(13)竹簡
その翌日。
「何、魯粛が?」
孫権は報告を受けて驚いた。
周瑜に続き、魯粛まで病に倒れるとは。
「なんと、この町には流行り病でもあるのか?」
魯粛が急な病のために、しばらく登城できない、と使いを寄越したのである。
その少し前、魯粛が暴漢に襲われたと部下から報告を受けた陳武は、魯粛の邸に彼を見舞った。
「…わかり申した。ではこの件は内密といたしますが、密かに犯人は捜させます。これは某の仕事の範疇のこと、口出しは無用に願います」
「おぬしも仕事熱心なことだな」
「性分ですので」
「仕方あるまいな」
「殿にはこのこと、なんと申されるおつもりか?」
「病にかかったとでも言うさ。まさか闇討ちに合ったなんて、恥ずかしくて言えるものではないからね」
魯粛は悪びれずにそう言った。
「…魯子敬殿には犯人にお心当たりがあるのでは?」
「いや、それはわからん」
「本当ですか?」
「…心当たりがありすぎて、な」
「は?」
魯粛はくっく、と笑った。
「おかしいとは思わないか」
魯粛が急な病でしばらく登城しない、と聞いた呂蒙は首をかしげた。
「数日前までは確かにお元気でありましたな」
徐盛がそう答えた。
「本当に病なのでしょうか」
徐盛の疑問に呂蒙は「さてな」とだけしか答えなかった。
「そういえば、遠征の準備はいいのか?」
「はい。毎日徴兵と訓練ばかりやっております。それが終わり次第出発することになるかと。今日あたり、周将軍に出立の報告に行こうと思っております。お会いくだされば、の話ですが」
「…そうか。俺も、魯子敬殿のところへ見舞に行ってみることにするよ」
柴桑は赤壁の戦以来、孫権軍の本拠地として機能している。
もともと、孫策が挙兵したときは呉郡に都をおいていたのであったが、赤壁の戦いの前に軍のほとんどを柴桑へと移したのである。
赤壁で勝ってからは一旦柴桑からほど近い武昌に都を移すのであったが、更にこの数年後、現在の秣凌を建業と改めて孫呉の都とするのである。
それ故、孫策の挙兵時からの将や武官たちは、先の赤壁での戦もあり、戦の勝敗がはっきりするまで家族を呼び寄せないでそのまま呉郡においてきている者も多かった。
また、太守や官吏として任地が決まっている者たちも、多くが各任地に家族を置いてきているので、この柴桑には単身で行き来している。
魯粛もまた例外ではなかった。
それで、魯粛は通いの女中や下働きの下男がいるものの、未だ単身赴任状態であった。
呂蒙は嫁をもらった際、母親を呼び寄せていたので、家に帰れば家族がいる。
病にかかって、その面倒をみる家族もいないとあればさぞ心細いことであろう、と思う。
魯粛の邸に行くと、女中が出てきて通してくれた。
呂蒙は、尋常ならざる魯粛の様子をみて、唖然とした。
「どうなされたのか…!これは」
寝台に半分上体を起こして横臥する魯粛の顔は青あざができ、額が腫れあがっていた。
病でないことは一目瞭然である。
呂蒙は若い頃、よく喧嘩をしてこんな顔になっていたものである。
だがこの魯粛が城下で喧嘩などするはずもない。
「いや、すまんな。私は嫌われている故、誰も見舞いになんぞ来ないと思っていたよ」
「病と伺っていましたが…、いやしかし、これは只事ではあるまい。どこぞで暴漢にでも襲われたましたか?」
「実は、落馬してね。軍属ともあろうものが落馬で怪我をしただなんて、どうにも恥ずかしくてね。病ということにしたんだよ」
「落馬…」
呂蒙は懐疑的な目で見た。
夜着の袷から体の下にも怪我をしているのが見受けられる。
顔面が左右とも腫れている。
あきらかに落馬によるものではない、と呂蒙は思った。
「顔の腫れが引けばもう登城しようと思うんだがね」
「…」
呂蒙は魯粛が隠そうとしていることがなにかはわかっていた。
間違いなく、彼は誰かに襲われたのだろう。
そしてそれは、十中八九、城内にいる孫軍の者であろう。
だが、城下で暴漢に襲われたなど、孫権の知るところとなれば余計な混乱を城内に巻き起こすこととなり、例の噂も自然と耳に入るだろう。
果たしてそれでいいのだろうか。
呂蒙は鋭い眼つきで魯粛を見た。
呂蒙は魯粛の言に乗ることにした。
「その、主を振り落とした暴れ馬はどうしました?」
「さて。腹が立ったのでどこかへ放逐してしまったよ」
「捕まえて懲らしめなくてもいいのですか?」
「ああ、もういいよ。私を乗せたくなかったんだろう。自分のことしか考えていない動物に何を言い聞かせても無駄だしね」
魯粛は賊を馬にたとえているだけで真実を語っているのだろう。
「しかし、主を振り落とすとは、躾のできていない馬です。そのような馬は他の主にも従いますまい。今のうちにきつく罰をあたえるべきかと考えますが」
呂蒙がそう言うと、魯粛は真顔でじっと見つめ返した。
「…おぬしはなかなか、武門一辺倒の男かと思っていたが、そうでもないのだな」
魯粛は感心して言った。
「やはり、誰かにやられたんですね」
「そう、隠しおおせるものではないことはわかっていたがね。だが、本当に誰にやられたかはわからんのだよ」
「例のあの噂を鵜呑みにした輩の仕業というところですか」
「だろうねえ。だが私を殺す気はなかったようだ。ちょっと懲らしめてやろうとでも思ったんじゃないかね」
「そのお顔でちょっと、では済まないでしょう。登城して、顔を合わせればわかりませんか?」
「それを知ってどうしようというのかね」
「手綱を締め直してやります」
「おぬし、なかなか面白いことを言うな」
魯粛ははっはっは、と笑った。
魯粛は枕もとに置いてあったひしゃげた竹簡を手に取った。
呂蒙はそれを見止めて、「それは?」と訊いた。
「これを懐に入れていたおかげでこの程度ですんだんだよ。皮肉なものでね。中身をみるかね?」
魯粛は呂蒙に竹簡を渡した。
呂蒙はそれを開いて中身を見た。
「・・・これは」
「本当はそのまま捨ててしまおうかとも思ったのだがね。それに命を救われたとなれば、やっぱり役に立てなければならない、と天命のような気がしてね」
「これを他に見た者は?」
「おらん、おぬしが初めてだ」
「そうですか・・・」
「それをどうするか、まだ迷っていてね。いっそおぬしに委ねようかと」
「えっ・・・?」
魯粛は呂蒙を見て意地悪く笑ってみせた。
呂蒙は無言で眉間に皺をよせたまま、竹簡に目を落としていた。
一方、徐盛の方は城門のところで甘寧に出くわしていた。
「よ、帰るのか?」
「興覇殿もお帰りですか」
「俺はちっと野暮用でな」
甘寧はあけっぴろげで飾り気のない男だ。あちこちに女を囲っているとも聞く。おそらくはそうした女の一人のところへ行くのだろう。
たしか家族は武昌にいるはずだが、と徐盛は思ったが、別に口出しするようなことでもあるまい。
「そういや、おまえまだ独り身なんだってな。…気持ちはわからんでもないが、早いとこ嫁さんもらっちまいな。まあ、あんだけ奇麗な人の顔を毎日見てたら、他に目がいかねえってのもわかるけどよ」
甘寧は悪びれずに言うが、徐盛にとってみれば余計なお世話というものである。
「そのうち養子でももらおうと思っておるので、別段困ることはございません」
「ふ〜ん、ま、いいけどよ。けど、あの御人は無理だぜ」
甘寧はニヤニヤしながら言った。
「そのようなことは思っておりません」
徐盛がそっけなく応えると、甘寧は更に絡んできた。
「ほ〜、そうかい?ま、そうやって自分を律していないとやってらんねぇよな?俺だったら隙を見て襲っちまうかもなあ」
そう言ってかかか、と笑う。
だがそんな甘寧の挑発にも徐盛は乗ってこない。
「ま、おまえさんもあの御人と離れるわけだし、そんな心配はもういらんか」
「…」
甘寧の言葉は徐盛にとっては切ないことだが真実であった。
「ところで、あの御人の容体はどうなんだ?」
「…あまりよろしくはないようです」
「そうか…。まあ、あの策が頓挫したのは残念だが体が第一だものな。せめて蜀くらいは取りたいと思うんだが、殿が言うことをきいてくれりゃあな。ま、あまり気にしないように言っといてくれ」
「はい」
「俺もいっぺん見舞いに行こうと思ってたんだが、城にまであんな通達がきちまったもんだから、行くにいけなくてな」
「某もお会いできませんでした」
「おまえさんが会えないんじゃ、誰が行っても無駄ってことか」
「甘将軍はこの後どちらに?」
「俺はまた武昌に行くんだ。そっから夏口の守備だ」
「またしばらくお目にかかれそうにありませんね」
「ああ。次に会うのはどこぞの戦場かもな」
「…そうかもしれません」
「じゃあ、な。達者でな」
甘寧は片手を挙げて、背中を見せた。
時は移る。
徐盛は帰るつもりでいたが、思い直して周瑜の邸へを足を向けた。
門前払いを食らうかもしれないが、それでもいい。
自分の出立することだけでも伝えておければ。
今度、いつ会えるのかも、今となってはもうわからないのだから。