揮できるものだよ。努力もしないうちから無理だとあきらめてしまうのかね?」
「・・・俺にできるとお思いですか」
「できると思うから話している。実際、おまえはよくやっていると思うよ。・・・そうそう、夷陵から南郡へ甘寧の救援に行く際に、おまえは留守を任せる凌公績にこう言ったそうだね。おまえなら曹操軍に攻められても10日は持ちこたえられる、と」
「は・・・凌統がどうしても先陣を行くといったものですから・・・」
周瑜は嬉しそうに笑った。
「でもそれをおまえは信じていただろう?」
「はい」
「おまえはそれでいい。自分が信じていることをそのままやればいい。誰かの意見に手掛かりを得たとしても、それを決め、実行することのほうが何倍も大変なのだよ」
「・・・俺はこのままで、いいんでしょうか」
「おまえは人知れず努力しているだろう?」
周瑜は呂蒙がこのところ、夜遅くまでいろいろな書物を読んで勉強していることを知っている。そのことを言われて、呂蒙は微かに頬を赤らめた。
「・・・人より遅いくらいですが・・・」
「そう言って諦めてしまう者の方が多いんだよ。自分はもうここまでだ、と。しかしそれでは人は成長しない。人は成長し続ける生き物だと私は思う。おまえがこれまでいくつもの失敗をしてきたことは、これからのおまえの成長には必要だったということなのだ」
呂蒙は目から鱗が落ちる思いだった。
そんな風に考えたことがあっただろうか。
「おまえのその誠実で素直な性格は美徳だ。それがおまえの最大の武器だと私は思うよ」
「そんな・・・周将軍にそんなことを言われるなんて、恥ずかしいかぎりです」
「そうかい?私は嘘つきだからね。正直な者が羨ましいよ」
周瑜はそう言って、席を立った。
その周瑜に、呂蒙は思わず声を掛けた。
「あの・・・!そ、そんな風におっしゃるのはお止めください。自分は将軍を嘘つきだなんて思ったことはありません。あなたこそ、人知れず努力なさってきたではありませんか」
周瑜はその切れ長の目を呂蒙へ向けた。
「私は嘘つきだよ。だからその罰を受けているんだろうね」
その頃、孫権は合肥の戦場にいた。
硬直したまま一向に戦局が動かないことに、苛立ちを覚えていた。
「ええい、のらりくらりと。これでは糧食を食いつぶすだけではないか」
天幕にいる副将の張昭を睨む。
軍略の知恵を出せ、と暗に言っている孫権なのであったが、張昭はごくあたりまえの戦法を言うだけである。
ここまで硬直してしまっては、機をてらう策などそうそうはないのではあるが-。
こんなとき、周瑜ならばいつも的確な策を講じ、それを実行に移していたものだ。
それを頼りにしてきた孫権にしてみれば、やはり物足りなさを感じてしまう。
周瑜がいてくれさえすれば-。
そう思って首を振る。
己がそんな風だから、周瑜はいつまでたっても軍袍を脱げないのだ。
南郡で周瑜が傷を受けたこと、その後も体調が思わしくなかったことを聞いている。
それを聞いて、今度こそ戦を辞めさせようと思い、呼び戻そうと思った。
なのに、この体たらくだ。
なんと情けない-。
そこへ伝令が入ってきた。
「寿春の斥候からの報告が参りました。曹操軍と思われる一軍が許都から進発したそうです」
「なにっ!?」
孫権の顔色が変わった。
伝令と入れ違いに天幕にやってきたのは甘寧だった。
「失礼します、殿」
「おお、興覇か。どうやら敵の援軍がくるらしい」
「フム・・・そいじゃここらが潮時ってやつですかね」
「撤退しろというのか」
「ここんとこの敵さんの戦の仕方をみてわかったんですがね、こりゃ本気で来てないな、と」
「むぅ・・・」
「時間稼ぎ、だったのかもしれませんぜ。やつらの目的は戦に勝つことじゃあない」
「ふむ。ではおまえはこれが陽動だと申すか。曹操はまだ許都に戻っていなかった、と?」
孫権の言葉に甘寧は頷く。
「どっちにしろこれ以上続けたんじゃ、兵の士気低下にもなっちまいます。援軍が来たってことは、今度こそ本当に曹操が都に戻ったってことじゃないんですかい?」
「・・・なるほど、一理ある。・・・よし、わかった。敵の援軍が来る前に撤退する」
「承知しました」
張昭も甘寧も頷いた。
柴桑へ引き上げる際、孫権は周辺を見回した。
「曹操軍の合肥城に対するには、こちらも砦が必要だな。それにしても柴桑からでは遠いな・・・」