(11)決路


あれから数日、徐盛は何度か周瑜邸に脚を運んだが、体調不良を理由に会うことは叶わなかった。

小喬が申し訳なさそうに応対してくれたのだが、彼女も事情は知らないようであった。

「何も話してくださらないんですの。ただの過労だから、としかおっしゃらなくて。張先生も疲れのたまりやすい体だから安静に、としか…。でも、お食事もろくに摂らないし、いつもなにか考え事をしてらして、話しかけても上の空で…そんな状態ですのに、あの方は私に姉のところへ行けと言うのですよ?私、どうしたらいいか…」
俯いて肩を震わせる小喬を見て、いたたまれなくなった。
徐盛は、不器用ながらも、彼女を労わる言葉をかけて、その場を辞した。

さて、どうしたものか。
このままいけば、いづれはばれることだ。
いつまでも隠しおおせるものではない。
事態は10年前のあのときより更に悪いのだ。

そして、万が一にでも懐妊していることが孫権に知れれば、誰の子かと尋ねるだろう。
だがその時、おそらくは周瑜は真実を告げはしない。
そうなればおのずと一緒にいた自分にも詰問するであろう。
何があっても、それが誰であっても、周瑜が言うなというのであれば口を噤もう。
それでもどうしても納得しないというのであれば、おこがましくはあるが自分だと名乗り出ても良い。

そこまで考え付いて、徐盛は苦笑する。
もしそうなったら周瑜は怒るだろうか。
いや、周瑜以上に孫権は怒るであろう。もしかしたら切り殺されるかもしれぬ。
信頼して傍においていた部下なのに、上司である周瑜に手を出したとなれば、孫権が怒るのも道理である。
自分が孫権の立場なら、その場で斬って捨てるであろう。
孫権がいかに周瑜を大切に思っているか、彼なりに理解はしているつもりである。
だがたとえ、そこで殺されたとしても、あの方を守れるのならば本望だ---。
徐盛は本気でそう思っていた。

いづれにしても、ともかくは最悪の事態への心構えだけでもしておかねばならない。
周瑜のために自分ができることは何かないものか、そんなことばかりこの数日考えていた。


そんなとき、徐盛は中書令に呼ばれて登城した。
呉では現在この地位にいるのは赤壁で功のあったカン沢である。
平たく言えば、人事を任されている役職である。
彼に呼ばれるということは、つまり人事異動の通告を受ける、ということである。
彼にしてみれば、ついにこの日が来てしまったか、と重い心持にさせられる時であった。

中書令の執務室を訪ねると、カン沢は役人らしく、山ほどの書や竹簡が積み重ねられた机の前に座していた。
徐盛は勧められるまま胡床に座る。
「周公瑾が不例で登城せぬので、おぬしの配属先を、延々決めかねておったのだがね」
「は・・・」
ついにきたか、と徐盛は思った。
「先日、蒋欽から配属願いが届いておってな。おぬしの配属先が決まっていないのならば、自分の配下に加えたいと申し出があった」
徐盛は、先日蒋欽と城で会ったことを思い出した。
あんなことがあったあとでも、自分を望んでくれるとは。
「おぬしを副軍に任じ、蒋欽とともに山越討伐を命ずる」
「は」
「詳しいことは蒋欽から聞く様に」
「承知つかまつりました」

これで自分は周瑜の元を去らねばならなくなった。
これまでも何度か離れたことはあったが、正式に転属となったのは初めてだった。
寂しくもあるが、宮仕えの身では命令されればそれに従うより他にはない。
いかに周瑜を崇拝していたとはいえ、徐盛もこの国の武将の一人である。
周瑜の身が心配ではあるが、あの体では当分戦に出ることはないのだろう。
彼にとっては、今度のことは逆に僥倖であった。
周瑜の気持ちを考えれば、不謹慎であるかもしれないが、少なくとも自分の知らないところで周瑜が戦に出ることはなさそうだ。

落ち着いたら周瑜邸を訪ねて今度の配属のことを報告しよう。
こうなったからには、離れていても武勲をあげて周瑜を喜ばせたい。
それが武将である彼の、元上司への唯一の恩返しであるように思えた。



徐盛は、部屋を辞するとその足で蒋欽の元を訪れた。
「おお、徐文嚮か。待っておったぞ」
そう言って徐盛を迎え入れた蒋欽のいた部屋には、呂蒙がいた。
「これは・・・呂将軍」
呂蒙は先の論功行賞で偏将軍に昇進していた。
「文嚮か。公奕殿の麾下に入るんだってな」
「はい」
「そうか。がんばれよ。臨城の山越はしつこいらしいぞ」
「臨城・・・ですか」
蒋欽が後を継いで話す。
「ここからは少し遠いが、補給路はきちんと確保してある。多少の長丁場にも耐えられるから安心しろ」
「は」

「ところで、呂将軍はこちらで何を?」
「うむ。書について少し語っていた。少し時間ができたものでな」
そういえば、孫権に言われて呂蒙は学問を始めたが、そのとき、蒋欽も一緒に学び始めたという話しを聞いたことがあった。
「書というのは孫子だがな」
蒋欽は笑った。
兵法についての論議でもしていたところか。

その後、呂蒙が退出すると、蒋欽は今度の山越討伐についての作戦を徐盛に話した。

「ところで徐文嚮、おぬしは長年周公瑾の副官を務めていたようだが、彼の病状はそんなに悪いのか?」
蒋欽は話をかえて、徐盛に訊いた。
やはり気になるらしい。
「まあ、俺や賀斉なんぞはどうせ居残り組だろうがな。若い連中は手柄をたてるいい機会だといって、かなり熱くなっておった。周公瑾が病に倒れたというので、例の策が頓挫してしまっているだろう。彼らが随分と気にしておってな」
「先日某が伺った時には、あまりお加減はよろしくないようでした」
徐盛はまた別のことを知ってはいたが、それを告げるわけにはいかない。
「そうか…。あの策を彼以外の人物が実現できるとも思えんしな。残念なことだ」

蒋欽は先代の孫策に仕えた譜代の将で、周瑜とも旧知の仲である。
江賊あがりという点では甘寧と同じであるのだが、性格はかなり違う。

昇進して将軍と呼ばれる身になっても大変な倹約家で、贅沢という言葉とは無縁の男として有名でもあった。
そういった姿勢が呂蒙とも気が合うのだろう、二人は孫権に諭され、一緒に学問を学んだ仲でもある。

徐盛は周瑜以外の者を心に入れる気にはなれないのだったが、彼のような人物には好感を持った。






魯粛の、例の噂は収まる気配もない。
行く先々で密やかに陰口を叩かれていることは彼にもわかってはいる。
だが、彼は否定どころか何の弁明もしない。
相変わらず飄々と登城して仕事をしている。

そんな宮中に、どうやら周瑜が思いのほか重病である、という話が伝わってきた。
呂蒙と徐盛が見舞いに行った後、周瑜から孫権宛に『病が重く、来る者に悪い風を与えてしまう故見舞いをお控えくださるよう』と連絡が届けられたからである。
「そんなに重いのか・・単なる過労ではなかったのか」
孫権も心配していた。
そして周瑜邸へ使いを出し、薬草など必要なものは手配すると伝えた。

「しかし、これでは策どころではないな。公瑾の病が癒えるまで、作戦は中止だ。幸い、曹操もさすがに赤壁での大敗以来、しばらくは南下はしてこないだろうからな」
孫権はそう決定を下した。
配下の武将たちは露骨にがっかりしたものである。
赤壁以来、大きな戦がないため、手柄を立てたいと思う武官たちにとっても、作戦の中止は痛手であった。

そしてその怒りの矛先が魯粛に向いたのも、仕方の無いことであった。



宮中の一室に、ある一団が集まっていた。

「聞いたか、周公瑾殿の病状が思わしくないとか」
「きっと毒を盛られたに違いない!例の策を披露されたのはつい先だってのことではないか!あれからいくばくも経っておらぬというのに急病などとはおかしいではないか!」
「見舞もできないほどの重病だと聞く。もし、このまま周将軍が復職できぬとなれば…」
誰かが立ち上がった。
「もう我慢がならん。なぜ殿は魯粛を拘禁せぬのか」
「今日も呂範殿と口論なさったとか」
「ああ、聞いた。また劉備があつかましいお願いをしてきたとか」
「わかっている!魯粛は劉備の手先なのだ。だから周瑜殿の策を成させるわけにはいかないのだ」
「ということは…劉備も益州を狙っていると?」
「決まっている。魯粛が劉備に策を漏らしたのだろうさ」
「なんと…」
「しかし、解せぬ。殿はなぜ魯粛を傍に置いているのだ?」
「殿の妹姫が劉備に嫁いているからさ。劉備に繋がっている魯粛を無下にはできぬのだろう」
「ならばいられぬようにしてやればよい」
「…何?」
ざわ、とその場の空気がざわめいた。
「悪い影響が出ぬうちに魯粛を討つのだ」
「…し、しかし」
「殿に知れれば斬首だぞ」
「知れれば、だろう」
「…」
「闇討ちで夜盗の類の仕業に見せかけるのだ」
「こ、殺すのか…?」
「殺す必要はあるまい。あくまで思い知らせるだけだ」
「いいだろう。いつやる?」
「近いうちに。しばらくは彼奴の行動を見張り、機会を伺うのだ」





そして、事件は起こった。


城下で、魯粛が闇討ちにあったのである。





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