(14)寂寥


周瑜の邸に着くと、小喬が出迎えてくれた。

徐盛は門前払いを覚悟して行ったのであったが、驚いたことにすんなり通してもらえた上に、彼女は
「徐文嚮殿がいらしたらお通しするように、と伺っておりましたの」と言う。

「徐文嚮殿、あの…先日、ご主人が教えてくださいましたの。これ以上もう隠しておくことはできないって。それで私、やっと事情が呑み込めて…。徐文嚮殿はご存じだったのでしょう?」
徐盛は頷いた。

「徐文嚮殿、それであの…お相手がどなたなのか、ご存知?ご主人は私の知らない人だから、って教えてはくださらなくて」
「それは将軍のおっしゃるとおりです。聞いても奥方にはわからぬお人です」
「そうですか…あの方のお心を捉えるような殿方がどのような方か、知りたかったものですから。不躾なことを聞いてしまいましたわね、すいません」
「いや」
徐盛としては、あの男のことは一刻でも忘れていたいのだった。
許されるのであれば存在を抹殺したいほどだ。
どんな男か、と訊かれてもよくわからないから答えようがないし、知っていたとしても答えたくはない。

それにしても-
周瑜はとうとう、彼女に話したのか。
ということは心を入れ替えたのか、と思い少し安堵した。
そしてもうひとつ、徐盛は小喬に確認しておきたいことがあった。

「…奥方はそれを聞いて、どう思われました?」
徐盛は小喬の本心を知りたかった。
彼女は徐盛を見上げて、その大きな眼をぱちくり、と見開いた。

「どう…って、徐文嚮殿、もしかして、私がこのことでご主人を嫌いになるだなんて、思っているのではないでしょうね?」
「いや、その…」
小喬は怒った顔で徐盛に食ってかかった。
「もしそうなのでしたら、とんでもないことですわ!ご主人は…先代の将軍様がお亡くなりになられてどんなにかお寂しかったことと思うのです。そりゃ…最初に聞いた時は驚きましたけど、でももうあれから10年も経ちます。どなたかにお心を許されたとしても、先代様は決してお怒りにはならないと思いますわ」
徐盛はそれを静かに聞いていた。
「なにより、深刻な病ではなくて安心しましたわ。それに…あの方が亡くなってからご主人のお心を捉える方がいたなんて。いったいどんな方なのだろう、ってそちらの方も気になってしまって。ああ、でもそうなったからにはお元気になっていただかないといけませんからね」
徐盛は安心した。
小喬は以前と少しも変わらない。
彼女も不安が一気に解けて安堵したのか、思いの丈を徐盛に思い切りぶちまけた。
弾丸のようにしゃべる彼女を彼は目を細めて見ていた。
「あ、もちろん、お子は私がお育ていたしますわ。循と同様に」
小喬は嬉しそうにそう言った。
「ご主人がお会いになりますわ。どうぞこちらへ」


部屋へ案内されると、衝立の向こうから声がした。
周瑜に会うのは何日ぶりだろうか。
小喬は徐盛を案内したあと部屋を辞した。

衝立の奥に足を踏み入れると、周瑜は上着を肩に羽織った状態で胡床に座っていた。
徐盛は、進み出るとその前にしつらえたに胡床に座るよう勧められた。
心なしか顔色もよく見え、この前会った時よりもいくぶん頬がふっくらしたように思われる。
ずいぶん、おだやかな印象を受けた。

「お加減はいかがでしょうか」
「ああ、だいぶいい。おまえには随分心配をかけたね」
「いえ、お元気になられたようでなによりです」
「小喬がいろいろと世話を焼いてくれてね」
「…お話になられたのですね」
「ああ、もうこの先隠しておくこともできないだろうと思ってね。どのみち私一人では何もできないことだし」
「お産みになる覚悟をされたのですか」
「うん。それでまだ動けるうちに柴桑を出ようと思っている」
徐盛は表情には出さずにいたが、内心驚いていた。
「もしや巴丘へ?」
「そうだ。殿には言ってしまおうかどうしようかまだ迷っているのだがね」
「しかし子が生まれればどのみちわかってしまうのでは」
「そうだね…ま、それはその時に考えるさ」
あくまで周瑜は楽観的だ。
周瑜が孫策の子を産んだかの地へ再び行くというのは些か複雑な気持ちではあるまいか、そう思うのは余計なお世話というものだろうか。
だが、周瑜の気持ちもわからんでもない、と徐盛は思う。


「ところで新しい所属はどこになったのかね?」
「蒋公奕殿とともに山越討伐の軍に配属されることになりました」
「そうか、蒋欽の…。ではもう行先は決まっているのだな」
「臨城です」
「宣城のか?」
「はい」
「そうか、手柄を立ててくるといい」
「努力いたします」
「山越など、曹軍に比べれば大したことはない。ただ力でねじ伏せればよいのだからね」
「はい」

徐盛は、周瑜の具合が良くなっていることに安堵し、例の、魯粛の件を話した。
すると周瑜は面を引き締めた。

「なるほど。私が休んでいる間にそのような流言が横行しているとは」
「魯子敬殿が先日より病と称して休んでいることも気になります」
「…」
周瑜は腕組みをしたまま、何か考え事をしているように見えた。
「将軍?」
「それは不味いな。十中八九、魯粛は闇討ちにでもあったのだ。具合はどうなのか、きいてはいないか?」
「「いえ…。呂子明殿が今日あたりお見舞いに行かれていると思いますが…、しかし、闇討ち、ですか…?!」
「おそらくは、私の献じた策が頓挫してしまったことへの不満を持つ士官あたりが画策でもしたのだろう」
「どうしてそのような」
「あの魯子敬が、前日まで登城していて急に病に倒れるとは考えにくい。おまえだって変に思っただろう?」
「はい。ですが、もしそうならなぜ病などと嘘をつく必要があるのでしょう」
「魯粛のことだから、表沙汰にはしたくないと考えているのだろう。事が公になれば犯人探しが始まり、また殿に余計な心配をかけてしまうしね。それに、今の話を聞いていると、闇討ちしたくなる気持ちもわからんでもない」
周瑜は苦笑した。

「…将軍は、魯子敬殿のことをどう思われておられるのですか」
「おまえも流言を信じているのか?」
「鵜呑みにしているわけではありませんが、将軍の示された策に魯子敬殿が賛同されておらぬことに対しては思うところもございます」
「私はね、文嚮。おまえがこの前私に意見したように、すべてを肯定する者ばかりに囲まれていないことをむしろ喜ぶべきだと思うのだよ。議論というものは、反対意見をも飲み込んで最良の策を得るためのものだ。だから必要だとも思うのだよ」
「ですが、反対ばかりされていては物事が進むものも進みません。時世の流れというものを読めぬ者は邪魔なだけです」
「厳しいね」
「思ったままを申しただけです」
徐盛の口調が強くなっているのに、周瑜は苦笑した。
「だからといって、魯子敬がこの私に毒を盛るとは思わないだろう?」
「はい」
「彼はそんな個人的なことで動く者ではないとおまえは知っている。ついでに教えておいてやるがね、魯子敬がずいぶん劉備に肩入れすると言っているが、今彼は自分の軍をどこにおいていると思う?」
「いえ、ご自分の任地ではないのですか?」
「江陵だよ」
「なぜ…。もしや有事に備えて、でしょうか」
「それしかないだろう」
「…知りませんでした」
「自分の意見にちゃんと責任を持っているということだよ。別に盲目的な劉備の信者というわけではないんだ」
「しかし、魯子敬殿はそういうことを一切お話にならないので、敵が増えるばかりです」
「そうだね…。自分をやたら大きく見せたがったり、手柄を自慢ばかりする者に比べれば、彼のそれは清廉潔白そのものだが、それはそれで問題だな」


ちょうどその時、小喬の声がして、彼女が茶を入れに入ってきた。

徐盛は胡床に座った周瑜を改めて見た。
元々痩せているためか、着衣の上からは体型の変化は全くわからない。
これならば他人に姿を見られても気づかれはしないだろう。

「私がこんな風だからね、蜀を取って張魯を併呑するという策はもはや実行できぬだろう。仮に私の体が万全になったとしても、もうその頃には手遅れかもしれない」
「手遅れ、とは?」
「曹操が西涼の馬騰を都へ召喚しただろう。関中を手に入れるつもりなのかもしれない」
「なるほど」
「それでも蜀は取るべきだと思うのだがね」
「甘興覇殿も同じことを言っておりました」
「そうか、甘寧が…」
自分がダメでも甘寧ならばやってくれるかもしれない、と周瑜は思う。
いずれにしても、もはや自分の出る幕はないのだが。

小喬が小盆に載せて茶を差し出した。
「お話が弾んでいますわね。徐文嚮殿、よろしければ家で夕餉をご一緒されませんか?」
「いえ、あまり長居して将軍のお体にさわるといけません。某はそろそろおいとまするとします」
小喬は、そうですか、と少し残念そうに言った。

「…巴丘にはいつ発つのでしょうか?」
徐盛が訊くと、周瑜は少し考えてから言った。
「殿のお許しをいただかねばならんからね。もう少しかかると思うよ。たぶん、おまえの方が先に出立するんじゃないかな」
「そうですか…」
「子明にも近いうちに寄ってくれるように言っておいてくれ」
「承知しました」
「それから」
「はい」
「魯子敬の件は私に任せてほしい」


そうして徐盛は立ちあがって行こうとした。
「文嚮」
周瑜に呼ばれて振り向く。
「今までよく仕えてくれた。礼を言う」
思いもかけない言葉に、徐盛は周瑜をみつめたまま、しばらく言葉も出なかった。
「いえ…礼などと」
やっと言葉を紡いだとき、徐盛は思わず目を逸らせた。
「この10年、おまえのおかげで私は何の心配もなく戦場を駆けることができた。だがそのせいでおまえの出世を阻んできたような気がする。これに関してはおまえに詫びねばならないね。これからは自分の栄達のため、ひいては孫呉のため、その力を発揮してほしい」
周瑜は美しく微笑してみせた。
えもいわれぬ感情が込み上げてきて、徐盛は思わず唇を噛みしめた。
まるで今生の別れの科白のようではないか。
まさかこれが最後の別れになるのだろうか?
そんなことは考えたくもない。
「…」
徐盛は一旦目を逸らせたが、ふと顔を上げ、すがりつくような目で周瑜を見た。
「どうした?」
「…いえ…なんでも」
周瑜は涼やかに笑っていた。
その顔を見て、徐盛は何も言えなくなってしまった。


徐盛が辞去した後、小喬は茶器を片づけながら言った。
「旦那様、あんなことを言われたら徐文嚮殿、泣いてしまいますわよ」
「あんなこと?」
「今まで仕えてくれて礼を言う、だなんて」
「なにか、おかしかったかね?」
「今生の別れみたいでしたわ」
「そうかい?」
「そうですわ。徐文嚮殿が旦那様のことを慕っておられることはご存知でしょうに。お気の毒に、あのまま何も言えずに俯いてしまったままでしたわ」
「だからって何も言わずに別れるのもそっけないじゃないか」
「それはそうですけど…」
小喬は内心、周瑜の鈍感さに呆れていた。
そして徐盛に同情した。


徐盛にとってあの場で言ってほしかった言葉は礼や詫びなどではない。
ましてや別れの言葉でもない。
彼女が思うのは、徐盛も同じであったことだろう。

また会おう、と。
再会の約束。
ただそれだけだったに違いないのだ。



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