(15)注進
翌日、呂蒙が登城すると、徐盛を探して出向いた下級兵士たちが出入りする営舎でちょっとした騒ぎが起こっていた。
「何だ、何事だ?」
「あ、これは呂将軍」
下士官のひとりが呂蒙を出迎えた。
「五校尉の部下の都警邏官たちが来ているようです」
「五校尉の部下…?」
不審に思っていた呂蒙の目に、一人の男が映った。
「あれは…陳子烈」
営舎の中で歩き回っている陳武を見かけた呂蒙は、彼に声をかけた。
「何をしているんだ?」
「審問です」
「審問…?」
「風紀と規律の乱れを正すためです」
陳武は毅然として言った。
「…ちょっといいか」
呂蒙は陳武を呼んで営舎の外へ出た。
「ひょっとして、魯子敬殿の一件を調べているのか?」
呂蒙の言葉に陳武は驚きを隠せなかった。
「…これは…驚きました。呂将軍はご存知でしたか」
「ああ、夕べ魯子敬殿の見舞いに行ったんだ」
「なるほど。あなたにはお話になったわけですか」
「まあな。あれをみれば病じゃないことくらいわかる」
陳武は頷いた。
「で、何かわかったのか?」
「実は、徐文嚮殿が気になることを打ち明けてくださいまして」
徐盛は魯粛が闇討ちに会う数日前に、宋定に会った時のことを陳武に話していた。
「ふぅむ…しかし、それだけで犯人と決め付けるわけにはいかんだろう」
「ええ。ですからこうして話を聞いているところです」
「具体的にはどうやっているんだ?」
「不遜な噂を流したり話したりしている者を片っ端から呼んで、なにか行動を起こそうとしている者を知っているかどうか、聴いています。噂話を誰から聞いたか、ということなら皆自分の疑いを晴らすためによくしゃべりますから」
「だがこんなとこで審問したって犯人の一味が名乗り出るとは思えんぞ」
呂蒙は呆れ顔で言った。
「捜査の手が伸びている、ということを知らしめるためです。別に犯人が名乗り出ることなど期待はしておりません。どうやら犯人は複数だというので、これが連中の内紛にでもつながれば良いと思ってはおります」
「それで、犯人の仲間が恐れて密告してくるかもしれないと?」
「そのようなこともあるやもしれぬ、と期待しております」
「…なるほど」
呂蒙は、陳武がもはや、昔の彼ではないことを実感した。
孫策が生きていた頃の昔の、周瑜に見とれて赤くなってしどろもどろになっていた朴訥な青年の影はすでになかった。
「だがもし、犯人がわかったとして、どうする?収監するのか?」
「城下を騒がせた罪を問わねばなりません」
「魯子敬殿のことは…どうするんだ」
「ご本人は捕まえなくていいとおっしゃるのですが、そうもまいりません」
「・・・殿のお耳に入れば隠してはおけんしな。俺もこの件は明らかにしたほうが良いと思う」
「そうなれば、犯人たちはおそらくは死罪になりましょうな」
「それでも、だ。今俺たちはこのように内紛をしている場合ではないのだ。そんなこともわからぬような者は孫呉にとって害にしかならん」
「呂子明殿…」
陳武は呂蒙に頭を下げた。
「個人の都合ばかりに気を取られている場合ではないということですな」
呂蒙は頷いた。
だが、呂蒙にも迷いはある。
この件が公になれば、そもそもの原因を問われるだろう。そうなれば噂の元である、怪我を負った魯粛自身が収監され、審問を受けることになるやもしれぬ。
呂蒙にとってはそれが一番頭の痛いことだった。
「だが、犯人がわかるまでは一切公言はするなよ」
「心得ております」
陳武と別れて下級士官の営舎を離れ、回廊を歩いていると、ちょうど前から徐盛が歩いてくるのが見えた。
「呂将軍、こちらにおいででしたか」
「お、なんだ徐文嚮、おまえどこにいたんだ」
「どうやら入れ違いになっていたようで」
「おまえも俺を探していたのか」
「はい」
呂蒙は将官用の部屋のひとつに徐盛を伴った。
「そうですか、やはり魯子敬殿は…」
「さすがに公瑾殿はお見通しであったか」
「はい。魯子敬殿の容体を聞くようにと」
「命に関わる怪我ではないが顔がだいぶ腫れていてな。あれでは当分登城は無理だな」
「そうですか」
「…公瑾殿はこの件について何か言われていたか?」
「魯子敬殿の件は任せてほしい、と」
「本当か?」
「はい」
呂蒙は腕を組んで考えた。
任せてほしい、とは、いったいどういうことなのか。
周瑜は何をするつもりなのだろう。
呂蒙は先ほど陳武が話していたことを思い出した。
「そういえば徐文嚮、宋定となにやら話したとか」
「はい。呂将軍は宋定をご存知でしたか」
「ああ、前の自営地が近くでな。俺も寒門の出だからな、いろいろと話すこともあった」
「そうでしたか」
「あいつはたしかに戦で手柄を立てることを第一に考えるような男だった。公瑾殿の不例であの作戦が無期延期になったことが残念でならぬのだろう」
「はい、そのようなことを言っておりました」
「で、おまえの心象は?」
「魯子敬殿に対し、かなりの不満を持っているようでした。例の噂のこともどうやら信じているようでした」
「そうか…」
「彼ならば犯人だとしても違和感はありません」
「…」
徐盛はそう淡々と言うが、呂蒙にとってはなかなか複雑である。知らぬ相手ではないから尚更だ。
「それと、周将軍が近いうちに呂子明殿に邸に来てほしい、とおっしゃっておりました」
「そうか。わかった、伺うとしよう」
「そうなさってください。某は明後日出立することになりました故、ご一緒できませぬが」
「お、決まったのか」
「はい」
「そうか、頑張ってこいよ」
「奮励努力いたします」
徐盛は一礼して去って行った。
心なしか、元気がなかったように思えた。
呂蒙は、それも仕方のないことか、とも思う。
この10年近く、周瑜の一番近くにずっと仕えてきたのである。
だが、今までが異例なのであって、国に仕える武将としては当然のことなのだ。
(どちらにしても、あのお体では戦に出ることはできないんだ。ゆっくり静養していただくことこそが肝要なのだ。そんなこと、あいつだってわかっているはずだ)
呂蒙は徐盛の去った方向をしばらく見ながらそう思った。
一方、こちらは兵に与えられた営舎の一室。
「おい、なんなんだ、あれは。治安都尉がきていたではないか」
「大方魯粛がしゃべったのだろう。病などとは片腹痛い。闇討ちされたなどとは恥ずかしくて言えぬのだろう」
「誰も余計なことはしゃべらなかっただろうな?」
男はまわりを見回した。
「…も、もし知れたら、俺達全員斬首だな…」
誰かがそう言った。
一瞬にして部屋中に不穏な空気が流れた。
しばらく、凍ったような冷たい雰囲気の中、誰も口を開こうとしなかった。
やがて、誰かがその空気を破った。
「味方をつくろう。だれか、養護してくれる者を。俺たちがやったことは正しいんだと」
「いや、これ以上広げない方がよいのではないか。秘密がばれるぞ」
「だが、もし、魯粛が俺達のだれかの顔を覚えていたらどうする?」
「その可能性はあるな…」
「ヤツが登城してくる前になんとか手を打たねば」
「やはり、殺してしまえばよかったのだ」
「…」
「もう一度、襲うか?」
「治安都尉が警護を強化している。迂闊に行動しては疑われる」
「ではどうする?」
「…」
この問いかけに、答える者は誰もいなかった。
厳oは字を曼才といい、彭城の人である。
特に諸葛瑾や歩隲とは親しい間柄であり、本人が言うには典型的な文官なのだそうである。
役職は騎都尉であるが、その学識の高さから孫権には重用されている。
その厳oが、ある時孫権に注進した。
「魯子敬が病とのことですが…実はおかしな噂が蔓延しております」
当然ではあるが、呂蒙が頭を悩ませていることなぞ夢にも知らず、ついに事は孫権の知るところとなってしまったのだった。
厳oは、魯粛が意見が対立していた周瑜に毒を盛ったという噂があることを孫権に語った。
「なんだと?それは真か?」
孫権が眉をひそめ、怒りにも似た表情になったので、厳oは急いで言葉を継いだ。
「いえ、ですからあくまで噂です。真偽のほどはわかりませんが、あの二人の意見が対立していたことは周知の事実です。その直後に周公瑾殿が倒れられたので、そんな噂が出たのではないかと私なりに推測したわけですが」
「ふぅむ。しかし、もしそれが本当ならば大問題だぞ。すぐに魯粛を出頭させねば…」
顔色を変えた孫権を見て、厳oは慌ててとりなした。
「殿、殿、どうか冷静に。私が察するに、この噂の出所は周公瑾殿の不例により大規模出兵が無くなったことを不満に思う下士官共ではないかと」
厳oの言葉に、孫権は唸った。
「では単なる噂に皆惑わされているということか。だが公瑾は真に病だというぞ」
「ええ、ですから渡りに船とばかりにその病と毒を盛られたということとを関連付けたがっている連中がいるということでしょう」
孫権は周瑜のことになると冷静でいられなくなる、と厳oは感じていた。
たしかに周瑜は先代からの忠臣であり、先だっての烏林赤壁・南郡での戦勝など、功は大きい。
今現在、孫軍では最高の軍人である。
彼に万一のことがあれば後事を誰に任せるのか。
厳oは彼を推挙してくれた張昭とそんな話をしたことがあったが、答えは出なかった。
同じことを孫権にも問おうとしたことがあったが、孫権は無言で睨んでそれ以上厳oに言葉を紡がせなかった。
そんな孫権が周瑜と魯粛を同じ天秤にかけることはまずない。
だからもしこの噂の真偽を問うのだとすれば、病だろうがなんだろうが魯粛を呼び出して審問するに違いないのだ。
だが厳oはそのどちらにも加担せず冷静に判断していた。
「しかし、魯粛はともかく、周瑜の容態が気になる。万一、本当に毒を盛られていたのだとしたら…」
「殿、魯子敬はそのようなことはまずいたしますまい。いくら意見が対立したといえ、二人は旧知の仲です。どちらも国のためを最優先に考える者たちであることは殿もよくご存知のはず。何より魯粛はそのような浅はかなことを考える者ではございません」
「うむ…そうだな、その通りだ」
厳oの言葉に孫権は頷いた。
そもそも、魯粛は周瑜の推挙によって孫家に仕えることになったのだ。
二人は交流もあり、お互いのことをよく知っているはずでもある。
意見が対立したからといってその相手を毒殺してしまおうとは浅慮にも程がある。
魯粛は、態度こそ尊大で謙虚とは言い難いものがあるが、決して暗愚ではない。
「噂だけが独り歩きしているようです。殿もどうか、冷静に」
孫権はしばらく考えて、一人頷いた。
「その噂を信じる者が魯粛を襲うことだってあるやもしれんな…。なるほど、それであやつは登城してこないのか」
「そんなところでしょう。あるいはもう襲われたのかもしれません」
「…どちらにせよ、そんな噂は放ってはおけんな。どうしたものか」
「難しい問題ですな。渦中の二人共が登城してこられぬのでは噂を否定も肯定もできません」
「うーむ…」
「ともかく殿が迂闊に動かねばよろしいのです。そうなさることで単なる噂だと流すことができましょう」
「それは良いとして、魯粛もだが、公瑾の容体が気にかかる。真実、毒ではないとしても、どのような病なのか、治す手立てがないものか、なにかしてやれることがないものか」
「直接お会いになればよろしいでしょう」
「うむ…会って話たいのはやまやまだがな…病が篤いという話でな。見舞いには来るなというのだ」
「では文を届けさせ、まずは様子を伺っては」
厳oがそう提案すると、孫権はしばらく考えて口を開いた。
「…いや、やはり直接行くことにしよう。顔を見なければ病のことはよくわからんからな」
「そうですね、それも良いでしょう。いかに病とはいえ、殿が訪問して会わないということはありえないでしょうから」
孫権は頷いた。
周瑜からの知らせが届いたのは、その次の日であった。