(10)遠想
ふと、目を覚ますと、あたりはまだ暗い。
少し眠っていたのだろうか。
周瑜は寝床に横たわったまま、暗い天井を見上げていた。
徐盛の言ったことは少なからず周瑜に衝撃を与えた。
10年前、徐盛も巴丘にいたのだ。
自分の身の上のことに気づいたとしても不思議ではない。
あれは周瑜のことをよく見ている。
周瑜はゆっくりと目を閉じた。
10年前-
あれは建安五年のことだ。
孫策と別れ、身重だった周瑜は巴丘にあった。
ひどかった悪阻もようやく治まり、徐盛に守られ静かな時を過ごしていた。
「…女というものは不便なものだな…」
ふと、庭に向かって胡床に腰掛けている周瑜がそうこぼした。
「不便、ですか」
庭に控える徐盛は周瑜を見上げて応えた。
「こう腹が大きくなっては何をするにも大変になる」
周瑜は苦笑まじりに言った。
「某にはそれが不思議に思えます。人の体の中で別の人間の子がどうしてできるものなのかと」
「ふふ。そうだね、私も不思議に思うよ」
そう答えながらも周瑜は幸せを感じていた。
孫策の子を身篭ったこと。
それを孫策が喜んでくれたこと。
そして…
自ら拒んだとはいえ、妻にと望んでくれたこと。
これ以上のことがあるだろうか。
周瑜はそっと目を瞑った。
自分は我侭だ。
そしてそれを受け入れてくれる孫策は優しい男だと思う。
子のことはこの後考えよう。
孫策には大喬との間に子がいる。
孫策が王となったとき、後継のことで揉めたくはない。
生まれる子が男子だったときでも、子は周家の子として育てるつもりである。
小喬には手間をかけさせてしまうことになるだろうが…。
そう考えたとき、ふいに思い至った。
既に自分は人の子の母親として生きていかない選択をしている。
体は女でも心は男なのだな、と思う。
「…時に文嚮」
「は」
「おまえは所帯持ちか?」
「いえ。独り者でございます」
「嫁をもらう予定は?」
「当分考えておりません」
「ふむ。まあ、戦続きであったしな」
「…某のことなどお気になさらずとも」
「そうはいかぬ。部下のことを気にかけぬ将は思いやりが足らぬのだと私は思うぞ」
「某の務めはあなたをお守りすることです。それ以外のことに今は気が回りませぬゆえ」
「…まあ、いい、落ち着いたらそのうちおまえに良い娘を世話してやろう」
徐盛は返事をせず、ただ頭を下げた。
その徐盛は今もまだ独り者である。
10年前、そんな話をしたことすら、今の今まで忘れていた。
周瑜は閉じていた目を開けた。
「思いやりが足らぬ、とは私のことだな…」
いつも、誰かに助けられてきた。
誰かに心配させて、それでも意地をはって生きてきた気がする。
いつも必要なこと以外無口な徐盛が、どんな思いであのような進言をしたのだろう。
10年前のことを、おそらくは彼も思い出したに違いない。
長江の水は冷たかった。
あの水に浸かっても、馬に揺られてもなお、この身の命は繋がっている。
まるで抗うかのように。
あの場に彼らが来たことこそが天の意思なのではないか。
徐盛の言うように、これこそが天啓であったのかもしれない。
そうだ、短絡的な考え方は捨てよう。
現実を受け入れよう。
そのうえでどうすべきか、考えよう。
周瑜はうとうとと、まどろみのなかに意識を失っていった。
一方、江東より遠く離れたここ、涼州ー。
曹操が張魯討伐のため、漢中へ侵攻しようとしているとの知らせが届いたのはつい先程であった。
「むざむざ殺されにいくようなもんだ、なんで父上にはそれがわからんのか!」
昨年、馬騰が曹操の命により、都へ行くと言った時、馬超はそう言って反対した。
だが、父は自分は帝のためにその務めをまっとうするためにいくのであって、曹操の手から帝をお助けするためなのだ、といってはばからなかった。
馬超の父はあくまで朝廷を尊重する立場を貫いている。
その精神は真に尊敬すべきではあるが、馬超にしてみれば無謀というより他にない。
奸臣曹操の手にすでにおちているものを取り返すことなど、もはや不可能であろう。
いや、それどころか曹操は父を捕え、人質にしてこの西涼を渡せと言ってくるかもしれない。
もはや帝になど、なんの力も意味もないのだということが、なぜ父にはわからぬのか。
それともわかっていて、むざむざ敵の手の中へと歩んでいったのであろうか。忠義の士として。
万一、父を人質に取られたとしても、西涼の支配権を渡すつもりはない。
父もそれはわかってくれるだろう。
だが、できればそうなるまえに、曹操を討たねばならない、と考えていた。
西涼の城の自分の居室で、己の兜を前に馬超は思いを巡らせていた。
いつの間にか、外は雨が降ってきていたようで、その雨音がかすかに聞こえる。
「…雨、か」
ふと、その瞳は遠くを見る。
いつかの、雨の中での逢瀬。肌を合わせたあの美貌の策士。
ー何かの都合で曹操があなたを都に呼びつけるようなことがあればご注意なさるべきですー
あの美貌はそう言っていた。
実際には父である馬騰が呼びつけられることとなったのだが。
そして、ここへきての曹操の漢中への出兵の知らせ。
漢中へ行くと見せかけてそのままこの涼州へと攻め込んでくるつもりではないのか。
そして、万一の切り札として父を人質にしておくつもりなのではないか。
ならば、むざむざ手をこまねいて彼奴をこの地に入れてやる必要はない。
やられる前にやってやろうではないか。
言われたからではないが、兵をあげるのならこの機を逃してはならない気がする。
それには兵を、仲間を集めねばならない。
そのためには父と不仲であったかつての盟友たちの力が必要である。
韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬玩といった古豪の連中である。
彼らはこの地の豪族であり、決して無視できない存在である。
だが彼らと馬超の父馬騰は現在仲違いしてしまって、うまくいっていない。
万が一、彼らが曹操側についてしまってからではたとえ馬超といえど、対抗するのは難しい。
武のみを頼りにしてきた馬超だが、こうなっては自ら頭を下げることも必要なのである。
それくらいは心得ているつもりだ。
褥で語った、壮大な策を、馬超は憶えている。
そしてそれが絵空事ではないことも。
曹操を討伐するために挙兵するのであれば、まずは兵力を確保すること。それに見合う糧食を用意できること。
寝物語にしては艶っぽくない話をしていたものだ、と苦笑する。
だが、それが今現実になろうとしている。
あの智謀が今ここにあったなら、事態はもっと違っていただろうに。
そう思うと、口惜しい。
やはり無理やりにでも奪ってくるのであった、と馬超は思った。
それが叶わぬとなれば一層思いは募るというものだ。
「・・・それにしても、女だてらによくやるものだ」
馬超は思い出し笑いをした。
いつか周瑜が軍をひきいて北上してきたときに、その軍に恥ずかしくないだけの数を有していたい。
それが同盟を対等に行うための方策のひとつでもあった。
あんな女は知らない。
見たことも想像したこともなかった。
再び、会いたい、と思う。
そこへ、馬超を呼ぶ部下の声がした。
「何、韓遂殿が?わかった、すぐ行く」
馬超はすぐに考えを切り替え、席を立った。
当然ではあるが、彼は知らない。
遠い空の下で。
その周瑜が、彼の子を身篭っていることを。
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