(12)闇討ち
時は少し遡る。
劉備が鎮江までやってきて、荊州を分けてほしいと頼みに来た。
それを聞いて、呂範は登城して反対意見を孫権の前で述べた。
そして劉備をこのまま呉へ引き込み足止めして軟禁してしまいましょう、と進言した。
だがその場にいた魯粛は、またしてもこれを退けた。
呂範はチラ、と魯粛を見て言った。
「子敬殿はなぜそこまで劉備にこだわるんです?ヤツは我々の赤壁での勝利を横取りする気なんですよ?」
すると魯粛は淡々と返すように言った。
「烏林で曹操を撃退したとはいえ、国に帰った彼奴はしばらくすればまたちょっかいをかけてくるでしょう。今だって、合肥あたりでは小競り合いが頻発しています。劉備軍との同盟を強化すれば、曹操もそう易々とは手を出せないでしょう。それに劉備軍は二万もの避難民を抱えているのです。人道的にもこれを拒否することはできません」
「あなたは甘い!それが彼らのやり口なのですよ!」
呂範は握った拳で膝を打った。
「あなたと同じことを周公瑾にも言われましたよ」
魯粛はケロッとして言った。
呂範は露骨にムッとした表情をした。
「どのみち、殿の妹御のこともあります。劉備をどうするかは殿がお決めになることです」
つまり、魯粛の言うことには、殿の妹姫を劉備に嫁がせる以上、彼らと事を構えるわけにはいかないというのだ。
妹に甘い孫権には、魯粛の説はかなりの威力を持つだろう。
それがわかっているから、呂範はそれ以上口を出すのを止めた。
魯粛は広間を離れ、回廊を歩いていると声をかける者があった。
諸葛瑾である。
彼は文官であるが、同じ時期に孫権に仕えたこともあって、親交があった。
「大丈夫ですか?」
妙に神妙な顔つきで諸葛瑾が訊くと、
「はて、なんのことですかな?」と、魯粛は飄々と応えた。
「先ほども呂子衡殿とやりあっていたようですが」
「ええ。ですがそれが何か?」
「敵が増えますねえ」
「承知の上ですよ」
諸葛瑾はふぅ、と一息ついた。
「まあ、心当たりがないのならそれでいいのですが」
魯粛は破顔して諸葛瑾に一礼した。
「心にかけてくださっているだけで結構ですよ」
「いろいろと噂話なんぞが耳に入ってくるのでね、少々心配になりましてね」
「私の不徳のいたすところです。どうかお気になさらず」
「そうですか、ではどうぞこれをお持ちになってください」
諸葛瑾は竹簡を魯粛に渡した。
「これは?」
「少し、気になったことがありましてね、あなたにお伝えした方がよいかと思いまして」
「そうですか、それはわざわざどうも」
魯粛は竹簡を懐に入れた。
「それをどうするのかは、あなたにお任せします。どうか、お気をつけて」
諸葛瑾はそういって去って行った。
「や、徐文嚮殿」
城下で声をかけてきたのは宋定という武官である。
「おぬし山越討伐に行くそうだな」
徐盛と同じく寒門の出で、いわゆる叩き上げの武将である。
宋定の役職は都尉であった。家柄など後ろ盾のない平の武官で都尉といえばかなりの出世頭といえる。
ちなみに当時の徐盛の役職は、宋定よりは上である。
「これでまたおぬしとの差がついてしまうなあ。やはり大きな戦がないと俺達には厳しいよ」
「戦などないに越したことはないと思うが」
「おぬしは上司に恵まれているからそんなことを言うのだ。俺達寒門出の下っ端にとっては戦で手柄を立てることこそが肝要なのさ」
恵まれている、と言われて、徐盛はあえて否定をしない。
それは確かにそう思うからだ。
「だがおぬしは周将軍の部下だったから、例のあの策が中止になってさぞや悔しいであろう?」
「…」徐盛はそれには答えなかった。
簡単に答えることができないほどに、徐盛はいろいろな事情を知り過ぎていた。
そんな彼の複雑な事情など知る由もなく、宋定は舌をすべらせていた。
「それもこれも魯粛殿のせいだ。なあ、そうは思わないか?」
宋定は語気を強めた。
「某はそうは思わん」
「なぜだ?あの御仁がなにかにつけて口を挟むもんだから周将軍も…。毒殺されかかったのだと専らの噂ではないか」
「宋都尉」
徐盛は宋定の言葉を遮った。
「滅多なことは言わぬがいい。それに、周将軍は毒など盛られておらぬ」
宋定は徐盛の迫力に押され、怯んだ。
「そ、そうか…まあ、噂だ、噂。だが俺は魯粛殿のやり方を許せんのだ」
「……」
「実は俺のまわりにはそういった反魯粛を唱える者が多い。ひとつ、なにか抗議でもしてやろうかと申していたところでな。周将軍に近いところにいたおぬしが加わってくれたら、我らも士気があがるのだがな」
宋定の言葉に、徐盛はひっかかるものを感じた。
「…我らとは?そのような徒党が既にあるというのか?」
「い、いや、まだそのような形ではないが…」
宋定は徐盛がじっと睨むので、咳払いをひとつし、話題を変えた。
「時に、周将軍のお加減はいかがなのであろうか?」
「…このような道端で話すことではない」
「はっ、そうか、相変わらずだな」
「おぬしこそ、このようなところで何をしておる」
「俺は賊破都尉だからな。部下たちと市中の見回りにでるところだよ」
「そうか」
そうしていると、城から他に数人の男たちがぞろぞろと出てきた。
徐盛がそちらを見ると、男たちが手をあげて合図をしている。部下だろうか。
すると、宋定がそれに応え、
「じゃあ、またな」
と言って男たちの方へ小走りに向っていった。
それを徐盛は不審げに見送った。
魯粛はその日、共も付けず、一人で城下を歩いていた。
城勤めの官吏は大抵、馬や車を使うことが多いのだが、城下に住まう者の多くはこうして徒歩で通う。
少なくとも城下町での治安は維持されていたので、市民も安心して暮らせていた。
彼は城下町の夕方の市に顔を出していた。
魯粛は単身赴任の身であったから、こうしてたまに自ら買い物をすることもあった。
柴桑には孫権が居を置いていることもあって、行商人も多くこの地を訪れていた。
朝と夕に市場が開かれることが多く、ここに暮らす者の胃袋を支えていたのである。
そこで野菜をいくつか購入し、片手に抱えながら家路についた。
すっかり暗くなって、表の人通りもだいぶまばらになってきた。
「そこもとは魯子敬殿とお見受けいたす」
夕闇の中、幾人かの人影が魯粛の行く手を遮った。
「…そうだが、誰かね?」
「名乗るつもりはない」
「ほうほう、では名無しさん、私に何の用かね?」
「知れたこと!国に仇なす輩に天誅を!」
そう叫ぶなり、いきなり斬りかかってきた。
「わぁっ!」
魯粛は悲鳴をあげて、咄嗟に持っていた野菜の束で身を守った。
野菜は無残に切られバラバラと宙を舞った。
「おい!真剣は使うなと言っただろう!」
「わ、わかった…」
男たちは手に木刀を持ち、魯粛に躍りかかった。
魯粛は男たちに背中を向け、逃げ出した。
「逃げるぞ!追え!」
逃げる人影、それを追う複数の人影。
それらはやがて追いつき、打ちすえる音とうめく声があたりに響いた。
やがて、そこへ馬の蹄の音が近づいてきた。
「おい!そこで何をやっておる!?」
「誰か来たぞ、おい」
「引け!引け!」
人影の一団が駆け去っていく。
あとに残された人影はうずくまったままだ。
馬で近寄ってきた男は、その人影の傍まで来て、馬を降りた。
「おい、大丈夫か?」
「うう…」
地面に突っ伏して呻く男を抱き起こすと、月明かりの下、その顔を見て男は驚いた。
「…!あ、あなたはもしや…!?」
「痛た…っ、た、た、たっ…あちこち殴られてひどい目にあった…」
「大丈夫ですか?立てますか?血が出てるじゃありませんか」
「ああ…なんとか…痛たたたっ、こりゃどこか折れたかな」
魯粛は額から血を流していたが、どうやらしゃべるのに問題はなさそうだった。
「自分は市中の見回りをしておりました洪と言います。ここへ通りかかってよかった」
「…いや、助かった。あれ以上殴られておったら背骨が折れておった」
「今のは一体何者です?」
「さて、とんと見当がつかん。だが、まあ、こういうこともあるかもな、とは思っておったよ」
「ふむ。では夜盗の類ではないということですか。どんな奴だったか、顔は見ませんでしたか?」
「この暗闇だ、見えるはずないだろう」
「そうですか…犯人を捕まえねばなりませんが、それでは難しいかもしれませんね」
「ん?ああ、いい。それは」
「…は?」
「捕まえなくてもいい。ほっといていいよ」
「ですが」
「いいんだ。彼らの気持ちもわからんでもない。それに彼らは私の命を奪おうとはしていなかった」
「あなたがそうおっしゃるのなら、そうしてもいいですが、このことは報告せねばなりません」
「…助けてもらってなんだが、このことは報告しないでくれないかね。殿のお耳に入ればまた余計な心配事を増やすだけだ」
「ですが、その怪我は…」
「転んだ、とでも言うさ、大事ない」
「私の一存で決めていいことかどうかわかりかねます。陳五校尉に判断を仰ぎますが、それでよろしいでしょうか」
「陳五校尉…?ああ、陳武か。おぬし、陳武の部下か。よし、わかった。…すまないが家まで送ってくれないかね。足もやられて相当弱っているようでね」
「はい」
洪は魯粛に肩を貸して立ち上がらせた。
その際、魯粛の懐から竹簡が落ちた。
竹簡は魯粛の替わりに殴られてひしゃげていた。
昼間、諸葛瑾にもらったものだ。
「痛たたたっ…」
「ほ、本当に大丈夫ですか…?このまま医者のところへ行った方がよろしいのでは」
洪はそれを拾い上げた。
「いや、これを懐に入れていたおかげで脇腹を蹴られたが臓腑はどうやら無事のようだ・・・いや、まったく運がいい」
魯粛は竹簡を受取り再び懐へ入れた。
「この先に知り合いの医者がおります。よければお連れしましょう」
「そうか、それじゃあ悪いが家に帰ってから呼んでもらおうか」
魯粛は痛がりながらも洪に手をかりて馬に乗り、洪はその手綱を引いて魯粛の家まで彼を送った。
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