(2)舌戦
柴桑へ着いたのは周瑜たちが少し先であった。
「では殿もまもなくこちらへ帰還されるのだな」
「はい」
文官たちからそのように説明を受け、孫権の帰りを待つことにした。
ちょうど時を同じくして、魯粛が戻ってきた。
周瑜が戻ってきていると知り、魯粛は登城して周瑜に会いに行った。
「公瑾殿」
「魯子敬殿か、しばらくのご無沙汰でありましたな」
「いや、まったく・・・そういえばお怪我をなさったとか。そちらのほうはもうよろしいのですか?」
「ええ、おかげさまで。そういう子敬殿はどちらからの帰還ですか?」
「豫章郡へ行っておりました」
「殿のご命令ですか」
「ええ。殿は豫章郡が東西に伸びすぎていることから分割しようと思っていらっしゃるようです」
「ほほう。では同じ意味で長沙も、同様にお考えであるのでしょうか」
「さて、それはわかりません」
周瑜はじろ、と魯粛を見た。
孫権の意図するところがわかっていないのだろうか?などと考えていた。
「時に、殿が合肥へ進軍なされたことはご存知ですな?」
「ええ。こちらへ向かう途中に伺いました」
「こちらが江陵に力を注いでいる最中に背後をつこうとしたんですよ。曹操はやはり油断ならざる敵としか申し上げられません」
「・・・ええ」
魯粛の解釈が自分とは違うことを周瑜は悟った。
だが、それを否定することはしなかった。
「やはり、私は劉備殿との同盟は必要だと改めて殿に上申するつもりです。今劉備殿と事を構えては、戦力を二分せねばならなくなります。それは我々にとっては上策とはいえません。ここはひとつ彼らと力を併せて曹操に立ち向かうべきだとは思いませんか?」
周瑜は形の良い眉をひそめた。
「・・・ひとつ伺いたいのだが、子敬殿は劉玄徳という御仁のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「物の道理をわきまえていらっしゃる方だと思っております」
「・・・本当にそうでしょうか」
「あなたは孔明殿に対して思うところがおありのようですから、そのように思うのも無理はないかもしれませんがね」
周瑜は魯粛を見据えて真顔できっぱりと言った。
「正直に申しましょう。私は劉玄徳という者を信用しておりません。荊州の一部を貸して欲しいなどと申して、おそらくはそこを根城に西南へ勢力を伸ばす魂胆でしょう」
「それは・・・いや、しかし、実際に劉玄徳殿は数万の民を連れておりましたし、どこか落ち着ける場所を求めるのは必然ではありませんか?」
「私が許せないと思うところはそこです」
「公瑾殿・・・」
魯粛は困ったような表情をした。
「劉玄徳殿の本意ではないとしても、結果として、民を己の保身の道具として使っているではありませんか。私はそんなやり方をする者を信頼することはできかねます」周瑜はきっぱりと言った。
「あなたの考えすぎですよ、公瑾殿。劉玄徳殿はそのようには考えてはおられないはず」
「・・・・あなたのように何事も穏便に、良いように物事を考えられたらよいのですが、生憎と私は元来の不出来な性格ゆえに悪いほうへと考える性分のようです」
「なんとかご理解いただけないかと思ったんですがね」
「私としても、出来うる限りあなたのお力にはなりたいと思ってはいるんですよ」
魯粛が出て行った部屋に、周瑜は一人座って嘆息をついた。
「珍しく舌戦を繰り広げていたじゃないか」
開け放たれた部屋の入り口に現れたのは、呂範だった。
「子衡殿・・・。お人が悪い。立ち聞きされていたのですか?」
「いいや、歩いていたら聞こえてしまっただけさ」
呂範は勝手に部屋に上がりこんで、周瑜の前に座った。
「今茶を持って来させましょう」
「悪いね」
周瑜は小姓に命じて茶の支度をさせた。
「しかし、あれではよくない噂が立ってしまうよ。大丈夫か?」
「・・・隠しても仕方がありませんよ。私と子敬殿で意見が違うのは事実ですから」
「ふむ。で、君は劉備と戦う選択をしたいんだな」
周瑜は呂範を前に、少しムッとした表情になった。
「・・・そんなに私は好戦的に見えますか」
「ああ、見えるね」
呂範はのうのうと言った。
「まったく君ときたら、先年からずっと戦詰めじゃないか。このうえまだ戦をしようというのかね」
「あなただって同じ戦場にいたではありませんか」周瑜は憮然として言った。
「私は後詰めだったし、その後彭沢太守を賜ってその任についていたから君よりは休んでいるよ」
周瑜は呆れた顔をした。
「太守の任を『休んでいる』だなどと。そのような不謹慎な発言は、心無い者にとって絶好の機会を与えることになりましょう」
「はっはっは。なに、告げ口や悪口には慣れているよ」
「そんなものに慣れないでください」
実際、呂範はその身なりや率いる船団が派手で奢侈であったため、心無い臣下が『臣下にあるまじき贅沢をしている』と孫権に告げ口をしたりしているのだった。
もっとも、孫権は呂範の仕事ぶりを評価していたため、そのような告げ口に耳を貸したりはしなかったのだが。
そうしているうちに小姓が茶を持ってきた。
差し出された茶器を手にしながら、呂範は言った。
「まあ、私は君の意見に賛成だ。だがなるべく戦はしない方がいいと思っている」
「・・・子衡殿にはどのようなお考えをお持ちで?」
「そうだな、たとえば劉備を呉都へ誘い出して監禁してしまうとか」
「それでは逆に、彼の部下たちと戦になりはしませんか?」
「だから呉にいるのは劉備自身の意思だということにすればいいのさ」
「劉備を釣るエサは仁姫ということですか」
孫権の妹である仁姫は劉備へ輿入れの支度のために柴桑に戻ってきている。
「まあ、あとは美味しい食べ物と数々の催し物とか美女とか」
「劉備の人となりを聞く限り、そのような懐柔策が有効とも思えませんが」
「まあ、殿に上申はしてみるつもりだよ。なんといっても劉備殿は殿の義弟御になられるわけだし」
「・・・・そう言われればそうですね」
周瑜は今更のように言った。
呂範はくす、と笑った。
「君らしくない、失念していたようだね」
「戦呆けというやつですかね」
そこから先は他愛も無い話をして、二人してひとしきり笑いあった。
この時期、各地の太守の任についていた者も一旦孫権の機嫌伺いのために柴桑へ戻ってきていた。
その中に蒋欽もいた。
蒋欽は字を公奕といい、九江郡寿春の人である。
威武中郎将の賀斉と共に、丹陽の山越討伐に向かおうとしていた。
賀斉は字を公苗と言い、呉においては地方の叛乱勢力の討伐に功績のある武人である。
城の回廊を歩いているとき、徐盛はその蒋欽に会った。
徐盛は蒋欽の姿を見止めると、立ち止まって頭を下げた。
蒋欽はその彼に声をかけた。
「徐文嚮か、久しぶりだな」
「・・・は」
だが徐盛はそう返事をしただけで顔を上げようとしなかった。
蒋欽はそれをいぶかしんだが思い当たることがあって、続けた。
「・・・まだ、宣城でのことをこだわっているのか?」
「・・・・」
蒋欽の言う宣城でのこと、というのは徐盛の記憶にも新しい。
話はまだ赤壁の戦いの以前に遡る。
宣城というところに蒋欽の部隊が駐屯していた時の話である。
その頃、周瑜の元を離れ柴桑にいた徐盛は、丹陽郡の宛陵へ山越討伐の命を受けこの地に立ち寄った。
蒋欽の本隊は豫章へ出動中であり、この地には留守部隊がいただけであった。
この留守部隊の兵の中に、村人を脅して金をせびる者がいた。
徐盛は村を歩いているときにたまたまその現場に立ち会った。彼は即刻その者を捕え、牢に入れてしまった。
孫権にこの件を上表して裁定を仰ぐと、その上司であり、宣城の指揮官である蒋欽が不在であるから、彼が戻り次第、任せる、といってきた。
階級も蒋欽が上であり、その部下を勝手に投獄してしまったことは命令系統を無視することになる。
蒋欽の留守部隊の校尉にそう徐盛は攻められたが、彼は罪人は罪人だと譲らなかった。
しかし、たしかに自分のしたことは蒋欽への越権行為となることは確かである。
そのことへ、蒋欽本人へ話そうにも、彼の帰還を待つ余裕もなく自分の役目もあることで、すれ違いになってしまった。
そしてそのまま会うこともなく、今に至る。
「あの役人はクビにした」
「・・・」
徐盛はハッ、と顔をあげた。
「おまえの言うとおり、あれは罪人であった。あの後、幾人かの村人からおまえへの感謝の言葉を得た。おまえのしたことは正しいよ」
「・・・は。しかしたしかに某は蒋中郎将殿をないがしろに致しました。このことは申し開きもなく・・・」
「いや、それはもういい。いつまでも過去に囚われているより明日の戦のことを考えるほうが有意義というものだ」
徐盛は彼に恐縮し、頭を垂れたままであった。
「時に、今どこの部隊に所属しているのだね」
「は。某は今周将軍の下におります」
「ほう、では南郡から戻ってきたばかりか。ではこの後の沙汰はまだか」
「はい」
「そうか、できればおまえを麾下に迎え入れたいと思っているのだがな」
「ありがたき申し出なれど、こればかりは殿の裁量でございますれば」
「まあ、そうだな。機会があれば、またそういうこともあるだろう。では」
徐盛は彼を見送って一礼をした。